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次回作 下描き

2009年06月06日 | 自作まんが



新しいマンガの下描きをしました。3ページマンガの新作です。

とりあえず3ページ以内におさめてはみたものの、もうちょっと推敲の余地がありそうです。今まで描いたシリーズものの一環に付け加えたいのですが、【曜日シリーズ】(ノルとディックの火曜日はチョコパンの話の)がいいか、【アステリスクのネタ探しシリーズ】(黒いネコが持ち歩いているあの本を読まない話の)がいいかで悩み中……。ま、シリーズとは言うものの、どちらもまだ1作ずつしか仕上がっていないのだからシリーズでも何でもない気もしますが、今後の方向性を考えて、やはりこの段階で分けておくべきかと……(←何と言うどうでもよさ…)。うーむ、黒いネコのエピソードの続きにしたほうが自然かな……。まあ、いいや、あとで考えよう。


今度のは白いネコが主人公。何気にこの白いネコって、これまでは影が薄かったんですよね~。どういうキャラクターなのか、もうひとつ決まらない感じで。今回のお話でそれが決まったのかというと、まあ…微妙なのですけれども。イメージを積み上げていけば、いずれはそれなりに決まっていくでしょう。まだまだこれからさ。


というわけで、せっかくネタが浮かんだので、気長に清書していきたいと思います(^^) でもって、次の同人誌用のマンガにも、そろそろ手をつけないとなぁ。そう言えば、同人誌用の【夢シリーズ】(←これはもうキッパリとシリーズものです)として2作品構想中ですが、片方は白いネコの話だっけ。存在感を出せるといいなー。




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『ウィーン世紀末文学選』

2009年06月05日 | 読書日記ードイツ


池内紀編訳(岩波文庫)



《収録作品》
*レデゴンダの日記…シュニッツラー
*ジャネット…バール
*小品六つ…アルテンベルク
*バッソンピエール公綺譚…ホフマンスタール
*地獄のジュール・ヴェルヌ/天国のジュール・ヴェルヌ
        …ヘヴェジー
*シャイブスの町の第二木曜日…ヘルツマノフスキー=オルランド
*ダンディ、ならびにその同義語に関する
  アンドレアス・フォン・バルテッサーの意見
        …シャオカル
*オーストリア気質…フリーデル
*文学動物大百科(抄)…ブライ
*余はいかにして司会者となりしか…クー
*楽天家と不平家の対話…クラウス
*すみれの君…ポルガー
*落第生…ツヴァイク
*ある夢の記録…ベーア=ホフマン
*ファルメライヤー駅長…ロート
*カカーニエン…ムージル


《この一文》
“伯爵はおごそかに言った。
「貴族には果たすべき義務があるのです。たとえこの悲しむべき共和国には見捨てられた種族だとしても――」
  ――「すみれの君」(ポルガー)より ”

“知りうるかぎりでは、このファルメライヤーに異様な運命を予測するなど不可能だった。にもかかわらず異様な運命の手が彼をとらえ、さらっていった。ファルメライヤー自身、ある種の愉悦をもって、その手に身をゆだねたけはいがある。
  ――「ファルメライヤー駅長」(ロート)より ”



どこか憂鬱で不安を掻き立てるような作品もありましたが、意外と愉快な物語もまた多く収められていました。なかなか読み応えのある一冊。
特に印象的だったいくつかの作品についての感想を残しておこうと思います。



*ジャネット…バール

ジャネットと、彼女を共有する二人の男の物語。美しいジャネットは、生活のために年取った金持ちの男と付き合い、同時に、恋愛を楽しむために若い美男子と暮らします。彼女のなかではそれが極めて合理的態度であるのですが、ふたりの男がその事実を知ったとき、男たちはそれぞれに彼女に裏切られたと感じます。そして、ふたりの男は偶然にも知り合って、お互いそれと知らずに浮気な自分の恋人のことで意気投合するのですが……というお話。
面白かった。笑えます。


*地獄のジュール・ヴェルヌ/天国のジュール・ヴェルヌ
        …ヘヴェジー

これはかなり面白かった。
ジュール・ヴェルヌが地獄と天国へ行ったときの記録。天国よりも地獄の描写の方がユーモラスです。地獄の釜の燃料は薪! というところが笑えました。


*シャイブスの町の第二木曜日…ヘルツマノフスキー=オルランド

シャイブスの町の人々はたびたび無理な要請をしてきたのだが、このあいだ町名の Scheibs を Scheibbs と(bをひとつ増やして)表記する特権を得たばかりなのに、今度は「週のうちにもう一日、木曜日を認可してほしい」と言い出した…! というお話。
これもなかなか面白かった。この明るくほのぼのとしたテーマがいいですね。一週間に木曜日がもう一日出来ちゃったら、いったい宇宙の秩序はどうなってしまうの? というようなことを心配しだす人も現れたりとか、間抜けでとても愉快です。で、オチはまあ、そういうことなのですが……。この素っ気なさもとても私好み。


*すみれの君…ポルガー

ルドルフ・フォン・シュティルツ伯爵は、骨の髄までの騎士、山のような借金を持ち、色ごと、決闘沙汰は数知れない。すみれの君と呼ばれる彼は典型的なオーストリア貴族で美男子だったが、莫大な借金のためにいつしか身を持ち崩し、貧しい暮らしのうちに見る影もなく老いぼれていた。そこへある日、昔なじみのウィーン・オペレッタの舞台の星ベッティーナが現れ、彼に結婚してほしいと頼む…というお話。
このアンソロジーの中では、私はこの物語がもっとも好きです。没落してゆくすみれの君の姿にはとても哀愁を誘うものがあるには違いないのですが、経済的には没落していても失われなかったもの、貴族的な美意識や義務感、なけなしの誇りを守っているところなどは素直に美しく愛すべきものに思えます。優しい物語。


*落第生…ツヴァイク

うわぁぁ~~っ……悲惨。辛過ぎる感じ。


*ファルメライヤー駅長…ロート

妻と双子の娘とともに平凡な駅長として暮らしていたファルメライヤーは、ある大事故の夜、ひとりの美しいロシア女性を救出する。伯爵夫人であったその女性は数日間ファルメライヤーの家で休養し去ったのだが、ファルメライヤーは彼女の面影を忘れることができない。そして戦争がファルメライヤーをロシアの地に向かわせ…というお話。

いろいろと痛みを感じる物語でした。どこが痛いと言って、ファルメライヤーは恐るべき情熱でヴァレヴスカ伯爵夫人を愛するようになるのですが、戦時中の混乱の中、いつまでも帰ってこない伯爵を待つ夫人が、目の前に突然現れたファルメライヤーをいつしか愛するようになり、ふたりはともにロシアの地を離れ、互いにすべてを捨て去り幸福に暮らそうとしていた矢先に、伯爵が帰還します。それまではファルメライヤーに対して独占欲を丸出しにしていた伯爵夫人の変貌が、痛くて辛い。ファルメライヤーの熱烈な愛情に対して、彼女の愛情は、何と言うか愛情には違いないけれど結局は単に自身の保護者に対する愛情と言うか、伯爵が戻ってきてしまえば、ファルメライヤーはただの元駅長、使用人レベルの人間でしかなく、それが伯爵夫人にとっても、ファルメライヤー自身にとっても抵抗するべくもない圧倒的事実として受け入れられてしまうあたりが、なんかもう猛烈に虚しかったです。あー、これは辛いなぁ。別に伯爵夫人が悪いというわけではなく、両者とも真剣には違いなかっただろうに、状況によって運命を変えられてしまうところが、なんとも……。

愛情の質の不一致というべきか、ファルメライヤーの夢見るような理想としての愛に対して、伯爵夫人の極めて現実的な生活の確保という意味での愛情……。どちらにも落ち度はないと思うのに、その食い違いが不幸な結果をもたらしたのでしょうか。伯爵夫人のためにそれまでの人生のすべてを捨てて、既に家族にとっては死んだことになっているファルメライヤーは、新しく得た人生そのものであったはずの伯爵夫人をも失って、今度こそ決定的に死んだ人間になってしまうのでした。うーむ。辛い、辛過ぎる。

それにしても、ドラマチックで面白い短篇。映画にしたらよさそうです。前々から思っていることなのですが、ヨーゼフ・ロートはぜひ他の作品も読んでみたいところです。




だいぶ前に購入したこの文庫ですが、久しぶりに開いたら、暗がりにしまってあるにもかかわらず本体がかなり傷んできていてびっくりしました。まあ、文庫だから仕方がないとは言え、もう少し気を遣って保管しておくことにしましょう。




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『ONE PIECE 巻54』

2009年06月04日 | 読書日記ー漫画



ちょっと前から、私の好きな「ウォーターセブン編」のあたりから読み返していて、性懲りもなく「ロビンさ~~ん!」「そげキング~~!!」とか喚いていたのですが、今朝、「そう言えば、なんかそろそろ新刊が出る時期じゃないっけ……?」と思い、調べてみたら、今日発売! ビンゴ! 冴えてるぜ!!

というわけで、早速買ってきた♪
あっ! あの人が久々の再登場だわっ! なつかしー、なかなかいいキャラだったから嬉しい。あの人の技(白鳥アラベ…う、ごほん! ネタバレ自重)が炸裂してました。あー、懐かしい。もう一度あのへんも読み直そうかなー。私はウォーターセブンばっかり読んでるからなー。だって盛り上がりますでしょ? あの話って。いろいろと作り込んであって、私はとても好きです。初期の話ももちろん良いのですがねー。
それに、古いところから読み直すと、たぶん結局は最新刊まで読み通す羽目になるんだよなぁ。それはさすがに疲れるよなぁ…(と言いつつ、きっと読み返すだろう私……)

うーむ、しかし、最新刊をもう読み終わってしまった…。次の巻がはやく出ないかなぁ。続きが気になるなぁ。連載中の漫画を読み続けるのは、ほんとうに辛いものです。毎度毎度、続きが気になって仕方がありません。まあ、この待ち遠しさを味わうのも、漫画を読む貴重な楽しみのうちのひとつかもしれませんけれどねー。10歳くらいから漫画を読み始めた私は、もう20年以上も、いまだにこのワクワク感を味わわされているわけですが、これはなかなか幸福なことと言えるのかもしれません。【お話の続きが気になるとき】って、かなりの喜びを感じていますものね。免疫力が上がりそうな、というか長生きできそうな…というか何と言うか。


というわけで、『ONE PIECE』、面白いです!




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マレーバク

2009年06月02日 | もやもや日記

試し描き。
自作マンガにもバクを描いたことがあるけど、
いい加減な認識だったので、模様が違ってたぜ…
下調べって大事ですよね……




マレーバクの黒いところと灰色のところの境目がどうなっているのか、はっきり知らなかったのですが、調べてみると、どうも意外とキッカリ・クッキリ分かれていますね。かなり直線的な境界線。ふーん。

で、可愛いのがマレーバクの子供。ウリ坊的にウリ模様になっているのですが、黒ベースに白い斑点なので、これがたまらなく可愛らしい。想像上の生き物のような美しさ。とても愛くるしい。


ツートンカラーの動物っていいですよね。私は好きです。ツートンカラーという言葉もなんとなく好き。意味的にはキッパリしているのに、ぼやーっとした響きがいいのでしょうか。




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『ジュリアン聖人伝』

2009年06月01日 | 読書日記ーフランス

ギュスターヴ・フローベール 鈴木信太郎訳
(『フランス文学19世紀 世界短篇文学全集6』集英社 所収)




《あらすじ》
森に囲まれた城に住む気高く優しい父母のもとに生まれたジュリアン。彼が生まれたとき、父母はそれぞれにその息子が将来聖人になる、帝王になるとのお告げを受けるが、互いにそのことを誰にも言わないままジュリアンを慈しむ。だが、健やかに優しく成長したはずのジュリアンは自らの欲望と力を御しきれず、狩りに熱中するあまり残虐な殺生を重ね、殺した牡鹿から「そのうち自分の父母をも殺すだろう」という呪いを受けて、おそろしさに城を飛び出してしまうのだった。


《この一文》
ジュリアンは、自分にこういう所業を科した神に対して反抗はしなかったが、しかしこんな大罪を犯し得たわが身に絶望したのである。




ジュリアンがいかにして聖人となったかを描いた、ほんの短い物語。ごく短い物語ですが、その描写はたいへんに美しいと同時に凄まじいものです。読み終えた後、私の胸は詰まって、なんだか分からない不思議な感情で詰まってしまいました。悲しみや怒りや絶望のように痛むのに、決してそのいずれでもない、妙な感じです。ジュリアンが過酷な運命を経て最後に聖人となるところでは、涙がぽたぽたと垂れて仕方がありませんでした。

私を打ったのはなんだったのだろうかと、随分と考えましたが、よく分かりません。少し物語を整理するところからやり直してみます。



 ********************

ジュリアンは、豊かで優しい父母のもとに生まれ、不自由なく育ち、美しく力強い肉体と、鋭く深い知性、優しい心根を持った青年に育つ。彼は、望みさえすればなんでも手に入れられるはずだった。そして、彼は自分の力のままに欲求を満たし始めるが、それと同時に心は冷却し、残酷さを増して行く。あるとき、無数に集まった鹿の群れを皆殺しにし、最後に立派な牡鹿を仕留めたら、その牡鹿はジュリアンにこう告げる。「呪われて、呪われろ、残忍無慈悲な奴だ。いつかは自分の父と母とを、手に掛けて殺そうぞ」

その後、狩りと武器を恐れるようになったジュリアンは、それにも関わらず手違いから父と母を殺しそうになったことに衝撃を受け、城を飛び出してしまう。

野武士の群に身を投じたジュリアンは、そこでも力を発揮し、しだいに勢力を強めて行く。弱い人々から名高い王など、実に多くの者を助け、その名を高めていたジュリアンは、あるとき回教徒に監禁されたオクシタニアの皇帝を救出する。皇帝は褒美に娘を差し出す。ジュリアンはその美しい娘に恋し、彼女を娶った。

妻との幸福な日々のなか、ジュリアンは誰から誘われても依然として狩りに出ることだけは拒んでいた。猟に行けば、父母を殺すという預言が実現しそうな気がしたからだ。しばらくはそうやって我慢していたが、ある晩とうとう我慢できず、ジュリアンは猟に飛び出した。

ジュリアンが猟に出かけたちょうどその後、みすぼらしい老人と老婆の二人連れが城を訪ねてくる。それはジュリアンの両親だった。かつてジュリアンが生まれた城を飛び出した後、両親もまた彼を探しに城を発ったのだった。王妃は不在のジュリアンに代わって年老いた両親をもてなし、自らの臥所に彼らを休ませた。

一方、猟に出たものの、成果を上げられず立腹して帰ってきたジュリアンは、妻の臥所に立ち寄ると、両親がふたりで眠る人形を、見知らぬ男と妻であると誤解し、短剣で突きまくる。誤解が解け、妻の姿を認めたジュリアンは、とうとう呪いの通りに両親を殺してしまったことに絶望し、自分の城からも出て行く。

乞食となって諸国を遍歴するジュリアンは、人間を避け、孤独を求め、深い悔恨に涙を流しながら暮らしていたが、或る大河のほとりで、人を渡して、人に尽くして生涯を送ろうと考える。彼はその通りにし、河を渡るすべての人に、自らは何も求めることなく、逆に自分の持てるだけ全部の親切と祝福を与えるのだった。

ある嵐の夜、ジュリアン、と向こう岸から自分を呼ぶ声が聞こえたので、暴風のなかを舟を漕いで行くと、ぼろぼろの、だが不思議と威厳のある人物が立っている。ジュリアンはその人を舟に乗せ、荒れ狂う河を渡ろうと必死で漕ぐ。どうにか小屋に辿り着くと、その癩病病みの人物は腹が減ったと言うのでわずかな食べ物をすべて与える。寒いと言うので火をおこし、その人の望む通りに、自分の寝床に入れてやり、裸になって直に温めてもやる。

するとその癩病病みはジュリアンを抱きしめ、光り輝き、溢れる至楽と超人的の歓喜でジュリアンの霊魂を満たした。そうやって、ジュリアンは蒼々とした空間を登っていった。

 ********************


ふり返ってみると、前半の凄絶さがあまりにも凄まじいので、まずそれが衝撃的でした。度を超したジュリアンという人物のあり方は、度を超しているが故に、聖人とも帝王ともなる器であったと言えるでしょうか。

与えられた素晴らしい力をそのように行使しただけのことなのに、それによって望めるだけのものを望んだだけなのに、ジュリアンはなぜか幸福と平安を得られません。彼は持っていた全てを捨て去り、誰からも忘れ去られてしまってはじめて、ほんのささやかなものを得るのです。あまりと言えば、あんまりな人生です。

優しい心を持ちながらも、力の強さのみを選び、尊大さのために犯した過ちを、恐怖と嫉妬、憤りのために犯した過ちを、ひたすらに後悔し、贖罪するばかりのジュリアンの後半生は、あまりに痛ましい。この物語が私を打ったのは、こんなふうに、ささやかなものの価値を知るために、多大な損害と取り返しのつかぬ犠牲を払わねばならなかった哀れな人間も、最後にはやはり救われてほしいと私自身が願っているからだろう。結局は傷つけ、失うばかりで、何も得るところのなかったように見える彼の生涯にも、燦然と輝く美しいものがあったと、幸福とは必ずしも形ある何かを得ることではなく、罪を犯したとしても心がけ次第ではわずかばかりの平安くらいは望めるはずだということを信じたいからかもしれません。

しかし、罪を贖うことは可能でしょうか。罪はどこからやってくるのでしょうか。その罪へと人間を走らせるものは、誰かによってもたらされるものなのでしょうか。いいえ、それはすべて自分の心の内側から自分でやってきて、いつまでもそこに居座り、後悔と懺悔に苦しむことを要求するでしょう。ここに神は関係ない。自分のあり方というものにもっと注意を傾けていたら、おそらくは避けられたはずの罪に、神は関係ない。神はそれを罰しもしなければ救いもしないだろう。自分を救いたければ、自分でどうにかするしかない。そして自分を救うということは、自分の平安ばかりを考えるよりもむしろ他者のために尽くすことであり、自分の持ち物を、何かを欲っする心ごと、どんどん失っていくことなのかもしれない。全部手放して、自分と世界との境界が限りなく近づいたとき、彼はようやく、罪も罰も善も悪も、何にもないと同時に全てがある「世界」と一体となれるのかもしれない。そうやってはじめて彼は救われるのではないだろうか。そうであってほしい。私の目にジュリアンが偉大に映るのは、彼がその力をもってすれば、罪を罪とも思わないで平然と生きていくことだってできたのに、それをしなかったところかもしれません。自分だけの幸福を追求しようと思えばいくらでも出来たのに、誰かを傷つけたことなど忘れてしまって、罪を負おうとも考えずに、平然と当たり前の顔をして生きることだって可能なのに。きっと多くの人が、私もまた、そうしてきて、今もこれからもそうするだろう、そのように。だが、彼はそうしなかった。いや、できなかっただけかもしれないけれど。力にまかせて多くを奪った彼は、奪っただけのものを今度は、望まれるままに差し出して返済し、それでようやく救われたということでしょうか。自らの心によって自らを赦してもいいと、思えたということなのでしょうか。



「ジュリアン聖人伝」。こんなに真剣にこのことについて考えさせられるとは思わなかった。同じくフローベールによる『聖アントワヌの誘惑』を読み始めたところですが、笑いさえ誘う冒頭部分のために甘く見ていましたが、これはやはり気合いを入れ直さないとならないところでしょう。




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