山口県周防大島物語

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屋代村郷ノ坪 明治十九年大洪水実録

2022年07月19日 19時59分44秒 | 明治19年屋代村郷ノ坪大洪水
一、大洪水の実況について(2)


 兎角する中にその日も夕暮れとなったが、凡そ午後七時頃、再び轟音たる音響
 を発した。近親者の行方や安否を憂うるの余り、危険を冒して災害地に近づいて
 いた人々も、驚いて辛うじて逃げ去った所に再度、水魔が襲った。しかし、この
 際は皆、用心をしていた為に、命を落とした者はなく、砂礫の平原が水に洗われ
 大岩石等を随所に止めたに過ぎなかったらしい。

 斯うして夜に入った。今は如何とも施す術もなく、避難した人々は西連寺等に
 集まって、炊き出しの飯を食い、不安の中に床に就いた。
 真に今思っても慄然とする悪夢の如き一日であった。

 明けて二十五日は、さしも猛威を逞しゅうした豪雨も止んだ。
 被災地はと見れば、昨日まで点々と立ち並んだ人家は跡形も無く、徒に
 大石土砂は山の如くに盛り上がり、親を失い子を無くし、又は兄弟に死なれ
 たる者数知れず、その悲惨の状は正視するに忍びないものがあった。

 残された罹災民は、真に文字通りの着の身着のままの悲惨のものであった。
 その数多い水死者の中でも、殊の外に気の毒の感を深くしたのは、郷之坪に
 居宅を構えた、郡長、田川愿一氏の家族三人全員(郡長は当時、島末地方に
 出張中にて難を免れたが)と郡長代理の林首席書記の受難であった。

 漸く気を取り直した部落民は、二十五日の減水を待って、第一に死体の探索の
 為に各方面を分担して、屋代川の沿岸、屋代川の川尻方面、小松海岸、蒲野
 沖浦、大畠、さては笠佐島、神代、伊保庄方面に至るまで捜査の手を延した。

 即ち、或いは郷之坪、銅の水田の砂中から掘り出し、屋代川の濁流に押し流されて
 海浜に打ち上げた死体を発見し、地形の関係上、川の水流が緩慢になる片山方面
 には河岸に死体数個が懸っていたりした。
 然るに、部落民の連日の熱心な探査も甲斐が無く、遂に死体の発見されざる者
 七人を算した。

 やがて久方ぶりに空は晴れたが、毎日の様に棺桶を作る大工の槌の音は物悲しく
 響き、日毎日毎に葬式は続いた。
 混雑の中にも、亡き人は鄭重に葬り、悲しみの中にも漸く、心落ち着いた頃、
 砂岩の原を前にした人々の胸に力強く沸き上がるものは災害地復興の計画に
 外ならなかった。


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