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「毒の園」

2009年06月23日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

フョードル・ソログープ 昇曙夢訳
(『書物の王国5 植物』国書刊行会 所収)



《あらすじ》
青年は窓の下の花盛りの園を眺め、そこに美しい女がやってくるのを待っている。青年の心臓を痛ましく麻痺させる蠱惑の園で、その毒気によって育てられた美しい女と彼は、恋の歓楽と悲哀とに酔うのであった。


《この一文》
“「おお恋しき君よ、もし貴女の接吻のうちに死があるなら、その無量の死を私に飲ませて下さい! 私に寄添って私に接吻して下さい! 私を愛して下さい! 毒に沁み込んだ貴女の呼吸(いき)の甘い香りで私を蔽うて下さい! 死の為の死を私の身体と私の心に注ぎ込んでこの体を破壊(ぶちこわ)して下さい!」”



ピエール・ルイスの「神秘の薔薇」という短篇を読む為に借りてきた本のなかに、ソログープの名前を見つけました。おお、これはちょうどいい。

「毒の園」は、毒のある珍しい植物が多く植えられた美しい園、その主である高名な、しかし変わり者の植物学者、彼の美しすぎる娘、彼女に恋する青年が登場する物語です。

読んでみてすぐに、ホーソーンの「ラッパチーニの娘」を思い出しました。この「毒の園」と「ラッパチーニの娘」は、よく似ています。よく似ているというよりも、特にモチーフや細部の描写について言えば、ほとんど同じです。元となる伝説やなにかがあるのでしょうか。両者はとてもよく似た物語ではありますが、ただ、結末が全く違う上に、物語から受ける印象も随分異なっています。

「ラッパチーニの娘」が、イタリアの光に溢れた明るい世界で、毒によって育てられた娘の、その体質に反して清純で優しい心を描いているのに対し、自らの毒によって相手を死に至らしめることを自覚する冷酷な、夜のような暗さと静けさ、月の光のような美しさを持つ娘を描いた「毒の園」とでは、性質は真逆とも言えますね。面白い。これはお好みで読み分けられるのではないでしょうか。

私はちなみにソログープの方がいっそう好きです。なぜなら、「ラッパチーニの娘」における青年ジョバンニが、あまりにひどい男だからです。自分から娘に恋しておきながら、トラブルに見舞われるなり、彼女を「毒婦」呼ばわり(←出た! 毒婦! 事実だけどひどい!)です。八つ当たりです、さいてーです。恋する男に罵られ、傷ついた心のまま娘だけが死にます。これが「ラッパチーニの娘」。悲しすぎる! まあでも、これはこれでとても面白いお話です。

一方、「毒の園」における青年は、彼女の身体には死をもたらす猛毒があると知りながら、むしろその毒に当たって死にたい! と宣言し、女との恋を果たします。ふたりは毒のためにこの世の人ではなくなりますが、しかし、これはなんとも美しいではないですか。美しい。ソログープの繊細な描写も冴え渡っている感じです。素晴らしいですね。夢のようですね。うっとりするような情熱、美と愛と死への燃え上がる情熱。たった一度の接吻のためにこの世を捨て去る恋人たちの姿は、あまりにも魅力的です。美しいなぁ。


それにしても、美しすぎるものというのは、この世には馴染まないものなのかもしれないな、と改めてしみじみとしてしまいました。


 *「ラッパチーニの娘」は、青空文庫にて読むことができます。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000905/card4105.html





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「白いお母様」

2009年06月12日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト
ソログープの短篇を収めた3冊



「白いお母様」
ソログープ 昇曙夢訳
(『決定版ロシア文学全集29』(日本ブック・クラブ)所収)



《あらすじ》
サクサウーロフは、かなわなかった初恋に義理立てし、また生活に何の不自由もないことから独身を通している。白いライラックの花が、死んでしまったタマーラの思い出を呼び起こし、彼女はサクサウーロフの夢のなかへやってくる。復活祭の日に出会った小さな男の子にも、不思議とタマーラの面影を見いだすのだが……。


《この一文》
“『自分が買って来たということに何も意味があるんじゃない。ただこの花を買おうと思ったこと、それを今忘れていたということに暗示があるんだ。』”




ソログープの「白いお母様」を読みました。タイトルがとても美しいので以前から読んでみたかった作品でしたが、ソログープと言えば、読むごとに遣る瀬無い厭世観に覆われて、もういっそ死んでしまいたい! と底なしに気持ちが沈んでしまう人ではなかったかしら…という記憶があったのですが、とりあえず読んでみました。

驚いたことに、私が抱いていたイメージとは裏腹に、この「白いお母様」はたいへんに優しく美しく、温もりのあるお話でした。あれ? 救いがたく暗い作品ばかりというのは私の思い違いだったのかしら。えーと、たしかソログープの「光と影」があの本に収められていたはず……(読み返し)……ぐはっ!! やっぱ死にたくなる……(/o\;)...! 影絵の狂気がひしひしと……うわ~~……く、暗いな。
えーと、もう一個「死の刺」というのが入っている本も持っていたよな。なんかタイトルからして既にあれだけど…(ちらっと読み返し)……そうだ、男の子が水に飛び込んじゃうやつだっけ。……やっぱ死にたく(以下略。

という感じで、これまでに読んだ2篇はとても美しいながらも破滅的で、私の心を限りなく凹ませたのですが、この「白いお母様」はまったく異なった感触のお話でした。たしかにこの世ならぬ美しいものへの憧れを感じさせてくれるところでは共通点がありますが、読後感がまるで違います。こちらは、現世で生きていくための希望を、この世ならぬ美が、優しく美しく与えてくれます。美しいなあ。

以下、この物語の要約。

サクサウーロフはどうしてだか、世間に対してうんざりとした冷たい気持ちしかありません。財産も十分にあり、家のことをまかせている信頼できる従僕がいて生活に不便もなく、結婚する相手も、その必要性もまったく感じていません。しかしその彼にもただ一度だけ恋をした相手があって、そのタマーラは物静かな美しい人だったのですが、彼から求婚を受けると間もなく、それに応えることなく死んでしまったのでした。
復活祭の日に、祝福の接吻を与える相手として、汚れた大人ではなく純真な子供を探していたサクサウーロフは、レーシャという男の子と出会います。まだごく幼い彼は継母から虐げられており、夢のなかに現れるタマーラや、自分のことを憎からず思っている年頃の娘ワレーリヤの言葉などもあり、結局はサクサウーロフはレーシャを引き取ることになります。

サクサウーロフにとってのタマーラのイメージが、白いライラックの花、というところがとても美しいです。なんて美しいのだろう。そしてサクサウーロフが、ある時から目につくものの中に徴を見いだしていくところも良いです。冷たく退屈だと思われた日常の中にも、美しいものははっきりとその姿を現していて、それを見、それに触れることで、生活は少しずつ変化してゆく……。

とにかく、とても幻想的で美しい、どこまでも美しい物語です。少し、ソログープに対する認識が変わりました。こういう優しいお話も書くんですねー。もっと読みたい。とりあえずは、狂気と邪悪とエロスの悪魔主義ばんざいな長篇として名高い『小悪魔』を読みたいですね!

狂気! 邪悪! なんだかんだ言っても私はこういうのが好きなんです。この世はうんざりだ、もう死にたい…とか言っても私はいつも全然死にそうにないから大丈夫なのです。というか、もうだめだ…破滅だ…とか、そういう気持ちになるのが私にとっての快感で、生きる糧となっているのかも。嫌な奴だなー、まったく。でも改める気はないです! 好きです、滅亡!


あ、なんかせっかく心温まる「白いお母様」の話のはずだったのに、なぜか悪魔主義に傾いてしまった…(/o\;)
しかし、ソログープの作品にある「美しさ」は、私をたしかに惹き付けるところがあるので、『小悪魔』には期待が高まりますね。そのうち借りてこようっと。うふふ~~。




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「赤い花」

2009年05月26日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

ガルシン 中村 融訳
(『世界文学大系93 近代小説集』(筑摩書房)所収)


《あらすじ》
癲狂院に入れられた「彼」は、庭園の花壇に咲く異様にあざやかな赤い花を見つける。彼は、この花を摘む行為が自らがなしとげねばならぬ、地上を悪から救うための偉業であると考え、ひとつひとつ赤い花を摘み取っていく。


《この一文》
“朝になって彼は死体となって発見された。その顔は、安らかで明るかった。薄い唇と、深くくぼんで閉じた目をもつ疲れ果てた面ざしは、何か得意な幸福といったような色を表していた。”




10日くらい前に読んだのですが、恐くて感想が書けませんでした。「彼」は狂っている。赤い花にこの世の悪のすべてを象徴させ、それを摘み取ることで自分が世界を救うことになるのだ、なんて、どうかしている。馬鹿気ている。まあ、狂っているのだから仕方がないか。と、このように思うために書かれた作品ではないでしょう。そんな風にはとても思えないところに、この作品の力があると思います。しかし、作者はつまりどういうことを言いたかったのだろう。私はこれをどのように受け止めたら良いのだろう。ただ、恐れるだけでなくして。

この物語の恐ろしいのは、こういうことだろうか。
まず、「彼」は癲狂院に入れられ、査問を受ける身の上ではあるが、ほんの一年前までは「彼」が査問をする方の立場であったということ。なにかのきっかけが、「彼」をすっかり狂わせてしまったらしいこと。そして狂気に陥った「彼」の異常な行動、異様な論理、手に負えない凶暴性などは実際に恐怖を感じさせます。

もうひとつは、そのように狂ってしまい破滅へとひた走る「彼」ですが、花壇の赤い花を全て摘み取り、世界を救うためなら死すら厭わないまでの使命感に燃え、実際にそれをやり遂げ、達成感と幸福感のなかに死んでゆく「彼」のその姿に、たしかにある種の爽快さ、美しさを見いださずにはいられないことです。

「彼」にとっては、赤い花を殲滅することが使命でありその達成こそが喜びであったわけですが、たとえばいわゆる正気の、正しく立派な人たちが、時にその生涯と全精力を捧げて、克服すべき障害を乗り越えて成し遂げた偉業によって、満足感と賞賛に溢れた生涯を送るのと、あるいはごく「当たり前の」人々が、ごく「当たり前の」生き方を追求し、それを妨げる邪悪なものを排除しながら「当たり前の」幸福な生涯を送ろうとするのと、どこがどのくらい違っているのでしょう。いずれも、自分の幸福を実現しようとし、ついでに他人の幸福をも願おうという点では、彼だってその心根は同じだとしたら。

だが、実際のところ、赤い花なんか摘んだところで、世界に平安は訪れない。どうせなら、もっと目に見えて役に立つことをしろよ。おわり。
……だが、本当にそうなんだろうか。いや、そうなんだろうけど、本当に、すっかりそうと分かりきったことなのだろうか。誰も、自分の行動が結局のところは赤い花を摘むのと大差ないと知らないまま、それをただ「当たり前」だからと、「正しいことだ」と信じて、そうやって生きているのではないだろうか。
だとしても、だからどうしたというだけの話かもしれないけれど、私は心細くなる。私は、なにかを、なんであれ、深く、真剣に信じきるということが恐ろしくてできないから、こんな風に思うのかもしれない。


私は「彼」を恐れたと同時に、憧れというような気持ちが湧いてくるのも感じる。臆病な私には選べない。狂気か、正気か、いずれにしても選ぶことができず、幸福も満足も、自分から得ようとも認めようとさえしないまま、怯えながらただ流されてゆくだけだ。

私ならきっと、赤い花を見つけても摘み取るだけの勇気もなく、ただ遠くから見つめるだけだろう。それがひとりでに枯れるのをひたすら待つだろう。そして、秋が来て冬が来て、花が視界から消えたことに安心するしばしの時間を過ごしたのち、また春が来て、あたらしく咲き出した赤い花を見つめるのだろう。いつまでも踏ん切りはつかない。

それとも、私自身が摘み取られるべき悪の花だろうか。なにも持たず、なにも生み出さず、なんの手だてもない私は、摘み取られ、撲滅するべき対象となっても仕方がないだろうか。そうかもしれない。なぜ私ごときに摘み取るかどうかを選択する資格があると考えたものだろう。

正義とか悪とか、正気とか狂気とか、幸福だとかそうでないとか、私に分かることはほとんどない。ただ、とめどなくぼんやりとした暗闇がひろがってゆくばかり……




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A・H・トルストイ-「恋」

2009年05月19日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト


A・H・トルストイ 北垣信行訳
(『世界文学大系93 近代小説集』(筑摩書房)所収)



《あらすじ》
エゴール・イワーノヴィチには家庭も仕事もあったが、やはり既婚者であるマリヤ・フョードロヴナとの恋を成就させるためにすべてを捨て、マーシャの妹ズュームとともに彼女を迎えに行くのだが、彼女の夫は決してそれを許さず――

《この一文》
“「君はぼくを棄てることができるのかね?」彼は立ちあがると、火掻き棒を取って、それを炭のなかに突っこんだ。「ところが、ぼくはこう思っていたんだぜ――君とぼくだけだと……君とぼくだけだと。」”




「カリオストロ」、「五人同盟」のA・H・トルストイの短篇。この人の作品は、どうやらとてもドラマチックであるようです。「カリオストロ」などは、私はもう夢中になりました。あまりに……こう、面白くて!! 鮮明なクライマックスの、その鮮明さが非常に印象的です。

この「恋」という短篇も、それぞれに家庭を持つ男女の恋を描いた、言ってみれば普通のラブロマンスなのですが、結末へさしかかるあたりの勢いがすごい! あの加速度はすごい。映画のストップモーションのよう。盛り上がります。わなわなしてしまいました。クライマックスの面白さは異常です。いいなぁ! しかし結末が悲しいのはいつものことなのでしょうか。「カリオストロ」もハッピーエンドのようなそうでもないような感じでしたけど(たしか…)。

それから、ヒロインの描き方がよいですね。「カリオストロ」のマリヤもかなり可愛い女性でしたが、この「恋」のマリヤもなかなかです。ふとした瞬間の描写にぐっときます。

“ふり返ってみると、マーシャは目を閉じたまま坐っていた。その濡れた睫毛からは涙が頬をつたって流れていた。”

とか! う-む、美しい。実に美しい。それから上にも引用しましたが、エゴールのこの台詞もたまりません。

“「ところが、ぼくはこう思っていたんだぜ――君とぼくだけだと……君とぼくだけだと。」”

君とぼくだけだと……君とぼくだけだと。……うぅっっ!! こういうところが、私には魅力的でしかたがありません。もうだめだ。




この人の作品では『苦悩の中を行く』が名作なのだそうです。そのうちに読みたいところです。また、解説に挙げられている『アエリータ』(映画化されたことがあるらしい)や『技師ガーリンの双曲面体』(大昔に邦訳があったらしい)なども読みたいのですが、どこかで読めないものですかね。




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「マカールの夢―クリスマス物語―」

2009年05月11日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト


コロレンコ 中村 融訳
(『世界文学大系93 近代小説集』(筑摩書房)所収)



《あらすじ》
クリスマスの前夜、厳寒の密林に迷い込んで死んだマカールは、数年前にやはり死んだはずの顔見知りの僧侶イワンに連れられて、主のもとへ行く。裁きを受けるマカールは主の面前で自身の生涯について語るのだが……

《この一文》
“一方、自分とても他の人々と同じように――大地も空も映している澄んだ、明るい目や、世のすべての美しいものに向かって開かれようとしている純真な心をもって生まれたのだということを承知していないはずはない。だからもし、今自分がおのれの暗い、恥ずかしい姿を地下にでもかくしたい気になったとしても、それは自分の罪ではない……では誰の罪か?――これは自分にはわからない――ただ自分にわかるのは、おのれの心の中では辛抱もついにしきれなくなったということだけなのだ。”



なんとも奇妙な味わい。不思議な感触です。これは、たしかに夢らしい。泣きながら目を覚ますときのような、あのやたらと悲しい感じ。

予想していた以上に、印象的で、面白い短篇でした。かなり面白かった。私がものすごく好きなタイプのお話です。素朴で淡々としていますが、非常に幻想的で美しい。特に、最後の場面は素晴らしいです。あの終わり方……! ああ、悲しくて、優しい話だ、と同時に静かに怒っているようでもあり。なんとも言えない気分です。

マカールが死んで、その生涯を裁きにかけられるとき、彼は自分の一生涯についてを説明させられるのですが、このあたりマカールと主とのやりとりがとても興味深いので、色々と熟考できそうなのですが、なんだか今はうまく考えられません。ここを深く考えたら、きっと面白いだろうとは思うのですが……。今は、この夢の余韻が胸にいっぱいで、あまりものを考えることが出来ません。


私は夢の話が好きです。異常に心惹かれます。内田百の諸作品、夏目漱石の『夢十夜』、ルイ=セバスチャン・メルシエの短篇「血税の島」なども猛烈に面白かった。私はこういう、ちょっと薄暗くて不気味、色鮮やかで幻想的ななかにも少し皮肉の風味が感じられるような夢の話を特に好みます。ここへ新たにこの「マカールの夢」も、お気に入り夢物語リストに追加しておきましょう。
他にも素敵な夢物語をご存知の方、どうか私に教えてくださいませ。あなた自身の夢のお話でも構いません。私は、どうしてだか、夢の話が好きでたまらないのです。



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『チチコフの遍歴』

2009年05月08日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

―プロローグとエピローグのある十の断章からなる叙事詩―

ブルガーコフ 水野忠夫訳(『ロシア短篇24』集英社 所収)



《あらすじ》
ゴーゴリの『死せる魂』の主人公チチコフは遍歴の末、モスクワで馬車から自動車に乗り換え、百年前に出発した旅館の前へと戻ってきた。そこで天才的チチコフはその類いまれな才能で、巨万の富を築き上げていくのだが――。

《この一文》
“「チチコフをこちらに連れてこい!」
「探しだせません。みんな、姿をくらましたので……」
「ああ、姿をくらましただと? そいつは結構! それじゃ、おまえが身代わりになれ」
「とんでもない……」
「黙れ!!」
「ただいま……いま……少し時間をください。探します」
 またたくまに、チチコフが発見された。”



はあ~~、面白い!!
なんて面白いんだろう! ブルガーコフ! ブルガーコフ!

このお話の元になっているのは、ゴーゴリの『死せる魂』らしい。私はまだ『死せる魂』は読んだことがないので知らなかったのですが、ブルガーコフのこの短篇の内容は『死せる魂』を下敷きにして書かれているそうなので、ここへきてはじめて急激に読みたさが募りました。死んだ農奴をどうしたこうした…という話らしいということと、3部作の予定だったのにゴーゴリがせっかく書いた第2部を火にくべてしまったとかいう逸話があったような気がすること以外には私は『死せる魂』について知っていることはないのですが、なんだかとっても面白そうではないですか。またしても古典的作品を誤解していたことが判明。ロシア文学は結局のところどれも面白いんですよね。読んでない大物が山程あるわ。楽しみだわ。

さて、ブルガーコフの短篇です。この人の作品には色鮮やかで豊かなイメージとわくわくするような疾走感があるので、私は大好きです。この『チチコフの遍歴』も震えるほど面白かった。ブルガーコフの作品で私がとりわけ好きなのは『巨匠とマルガリータ』ですが、『悪魔物語』もなかなかです。『悪魔物語』では主人公のコロトコフが現物支給されたマッチを夜通し擦ったあと、緑の草原に巨大なビリヤードの玉が二本足で出現するという夢を見る場面があるのですが、この夢の洒落たグロテスクさというか洗練された不気味さというか、そういう雰囲気がたまりません。ブルガーコフの夢の描写は、ものすごく魅力的です。私もこんな夢が見たい! といつも思わされます。

さて、『チチコフの遍歴』もブルガーコフが見た夢という形式をとって描かれているようです。そして、空を飛ぶような軽快なスピードで、物語はどんどんと進んでいきます。いちいち皮肉めいたユーモアを満載し、猛スピードのまま結末へ。上に引用したクライマックス直前の部分では爆笑でした。オチも最高です。ちょっと悲しいというか、痛いような気持ちになるけれど。そこがいい。

それにしても、うーむ。うーむ。なんて面白いんだろう。ブルガーコフってほんと天才だな。素晴らしい、素晴らしい!


というわけで、短いながら、猛烈に面白かったです。


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『大尉の娘』

2009年04月11日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

プーシキン作 神西 清訳(岩波文庫)


《内容》
プーシキン晩年の散文小説の最高峰。実直な大尉、その娘で、表面は控えめながら内に烈々たる献身愛と揺るがぬ聡明さを秘めた少女マリヤ、素朴で愛すべき老忠僕―――。おおらかな古典的風格をそなえたこの作品は、プガチョーフの叛乱に取材した歴史小説的側面と二つの家族の生活記録的な側面の渾然たる融合体を形づくっている。

《この一文》
“つまり犯人の自白というものが、その罪証を完全に示すために不可欠のものと考えられていた訳だが、この思想はただに根拠がないのみならず、法律の常識に全く矛盾するものなのである。なぜなら、もし被告の否認がその無罪の証明として認められないのなら、その自白に至っては益々その有罪の証拠とはなり得ぬ筈だからである。”






私の書棚は、私の背面に設置してあります。今日、ふと振り返るとこの本と目が合いました。そう言えば、このあいだ買ってあったのだっけ。本当は別の本を取ろうと思っていましたが、ついページを開いてしまったのです。


てっきり田舎の要塞へ任官された貴族の若様と、彼の上司である大尉のお嬢さんとの気楽なロマンスになるのかと思って油断していた私は、突然まさかの急展開となった驚きに、胸がドクっと打ったきり物も言わず考えず、2時間ほどで最後まで読み通してしまいました。びっくりした。あんまり面白くて。

面白い、というのは少し違うかもしれない。ただ、目が離せなかったのはたしかです。物語がぐんぐんと進行していくので、私は振り落とされないように必死でした。表書きに「プーシキン晩年の散文小説の最高峰」とありますが、なるほどと思います。幸福の瞬間も、恐怖の瞬間も、悲劇の瞬間も、なにもかもあまりに鮮やかに描かれているので、私はすっかり他のことは忘れてしまいました。

善良(しんせつ)と気位(きぐらい)、ということが、このお話を爽やかなものにしているのでしょうか。主人公の若い士官ピョートル・アンドレーイチ・グリニョフは、持ち前の親切心と貴族としての誇りでもって、次々と彼の前途に立ちふさがる絶体絶命のピンチを切り抜けていきます。このあたりは読んでいて清々しいものを感じますが、それにしても、このピョートルさんの坊ちゃんぶりにはハラハラさせられました。彼に忠実に付き従うじいやのサヴェーリイチの気苦労を思うと、可哀相でたまりません。サヴェーリイチは本当に愛すべき人物ですね。

あらすじを書くのはダルイのではしょりますが、まあとにかく、最初に年老いたピョートルが孫のペトルーシャに自身の過去の冒険を語り始めるところから、皇帝を名乗り叛乱を起こしているプガチョーフとの不思議な出会いとその後の因縁、そして最後の大団円に至るまで、息もつかせぬ迫力ある物語でした。
のんきな若様が、突如として動乱の最中に巻き込まれていく場面には震え上がりました。さらりと事も無げに人のいい大尉やその奥さん、部下が死んでいき、またしてもさらりと同僚が裏切り者として再登場したりします。もうびっくりですよ。
ついでに、謀叛者のプガチョーフも単なる悪人というよりは、むしろ愛嬌のある人物として描かれているところが興味深かったです。大尉の娘マリヤ・イヴァーノヴナを巡って争うことになるシヴァーブリンに対するピョートルの心情の描き方もよかった。怒りや憎しみよりも、最終的には気まずさというか憐れみの気持ちが勝ってしまうというか…善良と気位というのが随所に見えて、ピョートルもまたかなり愛すべき人物であると思わされました。

しかし、ピョートルが善良だったのと同じように大尉もまた実直で善良な人物であったのに、ピョートルは生きながらえた一方、大尉が無惨に殺されなければならなかった理由はなんだろう。彼等の行く末を分けたのは、何なのだろう。巡り合わせ、運の強さ、そういうものだろうか。こういうことを考えると、物語の結末はたしかに幸福に満ちているけれど、どこか心細さとかやり切れなさを感じずにはおれませんでした。人生は辛く悲しい。


ひとつひとつの描写がいきいきとして、なにか映画を観ているような感じでした。そのくらいに鮮明。恐ろしく良くできた物語です。とにかく驚きました。ほかに言うことはありません。プーシキンって、こんなに凄かったんだ。と、今日になって気がついた私は幸運ですね、きっと。ほかのも読みたいとずっと思っていたところだったので。実に、幸先がいいわい。



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『ドストエフスキイ後期短篇集』

2009年01月29日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

米川正夫訳(福武文庫)



《内容》
マイナスをすべて集めればプラスに転化しうる――思索に思索を重ねた末に辿りついた、後年のドストエフスキイの逆説の世界観がちりばめられた後期傑作8短篇。

《収録作品》
*おとなしい女 空想的な物語
*ボボーク
*キリストのヨルカに召されし少年
*百姓マレイ
*百歳の老婆
*宣告
*現代生活から取った暴露小説のプラン
*おかしな人間の夢 空想的な物語

《この一文》
“ けれど、すべての人間は、同じものを目ざして進んでいるのではないか。少なくとも、すべての人間が、賢者から、しがない盗人風情にいたるまで、道こそ違え、同じものを目ざして行こうとしているのだ。これは月並みな真理ではあるが、この中に新しいところがある。というのはほかでもない、おれはあまりひどくはしどろもどろになり得ない。なぜなら、おれは真理を見たからだ。おれは見た。だから、知っているが、人間は地上に住む能力を失うことなしに、美しく幸福なものとなり得るのだ。悪が人間の常態であるなんて、おれはそんなことはいやだ、そんなことはほんとうにしない。ところで、彼らはみんな、ただおれのこうした信仰を笑うのだ。しかし、どうしてこれが信ぜずにいられよう、おれは真理を見たのだもの、――頭で考え出したものやなんかと違って、おれは見たのだ、しかと見たのだ。
  ――「おかしな人間の夢」より   ”



夢で見たことなんて、何の意味も、価値もない。私はそんなふうには思えない。その夢を見たことによって、それまでの人生が一変してしまうような体験は誰にでも起こり得る。私にも起こる。
世の中には、「夢解釈」とか「夢分析」というものがあって、夢で見たことをあれこれ考え直したりする人もいる。私もそういうのを面白いとは思うけれど、夢で得た幸福感や絶頂感が台無しになりそうな場合は信じないことにしている。
結局のところ、ある夢を見て、目覚めた時、それが自分にとって重大な意味と価値を持つという手応えがあった。それでいいじゃないか。だって、私は見たのだもの、たしかにそれを見たのだもの。
「おかしな人間の夢」という物語は、そういう私の考えを強く補強してくれました。

ここに収められた短篇はどれもすごく面白かったです。「ボボーク」は別のアンソロジーにも入っていたので、読むのは2度目ですが、最初に読んだときとは別の印象を受けました。墓場に横たわる死者たちの会話を盗み聞くという物語なのですが、終わりの方にさしかかって、エレンブルグの『フリオ・フレニト』を思い出しました。フレニト先生が言っていたことを思い出しました。しかし、これは多分逆で、『フリオ・フレニト』の中にドストエフスキイの存在を感じるべきところだったのかもしれません。違っているかもしれませんが、そんな気がしました。

また、別の短篇ではストルガツキイの『ストーカー』を思い出したりもしました。「おかしな人間の夢」ですが、この物語の上に引用した部分では、すごくレドリック・シュハルトを思わせます。人類に絶望しながら、でも愛しているのです。叫ばずにいられないのです。自分では何もそれらしいことは出来ないと分かっていても、せめてただ祈らずにいられないのです。信じずにはいられないのです。泣きそうです。

この「おかしな人間の夢」は、意外にもSFテイストな作品です。ユートピア小説ともいえるかもしれません。この作品の強い印象は、ほかの7作品の印象をことごとく吹き飛ばすほどの威力がありました。ここへきてようやくこの本の裏に書かれてあった説明書きの意味が理解できました。「マイナスをすべて集めればプラスに転化しうる」。なるほど。そういうことだったのか。

主人公は、自殺するつもりで装填済みのピストルも用意してあったのに、なぜかつい椅子に座ったままで眠ってしまう。そして夢を見るのだが、そこで信じられないくらいに幸福な「地球」の人々に出会う。幸福で善良な人々に囲まれて、魅力と美と真実に貫かれながら彼は目覚める。これが単なる夢に過ぎないとは言えそうもないことには、彼の人生はすっかり一変し、彼はもう決して死にたいとは思わなかったのだ。

私は本を持つ手が冷たく震えるのを抑えることができませんでした。血がすべて真ん中に集まってしまったのです。ほんの短い物語ですが、ここには私の探しているものがたしかに存在しています。

ただ、ひとつ不思議なのは、きっとこれまでにもこの「おかしな人間の夢」をはじめ数々の作品においてドストエフスキイの激しさに触れて感激し、世界を人類を新しい目を持って見つめ、実際の行動に移した人さえ多く存在したことでしょう。それにも関わらず、依然として人類も世界もさほど良くなったように思えないのはどうしたことなのでしょう。文学にそれを期待するのが間違っているのですか。そんな力はありませんか。私はナイーブ過ぎるのですか。そう思うと、ふいに虚ろな気持ちになってくる。

いや、だがそうではないはずだ。私は信じる。多分100年や200年では足りないのだ。これは種子なんだ。いつかその日が来たら、爆発的に成長する可能性を秘めた、堅い殻に守られた種子なんだ。物語が人を惹き付ける間は、きっと眠ったままだろう。そうやって受け継がれていくだろう。でも、いつか芽吹くに違いない。こんなことを信じることができる。だって、ここで心が動いたことは事実なのです。なんの根拠もなく、何かに憧れたりすることは出来ないはずです。もしそれが決定的に無意味で無価値なものだとしたら。



私は恥ずかしながらドストエフスキイをあまり読んだことがなく、とくに主要な作品にはまったく触れたことがありませんが、この人の作品は思っているよりもずっと読みやすく、そこでこの人が伝えたいだろうことが直接的に伝わってきます。要するに、面白いということです。長編もひょっとしたら読めるかもしれないという希望がいよいよわいてきています。
今のところ私には、ドストエフスキイという人は気軽に手を出すにはあまりに巨大な人物ですが、思いきって読み進めたならば、その人の巨大さは思っていた以上であったということをさらに深く知ることになるのではないかと感じているのでした。





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『チェーホフ・ユモレスカ 傑作短編集1』

2008年10月10日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト
チェーホフ 松下裕 訳(新潮文庫)


《内容》
結婚式の夜、苦悩の果てに男が過去を打ち明けたときの新婦の反応は。上演中なのに大声で俳優を罵る、劇場勤めの老人の運命は――。あっと驚く皮肉な結末に導かれる愛すべき登場人物たちは、100年以上を経た今も生きている! 1000編もの作品を残したロシア最高の短編作家チェーホフ。ユーモアたっぷり、洒脱で鮮やかなショートショート傑作集、本邦初訳を含め、すべて新訳の65編。

《この一文》
“「ブラーヴォ、マクス! アンコール! ハハ! かわいい人! もう一度!」
  ――「偏見のない女」より  ”




松下氏のあとがきに、私が思ったようなことはすべて書かれてあったので、もうあれこれ書くのはやめました。ついでにそのあとがきにはエレンブルグの言葉が引用してあって、そう言えばエレンブルグはチェーホフが好きだったのでした。私はそんなエレンブルグが好きさ。

このところ、微熱による重度の倦怠感に悩まされていて、思ったように考えたり行動したりすることができません。こういう状態でチェーホフを読むのは、あまりよくなかったかもしれません。いや、面白かったのですが、なにか哀しくなってきて。

「ユモレスカ」とあるので、愉快な物語が多いことを期待していましたが、そう言えばこれはチェーホフなのでした。チェーホフ作品はこれまでにいくつか読みましたが、読後にはいつもなんとなく物悲しさを覚えてしまいます。今回も、わははと笑えるものよりもむしろグサっと突き刺さる悲哀の方に、ずいぶんと気を取られてしまったようです。

さて、65もある物語の中で、特に印象的だったのは、「偏見のない女」。これは哀しい作品が多いような気がするなかでもとりわけ明るい、心があたたまる美しい物語でした。もう泣きそうです(←熱のせい)。
自信に満ち、力強い雄牛のような男マクシムは、気が狂いそうなほどに恋いこがれているエレーナ・ガブリーロヴナと結婚することができたが、実はマクシム・クジミーチには他人には言えぬ秘密があり……という物語。これは、実に素晴らしい結末! なんて素晴らしい、美しい話だろう! 最高だ! 私はこういうのが好きです。すべての人生がいつもこういうふうであったならなあ。
ちなみにここに収められたその他の婚姻にまつわる物語では、ひたすら結婚における策略、失望、裏切り、諦めなどが描かれていて、やはり結婚は人生の墓場であると再認識することうけあいです。

「偏見のない女」のように明るく美しい物語があるかと思えば、「男爵」「賢い屋敷番」「年に一度」「農奴あがり」「ポーリニカ」などの話は、いったいなんだって私にこんなものを読ませるんだ、この哀しみをどうしてくれようか! と別の意味でまた泣きたくなるようなものでした(←熱のせいもある)。
「農奴あがり」という物語は、これは別にどこにもはっきりと哀しい要素は見当たらないのですが、どうしてだか、胸が詰まって、涙がにじみ出てくるのです。この哀しみはいったい何なのだろう。
ビヤホールで、公爵のところで働いていた頃の思い出をえんえんと語るおじさんと、その話にじっと耳を傾ける若い給仕女。ある日おじさんが道ばたで寝て風邪をひきしばらく入院していた間に、娘は行方知れずになってしまった。それから1年半ほど経ったある日、おじさんはめかしこんだ娘が紳士と腕を組んで歩いているのを見かけ、「幸せにな」と目に涙を浮かべる。
まあネタバレ注意もなんのその、思いきり最後まで要約してしまいましたが、こういう話です。これだけの話です。だのに、なぜか泣けてくる。私はすごく哀しがってはいるけれど、たぶんどちらかと言えば明るい話のような気もします。そのへんが絶妙です。

これらどことなく哀しい物語はどれもほんの短いものであるのに、弱っている今の私には、突き刺さって痛む小さいがしかし強力なこの刺を抜く力がありません。全面降伏です。起き上がりたくない。もうちょっと元気のあるときに、あらためて読み直したい。

「一般教養 歯科学の最新の結論」「申し込み 娘たちのための話」などは、単純にわははと笑えて楽しかったです。歯医者の話は、いつも誰が書いても面白いです。

やはり振り返れば、65編のなかには色々な種類の物語が収められていることが分かり、チェーホフの幅の広さをあらためて認識できました。チェーホフ恐るべし。はやく続きの「2」の文庫も出てほしいな。


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『南十字星共和国』

2008年04月08日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト
ワレリイ・ブリューソフ 草鹿外吉訳(「20世紀のロシア小説」白水社)

《あらすじ》
南極諸地方に存在した鉄鋼工場のトラストから生まれた新国家【南十字星共和国】の首都「星の都」では、世界中がうらやむような豊かな都市生活が営まれていた。ところが、ある伝染病が突然蔓延し―――。
「南十字星共和国」ほか10篇。


《この一文》
“わたしは推察するのだが、人間はその原始的状態においては、たったひとつのこと、つまり自分にそっくりなものたちを虐げることばかり、渇望していたのであろう。われわれの文化が、この本能に手綱をかけたのだ。奴隷制度の幾世紀が、人間の心をして、他人の苦痛を見るのは痛ましいものだと信じこむまでに至らしめたのである。そして今日、人々は、他人のことですっかり本気になって涙を流し、かれらに同情するようになっている。しかし、それは、単なる幻想であり感情を欺いているにすぎない。
  ―――「いま、わたしが目ざめたとき……――精神病者の手記」より”




タイトルが格好良いので読みたくなった1冊。ブリューソフの名前は知りませんでしたが、読んでみたら、ここにも収められているこの人の「防衛」という作品を読んだことがありました。もの覚えの悪い私…。
さて、『南十字星共和国』というタイトルからして、私はもっとSF風味な短篇集かと思い込んでいたのですが……。

最初の「地下牢」という物語の舞台はどうやらイタリアあたりで、トルコが攻めてきた時代を扱っているようです。この物語がまた驚くほどに残虐で情け容赦がないので、私はのっけから開いた口が塞がりませんでした。お、おそろしい!
しかも、この「地下牢」の驚くべき点は、その残酷描写にとどまらず、物語の展開の意外性(あまりに意外な展開)にもあるでしょう。目が回るほどに感情が浮き沈みします。これは驚きました。そして震え上がりました。なんたる救いのなさ!

この「地下牢」によって、どうやらこれがSF短篇集ではないらしいことが分かります。当ては外れました。それはまあ、いいんですけど。

「地下牢」に続く物語はいずれも、主人公の夢と現実の境界線があいまいになってゆく状況を迫力をもって描いています。なかには「ベモーリ」「大理石の首」のように幻想的でわりとほのぼのした物語もありますが、どちらかというと残虐な場面が多いので、私などはちょっと頭の中がボワーっとするようです。しかし、これらの物語に恐ろさを感じるのは、その残酷描写のためというよりも、むしろ現実感というものの頼りなさ、あやふやさというものをあらためて考えさせられるからかもしれません。

どちらが現実で、どちらが夢か。
これはこれまでにも随分と考えられてきたテーマだとは思いますが、いまだに何か人を不安にさせるような、それでいて興味が尽きない面白さがあります。

そういう面白さに加えて、ブリューソフという人の筆の確かさ、アイディアの豊かさ、ダイナミックな物語の構成力などもあり、この短篇集は私にはかなり面白かったです。


そして、表題作の「南十字星共和国」。
これより前の作品はいずれも期待していたようなSFではなく、幻想怪奇小説というべきものだったので、この「南十字星共和国」もその系列の物語になるのかと思っていました。それにしても美しいタイトル。
ところが、読んですぐに気が付きますが、この作品だけは他の作品と違って「SF風味」がはっきりとあるのです。私の当初のカンはやっぱり外れていなかったのです。私は物語のジャンル分けなんていうのはあまり意味のないことだとは思っていますが、しかし驚きました。うーむ、どこまで裏切ってくれるのかしら、ブリューソフったら。
この作品だけどうも手触りが違う。結末も、やっぱり暗いけれども、人間のしぶとさを感じさせる少しの明るさがあるようでもあるし。さりげなく社会問題も盛り込まれているようで。どうしちゃったんだろう、急に。でもやっぱり面白いな。
狂気が内側からやってくるか、外側からやってくるかという違いはあるかもしれませんが、恐ろしさには違いはないようです。どういう形式をとろうとも、ブリューソフが描きたいことは一貫しているのかもしれません。



「20世紀のロシア小説」という白水社のシリーズは、どうやら全8冊で、ブルガーコフの巻もあるらしいです。が、常軌を逸した高値で取り引きされているようで、さすがの私も手も足も出ません。今回は図書館で借りてきましたが、シリーズのなかで読みたいのに置いていない巻もあるのです。…残念だ。ああ、残念だ。残念だ。
ついでに、ブリューソフの作品はほかでも読めるのでしょうか。調べてみなければ。深いなあ、ロシア。深くて面白いロシア小説。どんどん読まなきゃ追い付かないです。



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