監督:ミシェル・オスロ
《あらすじ》
魔女に苦しめられる村では、泉の水も枯れ男たちもいなくなった。そこへ小さなキリクが生まれてくる。あらゆる物事に対して疑問を抱くキリクは「なぜ魔女はいじわるなのか」と問いながら、魔女に奪われたものを取りかえしにいく。
《この一言》
”私は 自由だ!! ”
これはキました!
なんという物語でしょうか。単純でありながら深い。そして美しい。
『プリンス&プリンセス』を観て好きになったミシェル・オスロの有名作をついに観ました。期待を上回る素晴らしさです。もうだめ!
私は、以前『プリンス&プリンセス』を観た時には、「魔女」というエピソードでのたうちまわったのですが(あまりにロマンティック!)、この『キリクと魔女』はそれをさらに掘りさげて拡げたという感じの物語です。というわけなので、やっぱり今回ものたうちまわりました。ナニコレ、美し過ぎますよ! わーー! ここでこう展開するのか、しかもこの映像とは! もうだめです!
まず美しいのは何と言っても映像です。人物のなめらかな曲線を持つ単純な造形に対して、精密で繊細な極彩色の背景。はあ。きれいです。目が釘付けです。
そして、さらに美しいのは物語の内容です。神話のように単純素朴でいて、しかもとても深く、また不可思議でもある。素晴らしい…。思わず泣いてしまったではないですか。
ここまで手放しに絶賛している私ですが、正直に言うと、最初のほうは子供向けの物語に対するような気持ちで観ていました。しかし、私は愚かでした。この強いメッセージ性は観る人を選ばないでしょう。人間の苦しみを、愚かさを、誇り高さを、この作品は伝えていました。これが泣かずにいられるか。
さて、物語の重要なテーマのひとつである「なぜ魔女はいじわるなのか」ということに関して。
誰もが魔女によって苦しめられているというのに、誰もそのことを疑問に思わない。常識や思考の停止が人々の間に、根深く蔓延しています。恐ろしい。それは、ほら、今ここにもあるではないですか。「常に目覚めている知性」を、ただ闇雲に怖れたり憎むのではなく、その理由を考えることを、我々は要求されるでしょう。なぜ我々は不満で不自由なのか。それはいったい誰のせいなのか。そして、どうしてその状態であり続けることに甘んじているのか。そうあることのいったいどこが常識なのか――。
問い続けることは、極めて孤独ではあるけれども、どこまでもどこまでも自由であり得るということでもあります。そのことの大切さを色々な素晴らしい人たちが私に伝えてくれているのに、私はすぐに忘れてしまいそうになります。でも、溺れかかっていると、またこのように救われるのです。そのおかげで、私は少しずつ自由になってきている。まったく感謝のしようもないほどなのです。
《あらすじ》
魔女に苦しめられる村では、泉の水も枯れ男たちもいなくなった。そこへ小さなキリクが生まれてくる。あらゆる物事に対して疑問を抱くキリクは「なぜ魔女はいじわるなのか」と問いながら、魔女に奪われたものを取りかえしにいく。
《この一言》
”私は 自由だ!! ”
これはキました!
なんという物語でしょうか。単純でありながら深い。そして美しい。
『プリンス&プリンセス』を観て好きになったミシェル・オスロの有名作をついに観ました。期待を上回る素晴らしさです。もうだめ!
私は、以前『プリンス&プリンセス』を観た時には、「魔女」というエピソードでのたうちまわったのですが(あまりにロマンティック!)、この『キリクと魔女』はそれをさらに掘りさげて拡げたという感じの物語です。というわけなので、やっぱり今回ものたうちまわりました。ナニコレ、美し過ぎますよ! わーー! ここでこう展開するのか、しかもこの映像とは! もうだめです!
まず美しいのは何と言っても映像です。人物のなめらかな曲線を持つ単純な造形に対して、精密で繊細な極彩色の背景。はあ。きれいです。目が釘付けです。
そして、さらに美しいのは物語の内容です。神話のように単純素朴でいて、しかもとても深く、また不可思議でもある。素晴らしい…。思わず泣いてしまったではないですか。
ここまで手放しに絶賛している私ですが、正直に言うと、最初のほうは子供向けの物語に対するような気持ちで観ていました。しかし、私は愚かでした。この強いメッセージ性は観る人を選ばないでしょう。人間の苦しみを、愚かさを、誇り高さを、この作品は伝えていました。これが泣かずにいられるか。
さて、物語の重要なテーマのひとつである「なぜ魔女はいじわるなのか」ということに関して。
誰もが魔女によって苦しめられているというのに、誰もそのことを疑問に思わない。常識や思考の停止が人々の間に、根深く蔓延しています。恐ろしい。それは、ほら、今ここにもあるではないですか。「常に目覚めている知性」を、ただ闇雲に怖れたり憎むのではなく、その理由を考えることを、我々は要求されるでしょう。なぜ我々は不満で不自由なのか。それはいったい誰のせいなのか。そして、どうしてその状態であり続けることに甘んじているのか。そうあることのいったいどこが常識なのか――。
問い続けることは、極めて孤独ではあるけれども、どこまでもどこまでも自由であり得るということでもあります。そのことの大切さを色々な素晴らしい人たちが私に伝えてくれているのに、私はすぐに忘れてしまいそうになります。でも、溺れかかっていると、またこのように救われるのです。そのおかげで、私は少しずつ自由になってきている。まったく感謝のしようもないほどなのです。