原作/ル=グイン
監督/宮崎吾朗
声の出演/岡田准一/手嶌葵/田中裕子/小林薫/夏川結衣
《あらすじ》
物語の舞台は、多島海世界“アースシー”。西海域の果てに棲む竜が、突如、人間の世界である東の海に現れた。それと呼応するかのように、世界では、さまざまな異変が起こり始めていた。農民は田畑を捨て、職人は技を忘れモノを作らなくなった。街では、人々はせわしなく動き回っているが目的を失っているように見えた。そして、世界は魔法の言葉を忘れつつあった。世界の均衡(バランス)を崩す者の正体をつきとめる旅に出た大賢人ゲドは、国を捨てた王子アレンと出会う。
私はどんなものに対しても「つまらなかった」だなんて言いたくないので、この映画に対してももっと作りようはあっただろうとは思いつつ、何とか良かった点を探したいと思います。良かった点……良かった点…、それは……能力不足に関わらず表現しようとする人間(それはたとえば私)には良い反省材料になりうるということですかね。まるで私が作ったウェブまんが「たんていものがたり」をみるようでした。「そういうレベルかよ!」と叱られるかもしれませんが、私個人的には「そういうレベル」だったと思います。まず、物語の構成を無茶し過ぎ。登場人物の台詞に頼り過ぎ。状況説明させ過ぎ。そしてまた無駄な台詞が多過ぎ。せっかくアニメーション作品だというのに、まったくアニメーションを活かせていない。2時間も分量は必要ない。主題が不明確。盛り上がりがない。なにもかも表面的。…それから…それから…。
人の作ったものだと色々とアラが見えるものです。批評(というより批判か)するのは作り出すのに比べると何百倍も簡単ですからね。もちろん私は、いかに欠点だらけであろうともこれだけの労力を投じて生み出された作品自体は、「無駄」とも「徒労」とも思いません。
ここから数行、追記しました(現在8月20日)。下にあまりにも酷いことを書き過ぎましたので。反省して、良かった点も真剣に挙げておくことにしました。
観終わって2日経って、冷静に振り返ると、原作とはタイトルが同じであるだけで内容はほとんどオリジナルストーリーとなっていますが、それなりにまとめてあります。絵はもっと描き込んでもよかったのではないかとも思いますが、見せ場は何箇所かありました。CMや、街でもよく流れているのでご存じの方も多いでしょうが、テーマ曲はとても美しい曲です。歌っている女の子の声もいい。
原作を知らない、もしくは別物であると割り切れる、絵もこれまでのジブリ作品のようにイマジネーションが爆発していなくても気にならないという方は、それなりに楽しめるかもしれません。新人監督の第一作という感じも味わえますし。
ここより危険。
以下、私の原作への愛のため、らしくもなく酷評しています。ネタバレもありなので読まないほうがよいかもしれませぬ。でも異論、反論(もしあれば;)は大歓迎でございます。
さて、今回のこの作品は、もう「ル=グイン原作」ということは、きれいさっぱり忘れてしまったほうがよいことだけははっきりと言えます。原作の特に初期三部作を貫く豊かで壮大な世界観は1ミリたりとも再現されませんでした。驚くなかれ、物語はある一つの町の中で終始します。わおー、狭い。「はてみ丸」いらねーし。
また原作シリーズはどれも人間の深くに関わるテーマを掲げていますが、この劇場版ではなにがテーマであったのか、最後までわかりませんでした。そもそも、主役のアレンは何にそんなに捕われていたのか。「父に対する劣等感」かと思いきや途中で突然「死の恐怖」とも思わせる。色々なことにつまずくのが青春、とはいえこの短い物語のなかで突き詰めるには少々散漫でしょう。そして深く悩んでいた割に、ちょっと他人から言われただけで、あっさり立ち直ったりして。そんなのはそもそも悩みじゃない。と私は思いますが。
そして、ゲド。この人は大賢人で、タイトルからも分かるように物語はこの人の存在が重要不可欠であるというのに、はっきり言うとこの映画には必要ない。大賢人であるというのも、何の根拠となるエピソードもなく、ただ「大賢人だ」と言われるだけ…。魔法も使わないし。ただ状況を説明するためにいるだけ。おぉ、なんてことだ。それなら、そのへんの親切で物知りなただのおじさんでも良いではないか。
さらにヒロインのテルー。無理して女の子を登場させる意味はどこにあるのか。彼女のおかげで無意味なシーンがてんこもり。少年が成長するには、絶対に少女の力が必要だとでも言うのか。怒るぞ。
歌はいいけどテルーが歌う必要はまったくないし。つーか、なぜそこで歌う。そしてなぜ泣く。分かりません。ついていけません。人間嫌いなくせに、説教がましい(その説教の内容がまた考えられないくらいポジティブ。その思想があって、どうして人間嫌いでいられるんだ)性格なのももっと分からないし。竜の血を受け継ぐ人物を登場させたかったのは分かるけど、変身する必要は一切ない。ここでそれをやるかよ。説得力がない。というか、それをやったら、それまでの筋書きのほとんど全てが無意味になってしまうではないか。アレンだって、一体何のために出てきたんだ。それなのに、君はテルーに何を感謝しているんだ? ひょっとすると「竜=命の輝き」みたいなイメージなのかな。だとしても、それならもっとちゃんとした伏線を張れ。
もうひとつ、テルーの義母テナー。この人は原作をシリーズ通して読んだ人ならば、その重要性が分かるでしょうが、知らない人にはまったく無意味な存在。無駄、無駄、無駄! ゲドの大賢人ぶりを説明したければ、なにもこの人に頼ることはない。そんなに「アチュアンの墓所」が重要なら、せめて1、2分間の回想シーンでも入れろ。しかし、もちろん今回の話には丸っきり関係ねー!
まだあった、クモ。もっとがんばれよ。欲望をみなぎらせているところは他の人物に比べて魅力的な説得力のある造形になっていましたが、意味不明なことを言い出すのはこの人も一緒。「準備はととのったぞ」って言ってたけど、何の準備? ゲドを待ちぶせてアレンと戦わせる? 目的は不死なんだよな。で、邪魔なゲドの弱点(ということになっている)テナーも餌として捕獲してあるし、クモの館に入りさえすればもはやゲドには魔法が使えないなら、アレンなしでも勝ったも同然じゃないか。あ、一応アレンには「力」があるって設定なんだっけ。えー、でもその「力」をどう利用するつもりだったんだろ? つーか、あの腑抜けが役に立つか? ほら、やっぱり立たなかったじゃないか。自力でやれ。自力で。
まだいた、ウサギ。なんでクモなんかに仕えてるんだろう。普通に奴隷を売ったほうが平和に暮らせるだろうに。「クモに殺されずに済む」というメリットしかない。じゃあ、最初から関わるなよ。何があったんだ?
ふう、次は設定について。「真の名」がいかに重要なもので、それを教えたり知られたりすることの意味というものが、説明されることもなく当然の知識であるかのごとく物語は展開します。アレンなんて、悪役のクモに「真の名」を知られたことによって操られているのか、でももともとアレンって奴は暗いイジケ虫だったから素でいるのか、どっちなのか全然分かりません。父親を刺し殺すほどのアレンの苦しみ(なのかどうかは置いといて)を、テルーがちょっと彼の「真の名」を呼んで説得したからって、そこでなぜ納得する。わかんねーな。でも、私もこのあたりはもう眠くなってたから、ちょっと重要な台詞を聞き逃したのかな。つーか、しゃべり過ぎだろ。アニメーションだってことを忘れる。
それから、「この世界では人々の頭が変になってきている」という設定らしいですが、その理由についてもクモとゲドがしゃべるだけだし…。麻薬を売ったり、まがいものの布を売ったりする人々が現れたり、魔法使いが魔法を使えなくなったりしているという説明はあったけど、そう言えば、冒頭のエンラッド(アレンの故郷)での会議で、国王(何の落度もないのに息子に刺された可哀相な人)が事態を調べるように命じていた【ルート】(たしかそんな名前)という人物はどうなったんだろ? この場面もいらねーな。(お詫び。9月12日現在。お友達のKさんのご指摘により、この場面で国王は「ロークへ、調べるように(伝えろ)」と言っていたらしいことが判明。家臣の名を【ルート】だと思ったのは、私の聞き間違いでした。ロークというのは大賢人など魔法使いたちの住む島のこと。私の理解が不足していただけで、この場面は、世の中に起きている異変が魔法使いたちに知らされたということを示すために必要であったようです。)
元まじない師の女が(多分まじないを生業とするのをやめて)まがいものの布を商うことにし、「まがいものだろうとなんだろうと、とにかく物は物。使えるのは確かだ」と言うのは尤もなことで、「頭がおかしくなった」説明としてはどうなのか。もちろんこの台詞は原作にもあった。原作の中でなら納得できた。というのは、それまでにその世界でいかに「魔法」が重宝がられていたか、「まじない」がどうやって人々の技術をもっと素晴らしいものにしていたか、さらにその特別な力を操ることのできる「魔法使い」達が世界のバランスに対してどれほど気を遣っているかということが説明されていたから。映画では、それ以前の世界のイメージがほとんどないので、観客からすればまあ普通の(つまり魔法の関係ない)世界。自分たちが暮らすのと同じような世界。もしかしたら、そういうことをまさに言いたかったのかもしれないけど。魔法が関係ないのなら、「世界の均衡を崩すもの」を「魔法使い」が探しにでかけるのも、元凶が「魔法使い」である必然性もないのでは…。納得できない。でもって結局は突然に現れた「竜」が全部解決してしまうし…。「竜」ってなんなんだ? 最初の方で共食いしてただけだったじゃないか…。あと昔は人間と同じ存在だったと言ってたが、その意味も分からない。
まてよ、こういうことか。
「人間の過度な欲望。この場合、不死」→「一般の人々の生きる喜び・目的を吸い上げる」→「精神世界(魔法含む)の荒廃」
それに対し、
「竜。かつては人と同じものだが自由を求めて分かれたもの」=「まれに現在の人間界にも紛れている(テルー)」→「(なぜか)生命力、精神力の象徴」=「思い出せば変身できる(?)」
こういう構図でしょうか? やっぱ、魔法はいらないような…。どれもこれも唐突で表面的過ぎる。原作のどのへんをどう採用したのか、読んだことがなければまるで分からないし、そのように採用する理由も分からない。合ってるのは人物の名前だけ。というわけで私はこの映画に原作があることは、もう忘れます。
「迅速さ」や「利益」を追求するあまり、「まがいもの」でも「麻薬」でも売る。だって、「物は物」だし。「ジブリのものはジブリのもの」と言うわけでしょうか。釣られて観にいってしまうんだから、確かに人々の頭はおかしくなってますね。そういうことを言おうとしていたのだとしたら、それは深いな。違うと思うけど…。「こういうのをやってみたかった」「こんな台詞を言わせてみたかった」という気持ちは私にもよくわかるので、まるで小学生が出し物で時代劇をやってみたかのようなベタな展開のこの映画は面白いには面白かったのですが、あんまり良く出来たかのように宣伝したりすることはないよな。次はない。
監督/宮崎吾朗
声の出演/岡田准一/手嶌葵/田中裕子/小林薫/夏川結衣
《あらすじ》
物語の舞台は、多島海世界“アースシー”。西海域の果てに棲む竜が、突如、人間の世界である東の海に現れた。それと呼応するかのように、世界では、さまざまな異変が起こり始めていた。農民は田畑を捨て、職人は技を忘れモノを作らなくなった。街では、人々はせわしなく動き回っているが目的を失っているように見えた。そして、世界は魔法の言葉を忘れつつあった。世界の均衡(バランス)を崩す者の正体をつきとめる旅に出た大賢人ゲドは、国を捨てた王子アレンと出会う。
私はどんなものに対しても「つまらなかった」だなんて言いたくないので、この映画に対してももっと作りようはあっただろうとは思いつつ、何とか良かった点を探したいと思います。良かった点……良かった点…、それは……能力不足に関わらず表現しようとする人間(それはたとえば私)には良い反省材料になりうるということですかね。まるで私が作ったウェブまんが「たんていものがたり」をみるようでした。「そういうレベルかよ!」と叱られるかもしれませんが、私個人的には「そういうレベル」だったと思います。まず、物語の構成を無茶し過ぎ。登場人物の台詞に頼り過ぎ。状況説明させ過ぎ。そしてまた無駄な台詞が多過ぎ。せっかくアニメーション作品だというのに、まったくアニメーションを活かせていない。2時間も分量は必要ない。主題が不明確。盛り上がりがない。なにもかも表面的。…それから…それから…。
人の作ったものだと色々とアラが見えるものです。批評(というより批判か)するのは作り出すのに比べると何百倍も簡単ですからね。もちろん私は、いかに欠点だらけであろうともこれだけの労力を投じて生み出された作品自体は、「無駄」とも「徒労」とも思いません。
ここから数行、追記しました(現在8月20日)。下にあまりにも酷いことを書き過ぎましたので。反省して、良かった点も真剣に挙げておくことにしました。
観終わって2日経って、冷静に振り返ると、原作とはタイトルが同じであるだけで内容はほとんどオリジナルストーリーとなっていますが、それなりにまとめてあります。絵はもっと描き込んでもよかったのではないかとも思いますが、見せ場は何箇所かありました。CMや、街でもよく流れているのでご存じの方も多いでしょうが、テーマ曲はとても美しい曲です。歌っている女の子の声もいい。
原作を知らない、もしくは別物であると割り切れる、絵もこれまでのジブリ作品のようにイマジネーションが爆発していなくても気にならないという方は、それなりに楽しめるかもしれません。新人監督の第一作という感じも味わえますし。
ここより危険。
以下、私の原作への愛のため、らしくもなく酷評しています。ネタバレもありなので読まないほうがよいかもしれませぬ。でも異論、反論(もしあれば;)は大歓迎でございます。
さて、今回のこの作品は、もう「ル=グイン原作」ということは、きれいさっぱり忘れてしまったほうがよいことだけははっきりと言えます。原作の特に初期三部作を貫く豊かで壮大な世界観は1ミリたりとも再現されませんでした。驚くなかれ、物語はある一つの町の中で終始します。わおー、狭い。「はてみ丸」いらねーし。
また原作シリーズはどれも人間の深くに関わるテーマを掲げていますが、この劇場版ではなにがテーマであったのか、最後までわかりませんでした。そもそも、主役のアレンは何にそんなに捕われていたのか。「父に対する劣等感」かと思いきや途中で突然「死の恐怖」とも思わせる。色々なことにつまずくのが青春、とはいえこの短い物語のなかで突き詰めるには少々散漫でしょう。そして深く悩んでいた割に、ちょっと他人から言われただけで、あっさり立ち直ったりして。そんなのはそもそも悩みじゃない。と私は思いますが。
そして、ゲド。この人は大賢人で、タイトルからも分かるように物語はこの人の存在が重要不可欠であるというのに、はっきり言うとこの映画には必要ない。大賢人であるというのも、何の根拠となるエピソードもなく、ただ「大賢人だ」と言われるだけ…。魔法も使わないし。ただ状況を説明するためにいるだけ。おぉ、なんてことだ。それなら、そのへんの親切で物知りなただのおじさんでも良いではないか。
さらにヒロインのテルー。無理して女の子を登場させる意味はどこにあるのか。彼女のおかげで無意味なシーンがてんこもり。少年が成長するには、絶対に少女の力が必要だとでも言うのか。怒るぞ。
歌はいいけどテルーが歌う必要はまったくないし。つーか、なぜそこで歌う。そしてなぜ泣く。分かりません。ついていけません。人間嫌いなくせに、説教がましい(その説教の内容がまた考えられないくらいポジティブ。その思想があって、どうして人間嫌いでいられるんだ)性格なのももっと分からないし。竜の血を受け継ぐ人物を登場させたかったのは分かるけど、変身する必要は一切ない。ここでそれをやるかよ。説得力がない。というか、それをやったら、それまでの筋書きのほとんど全てが無意味になってしまうではないか。アレンだって、一体何のために出てきたんだ。それなのに、君はテルーに何を感謝しているんだ? ひょっとすると「竜=命の輝き」みたいなイメージなのかな。だとしても、それならもっとちゃんとした伏線を張れ。
もうひとつ、テルーの義母テナー。この人は原作をシリーズ通して読んだ人ならば、その重要性が分かるでしょうが、知らない人にはまったく無意味な存在。無駄、無駄、無駄! ゲドの大賢人ぶりを説明したければ、なにもこの人に頼ることはない。そんなに「アチュアンの墓所」が重要なら、せめて1、2分間の回想シーンでも入れろ。しかし、もちろん今回の話には丸っきり関係ねー!
まだあった、クモ。もっとがんばれよ。欲望をみなぎらせているところは他の人物に比べて魅力的な説得力のある造形になっていましたが、意味不明なことを言い出すのはこの人も一緒。「準備はととのったぞ」って言ってたけど、何の準備? ゲドを待ちぶせてアレンと戦わせる? 目的は不死なんだよな。で、邪魔なゲドの弱点(ということになっている)テナーも餌として捕獲してあるし、クモの館に入りさえすればもはやゲドには魔法が使えないなら、アレンなしでも勝ったも同然じゃないか。あ、一応アレンには「力」があるって設定なんだっけ。えー、でもその「力」をどう利用するつもりだったんだろ? つーか、あの腑抜けが役に立つか? ほら、やっぱり立たなかったじゃないか。自力でやれ。自力で。
まだいた、ウサギ。なんでクモなんかに仕えてるんだろう。普通に奴隷を売ったほうが平和に暮らせるだろうに。「クモに殺されずに済む」というメリットしかない。じゃあ、最初から関わるなよ。何があったんだ?
ふう、次は設定について。「真の名」がいかに重要なもので、それを教えたり知られたりすることの意味というものが、説明されることもなく当然の知識であるかのごとく物語は展開します。アレンなんて、悪役のクモに「真の名」を知られたことによって操られているのか、でももともとアレンって奴は暗いイジケ虫だったから素でいるのか、どっちなのか全然分かりません。父親を刺し殺すほどのアレンの苦しみ(なのかどうかは置いといて)を、テルーがちょっと彼の「真の名」を呼んで説得したからって、そこでなぜ納得する。わかんねーな。でも、私もこのあたりはもう眠くなってたから、ちょっと重要な台詞を聞き逃したのかな。つーか、しゃべり過ぎだろ。アニメーションだってことを忘れる。
それから、「この世界では人々の頭が変になってきている」という設定らしいですが、その理由についてもクモとゲドがしゃべるだけだし…。麻薬を売ったり、まがいものの布を売ったりする人々が現れたり、魔法使いが魔法を使えなくなったりしているという説明はあったけど、そう言えば、冒頭のエンラッド(アレンの故郷)での会議で、国王(何の落度もないのに息子に刺された可哀相な人)が事態を調べるように命じていた【ルート】(たしかそんな名前)という人物はどうなったんだろ? この場面もいらねーな。(お詫び。9月12日現在。お友達のKさんのご指摘により、この場面で国王は「ロークへ、調べるように(伝えろ)」と言っていたらしいことが判明。家臣の名を【ルート】だと思ったのは、私の聞き間違いでした。ロークというのは大賢人など魔法使いたちの住む島のこと。私の理解が不足していただけで、この場面は、世の中に起きている異変が魔法使いたちに知らされたということを示すために必要であったようです。)
元まじない師の女が(多分まじないを生業とするのをやめて)まがいものの布を商うことにし、「まがいものだろうとなんだろうと、とにかく物は物。使えるのは確かだ」と言うのは尤もなことで、「頭がおかしくなった」説明としてはどうなのか。もちろんこの台詞は原作にもあった。原作の中でなら納得できた。というのは、それまでにその世界でいかに「魔法」が重宝がられていたか、「まじない」がどうやって人々の技術をもっと素晴らしいものにしていたか、さらにその特別な力を操ることのできる「魔法使い」達が世界のバランスに対してどれほど気を遣っているかということが説明されていたから。映画では、それ以前の世界のイメージがほとんどないので、観客からすればまあ普通の(つまり魔法の関係ない)世界。自分たちが暮らすのと同じような世界。もしかしたら、そういうことをまさに言いたかったのかもしれないけど。魔法が関係ないのなら、「世界の均衡を崩すもの」を「魔法使い」が探しにでかけるのも、元凶が「魔法使い」である必然性もないのでは…。納得できない。でもって結局は突然に現れた「竜」が全部解決してしまうし…。「竜」ってなんなんだ? 最初の方で共食いしてただけだったじゃないか…。あと昔は人間と同じ存在だったと言ってたが、その意味も分からない。
まてよ、こういうことか。
「人間の過度な欲望。この場合、不死」→「一般の人々の生きる喜び・目的を吸い上げる」→「精神世界(魔法含む)の荒廃」
それに対し、
「竜。かつては人と同じものだが自由を求めて分かれたもの」=「まれに現在の人間界にも紛れている(テルー)」→「(なぜか)生命力、精神力の象徴」=「思い出せば変身できる(?)」
こういう構図でしょうか? やっぱ、魔法はいらないような…。どれもこれも唐突で表面的過ぎる。原作のどのへんをどう採用したのか、読んだことがなければまるで分からないし、そのように採用する理由も分からない。合ってるのは人物の名前だけ。というわけで私はこの映画に原作があることは、もう忘れます。
「迅速さ」や「利益」を追求するあまり、「まがいもの」でも「麻薬」でも売る。だって、「物は物」だし。「ジブリのものはジブリのもの」と言うわけでしょうか。釣られて観にいってしまうんだから、確かに人々の頭はおかしくなってますね。そういうことを言おうとしていたのだとしたら、それは深いな。違うと思うけど…。「こういうのをやってみたかった」「こんな台詞を言わせてみたかった」という気持ちは私にもよくわかるので、まるで小学生が出し物で時代劇をやってみたかのようなベタな展開のこの映画は面白いには面白かったのですが、あんまり良く出来たかのように宣伝したりすることはないよな。次はない。
最初から説明無く大賢人って(苦笑)
まあ、そもそも第三巻選んだからしょうがないって?
ずっと1つの町に居続けなんですか!?そりゃないって。
だったらなぜ第三巻にしたんでしょうねえ。
今回のゲドアニメ化を通じて、「ジブリがランサムをアニメ化したら」という妄想がかなり具体的になりました。
以前は12巻全部をまぜこぜになるんだろうとか、飛行機が出てくるんだろうぐらいしか考えてなかったのですが。
きっと、頭はいいけど都会育ちでひ弱でコンプレックスでいっぱいでヘンテコな性格のDきょうだいが、大自然の中で冒険することによって成長していくというスゴイ物語になると思うんですよね。
ここまで妄想を具体化できたのは、私個人にとっては有意義なことだったかもしれません(自爆)
かなりネタバレしてしまって、すみません;
>ずっと1つの町に居続けなんですか!?
厳密には、一つの町とその周辺と言ったほうが良かったかもしれません。でも「はてみ丸」には全然乗らないで済むんですよ~。いつも歩くかロバ(?に似た動物)に乗って移動します。とにかく狭い。びっくり。
でも私は駄作(←ひどい)には寛容なほうなので、それなりに楽しみましたよ。いや、まあどうせならもっとしっかり作ってほしかったですけども…。なんで駿さんがやらなかったのかが、ただただ不思議です。新人監督にやらせるなんて、もったいないですよ。
ランサムをジブリで映像化するとどうなんでしょうね~。でもランサムはちょっとジブリ作品の方向と違いますかね? ディズニーなんかは好きそう。どっちにしろ、成長物語になることは避けられないでしょうねえ。
私は原作を読んだことがないし、ジブリ作品キライなのでこの映画も多分TVで放送されても観ないでしょうから何も言う資格ないですが、
ジブリがアニメ化することで「『ゲド戦記』ってこんなお話なんだ」と子供たちの心に刷り込まれてしまう事こそ、このアニメ作品の罪だと言えるでしょう。
私はなんだかんだ言って、そこまでは悲観していないんですよね。
もちろん、子供たちがこの映画ではじめて「ゲド」と出会い、「面白くないんだな」と思ってしまう可能性があるのはおっしゃる通り、もしアニメが上手に作られたならば、それがきっかけで原作を読む子が増えただろうことを思うと残念ですね。
でもまあ原作のほうは既に不滅の名作として世界中に広く知られていますし、読むべき子はいずれ読むことになるだろうし、読まない子はアニメを観ても観なくても読まないと思います。原作の名声に比べたら、今回の映画版はいかにジブリ作品と言えども、それほど問題にならないような気がします。
「ゲド戦記」はロマンですよねー。やっぱファンタジーはいい。同感、同感。「影とのたたかい」を読んだとこなのかな? 続きも面白いですよ~。
それにしても、三島由起夫はともかく、川端康成は意外ですね。でもないか。私はボルヘスには何度も挑戦してますが、いまだ終わりまで読み通すことができず……。なんでだろ~?
雹(ヒョウってこのように書くんだ; 私も知らんかった)って、夏でも降るのね…というか、もしかして季節は関係ないのかな。いずれにせよ御殿場はすごいね。
ちょっと酷く書き過ぎたかもしれません。
記事のはじめの方に書いたように私もどんな作品であれ詰まらないと言ってしまうことはしたくないと思っています。人のエネルギーが投入されているのは確かだし、それはそれだけで十分に価値のあるものだと思うからです。
また、原作とその二次作品とは、どんなに近付けようとしたとしても結局は別物になってしまうものであることも承知しています。
わかっていたのに、失望のあまりつい書いてしまいました。土建屋さんのおっしゃるように、映画の竜のシーンは美しかったです。そういうことを書かなかったのはフェアじゃなかったので、反省して記事は書き直すことにします。
これから観ようと楽しみにしていたのに、私の記事を読んでがっかりしてしまった方がいらしたら、本当に申し訳ありませんでした。
また、名画とはいえなくても、「ロード・オブ・ザ・リング」のような完全(に近い)映像化も可能だった筈です。
そのどちらにもならなかったのなら、この映画はやはり失敗作なのですよ。だから前の記事は原作ファンの貴重な意見として矜持を持って掲載してもらっていいと思いますが…
私はさっきまでどのように書き直すべきか悩んでいたのですが、やっぱ「追記」を入れることにしましたよ。piaaさんには悩み中の記事を見られてしまいましたね…スミマセン。長い記事は重くなるのでやめようかとも思いましたが、せっかく書いたからそのまま載せておくことにしました。
私は実際ちょっと言い過ぎてしまいましたが、そのように思ってしまったことはいまから取り繕えないので、正直に掲載しておきます。