一、大洪水の原因について
明治十九年九月二十四日の大洪水は簡にして云えば、鳴滝川上流の氾濫に起因
している。鳴滝川は別に久保川とも称し、屋代川の支流として現に見る如き
小川で、全長一里、郷之坪、銅両部落の境界線を成して流れている。即ち、源
を谷山に発し、極めて急勾配をとって流れ、またその両側は険峻な崖を成して
いる。特に字石満より上流において両岸は厳しくそそり立ち、深く切り下げられた
その川の形状が漢方医の用いる薬研に似るとの理由で、一般に薬研谷の名称が
行われている。
案ずるに洪水の直接的な原因は、九月二十日頃からの連日の豪雨の為に、鳴滝川
の水源地たる谷山の地盤が弛緩し、その櫻ケ迫と云う部分が崩れ落ちて極めて
狭い鳴滝川の水路を埋め、薬研谷の両岸との間に一面に水を湛えて、降りしきる
雨に漸次その水量を増し、遂に支えきれずして薬研谷の両岸が崩壊して土砂を
押し流して鳴滝川の水路を絶ち、その辺り一面に水を湛え、漸次斯くの如くに
して、字登々六に至って窪地一面が海の如き極めて大なる水溜まりとなり、遂に
その莫大な水量を維持し得ずして、瞬時にして炸裂崩壊し、土砂、岩石を交えた
濁水は轟然たる音響とともに奔馬の如くに飛来し、郷之坪、銅一帯に大災害を
招来した。時に九月二十四日の夕景であった。
次節に述べるが如くに、洪水の襲来は二十四日の午後五時頃と午後七時頃との
二回であった。併し当時洪水直後に於いても、その第一回目が何処の地点に於いて
なされ、その後受けた第二回は如何なる理由で破裂したものなるかは確然と
知りえなかった。只、登々六の地点に於いては、可成りの高所に夥しい塵埃が
樹木等に懸っており、その真下から洪水の惨状が見られた等の点から推して
登々六に於いて大炸裂を成したものと当時極めて漠然と思考された。
今、その詳細に亘って極めることは、遺憾乍ら殆ど不可能事に属する。
明治十九年九月二十四日の大洪水は簡にして云えば、鳴滝川上流の氾濫に起因
している。鳴滝川は別に久保川とも称し、屋代川の支流として現に見る如き
小川で、全長一里、郷之坪、銅両部落の境界線を成して流れている。即ち、源
を谷山に発し、極めて急勾配をとって流れ、またその両側は険峻な崖を成して
いる。特に字石満より上流において両岸は厳しくそそり立ち、深く切り下げられた
その川の形状が漢方医の用いる薬研に似るとの理由で、一般に薬研谷の名称が
行われている。
案ずるに洪水の直接的な原因は、九月二十日頃からの連日の豪雨の為に、鳴滝川
の水源地たる谷山の地盤が弛緩し、その櫻ケ迫と云う部分が崩れ落ちて極めて
狭い鳴滝川の水路を埋め、薬研谷の両岸との間に一面に水を湛えて、降りしきる
雨に漸次その水量を増し、遂に支えきれずして薬研谷の両岸が崩壊して土砂を
押し流して鳴滝川の水路を絶ち、その辺り一面に水を湛え、漸次斯くの如くに
して、字登々六に至って窪地一面が海の如き極めて大なる水溜まりとなり、遂に
その莫大な水量を維持し得ずして、瞬時にして炸裂崩壊し、土砂、岩石を交えた
濁水は轟然たる音響とともに奔馬の如くに飛来し、郷之坪、銅一帯に大災害を
招来した。時に九月二十四日の夕景であった。
次節に述べるが如くに、洪水の襲来は二十四日の午後五時頃と午後七時頃との
二回であった。併し当時洪水直後に於いても、その第一回目が何処の地点に於いて
なされ、その後受けた第二回は如何なる理由で破裂したものなるかは確然と
知りえなかった。只、登々六の地点に於いては、可成りの高所に夥しい塵埃が
樹木等に懸っており、その真下から洪水の惨状が見られた等の点から推して
登々六に於いて大炸裂を成したものと当時極めて漠然と思考された。
今、その詳細に亘って極めることは、遺憾乍ら殆ど不可能事に属する。
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