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エレンブルグ著作リスト(部分)

2010年10月06日 | 読書日記―エレンブルグ

年譜はこれが便利そう。






数年前からエレンブルグの本を集めているのですが、どれを持っていて、どれを持っていないのか、それぞれの作品はどの時代に書かれたものなのか、という基本的なことを私はしっかり把握していないので、ちょっと調べてみました。

蔵書をひっくり返してみたところ、河出書房新社の『世界文学全集Ⅲ-19 エレンブルグ(雪どけ)/ソルジェニツィン(イワン・デニソビッチの一日/マトリョーナの家)』の後ろに付いている「年譜」がとても便利そうです。これは見やすい、分かりやすい。本編も解説もまだ全然読んでいませんが、面白そうです。ついでに、私はソルジェニーツィンを一切読んだことがありませんが、上の写真に写り込んだ「マトリョーナの家」の結末部分を見る限りでは、これもなんだか面白そうであります。そのうちに読みたい。

さて、この年譜とネット古書店で見つかるものを、すでに手元にあるものと照らし合わせてみたところ、翻訳されているものでまだ持っていない本が判明しました。というわけで、以下、入手済みのものと未入手のものをまとめてみました。誰得リスト。私得。



*********
(赤字は未入手/黒字は入手済/青字は入手済・既読)

*長編『フリオ・フレニトの遍歴』1921
*短編集『十三本のパイプ』1922

*評論『それでも地球はまわっている』1922
*長編『トラストDE』1923
*長編『ジャンヌ・ネイの愛』1923
*評論?『西方の作家たち』(1926邦訳出版年)
*ルポタージュ『現代の記録』1927-35
*ルポタージュ『夢の工場-映画年代記』1931(邦題『これが映画だ』)
*中編『モスクワは涙を信じない』1932(『黄昏の巴里』)
*長編『第二の日』1932-33
*中編『息もつがずに』1934

*長編『パリ陥落』1940-41
*エッセイ・演説集『人は生きることを望んでいる』1947-
*長編『嵐』1946-47
*??『銃殺されたフランス共産党員の手紙』(1950)
*エッセー『西洋作家への公開状』1950

*長編『第九の波』1951-52
*エッセー『作家の仕事について』1953
*評論?『世界に平和を』(1950)

*中編『雪どけ(第一部)』1954
*中編『雪どけ(第二部)』1956
*エッセイ『日本印象記』(1957)
*評論『チェーホフを読み返して』1959
*エッセー『ふらんすノート』1959

*回想記『人々・年月・生活』1960(『わが回想』)
*評論?『芸術家の運命』(1964)
*評論『文学芸術論集』(1968)
*ルポタージュ?『燃え上がるスペイン』(ヘミングウェイ、エレンブルグ)(1973)


******************


詩集は省いたのと、その他にも抜けているもの(あるいは重複しているもの)がありそうですが、おいおい修正することにして、赤字のものはまだ未入手なので、近いうちに揃えたいところです。だいぶ集めたと思ったけど、まだまだだなぁ。
青字は既に読んだもの。途中までしか読んでいないものは青くしていないのもありますが、それにしても、まだ全然読めてないですね。とにかく読まないことには始まらないので、このリストをたよりに、なるべく年代順に読んで行こうと思っています。となると、次は『ジャンヌ・ネイの愛』で、その次のために『第二の日』『息もつがずに』を入手しておかねば。
『雪どけ』は別の翻訳で2冊重複して所有していましたが、気にしない!



また、年譜には翻訳されていない小説もいくつか記載されてあるのですが、これがとても気になります。たとえば、こういうの。

*長編『ニコライ・クルボフの生涯と破滅』1922
*短編集『軽い結末をもつ六つの物語』1922
*長編『ぺてん師』1924
*中編『一九二五年夏』1925
*中編『平等者の陰謀』1928
*長編『ラージク・ロイトシュヴァンツの波瀾万丈の生涯』1929

とくに、『破滅と生涯』、『陰謀』、『波瀾万丈の生涯』が読みたいですね。ああ面白そう、なにこのタイトル、なんて面白そう。読みたいなぁ。



というわけで、集め出してから何年か寝かせてきた本を、ようやく落ち着いた気持ちで読み始められそうです。たぶん10年以内に半分くらいは読めるんじゃないかな!と。よーし、がんばるぞ!!

















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『黄昏の巴里』

2010年10月05日 | 読書日記―エレンブルグ

イリヤ・エレンブルグ 原子林二郎訳(ソヴェト文化社)



《あらすじ》
巴里の陋巷の安ホテル――それは人生の縮図だ。落魄した亡命政客、売春婦、革命家、スパイ、生活の波に押し流された小市民、こうした人達の織りなす現実界の布はあまりにも侘しい。エレンブルグの「黄昏の巴里」はこうした世界をとりあげて、彼一流の感覚的な筆致で描破したものだ。彼の描く第一次大戦後の巴里の動揺は、そのまま第二次大戦後の今日の現実にあてはまるものではなからうか。それは自棄と絶望、愛情と憎悪にむれかへつてゐる。それだけにこの作品はかぎりなく哀しい。だが黒々とした魂の闇の裡に、よりよき未来へ、よりよき世界への郷愁がのたうちもだへてゐることを蔽ふことができない。(あとがきより)


《この一文》
“……が、メイは間もなく苦つぽい笑を浮べた。まるで天に唾を吐くやうなものぢやないか!……自分の生きてゐる時代が若いからといつて、腹を立てていゝものだらうか? どうもさうらしい。まるで絵葉書かなんかみたいなものだ。たつたそれだけだ。だが僕達の運命は独特だ。ジャングルから開墾地を作り上げたのだ。これも又芸術と言へるのぢやないだらうか? いゝや、僕達は幸福だ。僕は新しい時代に生れたのだ。この素晴らしい時代と共に生きてゐるのだ!……”





本書の翻訳は、1933年に発行された原題「モスクワは涙を信じない」(ソ連国立芸術文学出版所版)によるものとのこと。「モスクワは涙を信じない」って言葉があるんだ、モスクワの人達は涙を信じないんだ。そして事実正しいんだ。泣いちゃいけないんだ、生活しなくちゃならないんだ。そのときは信じない者も信ずるようになるだろうよ。モスクワは愛することだけを知っている。だから涙を流して悲しむ必要がないんだ……という文章がこの作品の中にあります。この頃のエレンブルグは故郷へ帰りたかったのでしょうか。どうかな。真意ははかりかねますが、しかし、深い悲しみがあるのはたしかです。


哀しい。とにかく哀しい。エレンブルグは初期の小説『フリオ・フレニトの遍歴』、『トラスト・DE』以降の作品は、少なくとも日本ではあまり高く評価されていないように感じますが、この『黄昏の巴里』を読んでみて、その理由がなんとなくですが分かってきたような気がします。哀しいんです。ただただ哀しい。フレニトやエンス・ボートのように、世の中に絶望するあまりそれを丸ごと滅ぼしてしまえ! という強烈なキャラクターが出てくることもなく、初期ではしばしば見られた弾けるようなおどけたようなユーモアもなく、ただひたすらに悲しくみじめな人々の様子を描いているのです。真顔の文学と言った感じ。どうしてしまったんだ。悲しくて、悲しくて、すっきりしません。

けれども、私にはこの『黄昏の巴里』はとても心を打つ小説でありました。
舞台は突然の不景気に襲われた(恐らく世界恐慌)直後のパリ。安ホテル『モンブラン』に住む人々のそれぞれの人生を、悲しみを描いています。「仕事がない」「金がない」、そのために人々は転落し、楽しみも、希望も、信頼も、愛情も、自尊心さえ失ってゆきます。目も当てられぬような悲惨。それもこれも、金もなく、仕事もないからなのです。こんなことってあるでしょうか。そんなことのために人生から滑り落ちなくてはならないとしたら、人生っていったいなんだっていうんでしょう。あまりに悲しくて、あまりに不条理なので、私は真夜中に読みはじめて60ページまで読んだところで寝入ったのですが、その夜は一晩中うなされました。ひどい夢を見た。そして、滅入ったまま読み進め、最後の30ページほどのところまではずっと深く滅入ったままでした。これは、あまりに悲しい。どうして世の中はこんなに悲しいんだろう。どうして人の世はこんなにみじめなんだろう?
最後の30ページまでは、というのは、最後の最後には物語の終わりがあるからです。悲しみはひとまず終わりました。そこにはいくらかの希望と安堵感がありました。私は物語の終わりを好みませんが、しかし、新しく始めるためには一度終わらなければならないということは分かっています。特にこの場合には、お話は終わってしまって良かったのです。


さて、主人公の一人にメイという画家がいるのですが、彼は絵の勉強をするためにロシアの地からパリへとやってきました。そして1年間を『モンブラン』で暮らすようになります。彼の存在のみが、この作品の真っ暗さのなかで、ほんのりと優しく光っています。私は、エレンブルグがいったいどのような気持ちで「彼」を生み出したのだろうか、また「彼」を結末ではパリから去らせ、恋人を残したまま故郷へと帰らせたのだろうかと想像しては、どうしてだか涙があふれてくるのを止めることができません。

エレンブルグの別の小説『十三本のパイプ』に「外交官のパイプ」という短篇があり、私はそのお話が大好きなのですが、その中にもペンキ塗りの男が登場します。彼はもう一人のメイ、メイはもう一人のペンキ塗りと言えましょう。人生を、人生そのものとして愛し、生きる男です。何に対してもこだわらず、とらわれず、鳥のように軽やかに、生活を、そのときそのときを愛し、いつも前を向いて生きてゆく男です。彼はあまりに純で幸福そうなので、周りの人からは馬鹿にされています。でも、人々が絶望し転げ落ちてゆく中で、彼だけが幸福に、生活の中を生きていけるのです。彼は自分の描く絵をむやみに売ったりしません。金に換えることよりも、絵は絵であって、それが誰かの心を動かすことを望んでいるのです。痛ましいほどに心の美しい人物。そのメイをパリに留まらせておくことができない、この悲しみ。故郷を離れパリで暮らし、パリの現実を見つめつづけたエレンブルグが、メイをパリに留まらせておくことができなかったという、この悲しみ。メイが美しく、朗らかに描かれれば描かれるほどに、私は悲しくて悲しくて悲しくてもう仕方がありませんでした。

ところで、エレンブルグ作品では、汚れ荒みきった世界にあって、希望を象徴する存在として描かれる人物には、画家や絵に関わる人物が多いような気がします。一方で、詩人や作家はろくでなしが多い。絵は世界の美そのものを描き出そうとするのに対して、言葉は世界の美しさを描き出そうとしても、同時に別の意味を、汚れた面をも織り込まずにいられないということの暗示なのでしょうか。もうちょっと他の作品も読んでみてから、また考察してみようと思います。

メイのほかにもう一人印象的だった人物が、ドイツ人の菓子売りクプファーです。クプファーは甘いもの嫌いのくせに菓子を売り、愚にもつかぬ論文を書き綴り、人の顔を見ればとにかく嫌味を言うような男として描かれます。メイがパリの『モンブラン』を去ったのに対し、クプファーは『モンブラン』など燃やしてしまえばいいと願いながらもそこに留まり、実際に彼が手を下したわけではないですが結果としてその通り『モンブラン』は焼失し、クプファーは捕らえられ、警察署長の取り調べに対して「僕はもううんざりしましたよ」と言って退場します。
私には、このクプファーのように、世の中を動かそうとする大きな流れがいくつかあるのに、そのどちらの正しさも信じられず、どうしたらいいのか分からず、ただ四方八方に当たり散らすしか出来ない人物の気持ちが分かるような気がします。(もっとも、作中人物の中で性質として一番私に近いと感じたのは、ロシアから流れてきた元貴族のゴルベフの奥さんエレーナでしたけど。もう死んでいるのに、勇気がないためにすっかり死んでしまうことができなくて、と言って生きていく希望も持てなくて、仕方なく暮らしているエレーナ。もちろん最後は破滅します)
クプファーは、彼自身を含め『モンブラン』の住人全員を見渡す一種の傍観者として描かれています。メイが希望の心を集めて造ったエレンブルグのひとつの面を表す人物ならば、クプファーは次々と襲う混乱と絶望の中で諦めて傍観者に徹するエレンブルグのもう別の面を表す人物と言えるかもしれません。心が引き裂かれています。




期待していた以上に、素晴らしい作品でした。私はエレンブルグが好きだ。この人の絶望と憎悪ゆえに、この人を愛します。この人の言葉に込められた深い絶望と激しい憎悪におののいてうなだれてしまいますが、こぼれ落ちる涙は、この人がそれでもなお抑えられなかった人類への希望と愛とを私に教えてくれるからです。私はよく泣くけれども、それはただ悲しくて泣くのではない。美しいから泣くんだ。

というわけで私は泣きながら物語を読みましたが、読み終える頃に、この本があまりの古さのためにバラバラと壊れてしまったことにもまた涙を禁じ得なかったのでありました。手放す気はないので、どうにか修復しようと思います。






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牡牛座の昨日

2010年10月03日 | もやもや日記

芋井くん(サツマイモ)には壮大な夢がある。
それはさておき、一体なにが「手遅れ」なんでしょう…?




以下、どうでもいいお話につき、閲覧注意。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




** 今日の牡牛座の運勢 - 10月2日(土) **

   外出にはアンラッキーな暗示が。
   特に予定もないのなら、ゆっくり自宅で過ごすべきかも。




上は、私が毎日何気なくチェックしている星座占い。牡牛座の昨日(土曜日)の運勢。たまにしか当たらないけど、昨日は当たりました。あまり良くない内容の時に限って当たった気になるのが、星座占いの常であります!

牡牛座のみなさん、昨日はどうでした?
私は……間抜けでした。ああ、当たったヨ!


というわけで私は牡牛座なんですけど、たしかに昨日は朝からボヤーッとして嫌な雰囲気はありました。できることなら家でじっとしていたかった。でも買うべきものがあったので仕方がなかった。
それで出かけたところ、悪い予感は的中したのです。おまけに、普段ならいくらぼんやりしている私と言えど、失態はひとつで済むところですが、昨日はふたつもやらかしてしまいました。あうー。


まずはひとつ目。
コーヒーの粉がなくなったので、新しいのを買おうと、近所のドラッグストアへ。次にスーパーにも行くからその時に買おうかなと思いつつ(←あとで振り返ると、これが余計な思考であった)、いくつも並んだ商品の中から無難な1袋を掴んで会計。
そして、スーパーで、さきほど既にコーヒーを購入したことを完全に忘却して(つい10分前の記憶が!)、なにやら「専門店のオリジナルブレンド」という地元のコーヒー専門店プロデュースっぽい品をもう1袋買ってしまいました。

やっちまった……!!

しかし、私の普段のコーヒー豆の消費量からすると、どうせすぐなくなってしまうから、これはまだいいんですよ。しばらく保管しておけますしね。飲み比べたっていいし、2袋あったって何も問題ないさ、そうさ。


堪えたのは、ふたつ目。
同じスーパーで、その他の食材も買わねばなりませんでしたが、ぼやぼやしていたら、うっかりやっちまいました。。。

陳列棚に掲げられた表示によると1袋100円くらいだと思って小さいサツマイモ(4本入り)を買ったら、レシートには300円て書いてあったんです(´;ω;`)

「!」やられた…私は、去年のちょうど今頃まだ横浜にいた頃にも、スーパーの特価表示につられて買ったカボチャが予想の三倍の価格だったことがあったんですよね(1個あたりではなく、100g当たりの値付けだった…よって300gで3倍)。要するに、秋だからって芋や南瓜の味覚につられてみては、毎年この時期に同じトラップにひっかかっているんですよ(←単なる注意不足とも言う)。多分、私が見た価格表示は、隣の商品の値段だったんだな…そう言えばサツマイモは別にバラでも売られていたかもというおぼろげな記憶が……(帰宅してから気づいたので確認はしていませんけど)。

それにしても、うぐぐぐ……
まあ、芋が300円なのはいいんですよ。芋がこんな値段では飢饉とかきたらマジヤバイと思うんですけど、一言に芋といっても高級ラインのだってあるし、それはいい。ただ、100円だと思ったのが実は300円だった時のダメージはデカイ。自分のうっかりで自分を引っ掛けてしまったわけですから、そんな自分の間抜けさがたまらなく憎いんです……うぅうぅ…!

などと一生懸命に書けば書くほど、話の小ささにますます情けない思いが満ちあふれてきますね。もっとスケールの大きい話の方がよかったかな。同じ古本をうっかりして2冊、どちらも1500円で買ってしまった話とか(ヽ´ω`)金額ガスコシデカクナッタダケ…ミタイナ...?

しばらくの間、自分の間抜けさ加減に打ちひしがれていた私ですが、買ってきた高級サツマイモは、よくみるとサツマイモ界のトップブランド「鳴門金時」でありました。普通のサツマイモだと思って買ったら、鳴門金時だったよ! そうか! それは期待!! これまでなかなか手が出なかったんだけど、うっかりしたおかげで食べられるぜ!


というわけで、牡牛座の私の土曜日はアンラッキーというよりも、おのれの間抜けっぷりに心が挫けそうになっただけで、落ち着いて振り返ると何も問題なかったですね。たまには高級食材もいい。結果的にはアンラッキーというより、美味しいものを手に入れられてラッキーだったじゃないですか。去年うっかりしたカボチャにしても、高価なだけあって、非常に美味しかったんですよね。ものの値段にはそれなりの理由があるようです。

おかげさまで私もすっかり立ち直ったところですが、ただ、やはりもうちょっと注意深くならないといけないかなとは思います。今回は助かったけど、間抜けなのはいかんよ、やっぱり。私の間抜けなのは、もはや「手遅れ」という感もありますが(ヽ´ω`)フフフ…



さあて、どうやって芋を食べようかな。
間抜けでも、美味しいものを食って、せめて元気ならいいや。ね!



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『南極の春』

2010年10月02日 | 映像

RUSH HOUR IN ANTARCTICA/54分/フランス(2005)



《内容》
南極大陸の春。アデリーペンギンが生まれ故郷の岩場を目指していっせいにやって来る。ペンギンたちとともに岩場で繁殖するユキドリやオオトウゾクカモメとの生存競争、また広々とした南極の氷の上で子育てをするウェッデルアザラシの春から夏にかけてのドキュメンタリー。




ペンギン映像が好きなので、機会がある毎に見ていますが、このドキュメンタリーはなかなか良かったです。まず、50分強という分量がちょうどいいですし、電子っぽい落ち着いた音楽もいいし、ひたすら静かなナレーションに終始するのもいい、冒頭から繁殖地を目指して駆け足で進むアデリーの足元を執拗に撮影するカメラワークにしても最高です。これは何度も見直したいレベルの秀作ですね。

それにしても、フランス人もペンギンが好きなんだなぁ。私の見ているペンギン映像はフランス物が多し。アナトール・フランスに『ペンギンの島』という小説があるのですが、アデリーペンギンの繁殖地の岩場映像を見るたびに、私はこの小説のことを思い出します。目の不自由な聖マエールがやってきて、人間と間違えてペンギンたちに洗礼をほどこしちゃうんだ。そして素朴で無害な集団であったところのペンギンたちは、ペンギン人となって悲しみの歴史を生み出してゆくのです……

それはともかく、アデリーペンギンの生態を見るのが面白いというのは、やはり人間の生活にも近いところがあるからなんでしょうかね。限られた狭い土地(岩肌の露出している場所は南極の地ではごくわずか)で、巣作りに必要な小石(貴重品)を巡って押し合いへし合い盗み合い、石に気を取られている間に肝心の卵をトウゾクカモメに奪われたりして、もう何が何やら、混乱の極みです。実に人っぽい。


この作品で素晴らしかったのは、アデリーペンギンが広々とした海中を飛ぶように泳いでいる映像が見られたことですね。ペンギンのあの弾丸のような泳ぎを撮影したものは他のところでもよく見られますが、これは特によく撮れていました。少し離れたところから撮影された、ペンギンが群れで泳いでいる映像は非常に幻想的。冷たく厚い氷の下の海は美しい。
アデリーペンギンは繁殖期には岩場で4ヶ月の間競争を繰り広げなければなりませんが、彼らには残りの8ヶ月間、広い広い海での生活もあるのです。いつかこちらの生活を追跡したドキュメンタリーがあったら見てみたいものです。全然違う世界なんだろうなぁ。

また、今回勉強になったのは、ユキドリについて。ユキドリというのはその名の通り雪のようにクチバシと目以外は全身が真っ白い鳥なのですが、巣をめぐっての攻防戦では互いのクチバシを噛み合いながら、同時に口から油分を含んだ悪臭のする液を相手に吹きかけて、たくさん汚したほうが勝利するらしい。負けた方は黄色く汚れて追い払われます。ヒナはふわふわしていて可愛い。



動物の生態を覗いてみると、彼らは彼らの環境やルールのもとで生きたり死んだりしていて、奪ったり傷つけたりすることで多少の悲しみはあっても、正義や悪はないように私には見えます。生きたり死んだりすること自体は、別に善いことでも悪いことでもないように見えます。人間の生き死にも同じでしょうか。それとも彼らにも彼らなりの正義や、悪が、あるのでしょうか、私にはそれが見えないだけで。

ついこんなことを考えてしまいましたが、美しい動物たちの映像を見て、ただそのものを見ずに、いちいち人間の世界のことを当てはめて考えてしまう私の見方は間違っているかもしれません。学ぶところはあるけれど、ひとまずはただそのものを見たらいい。南極は南極のままで。どこか遠い世界のままであってほしい気もする。


というわけで面白かったです。アデリーペンギンは結構足が速いということも、よく分かりました。南極はいい、南極は。







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ヨーロッパ旅行(夢で)

2010年10月01日 | 夢の記録

ウィーンのお菓子と軽食。
2004年11月9日のもの。
(Y女史からいただいた素敵な写真。私の撮ってきたのは変な写真ばかりである…)




今朝の夢の話です。



******

K氏が暇になったからヨーロッパでも行こう、なんて珍しいことを言い出した。私の方ではまったく異存がないわけで、二つ返事で快諾。でも、明後日にはもう出発しようだなんて、今からチケットなどの手配ができるのかしら……。

そしていきなり当日。
ヨーロッパ旅行と言っても、今回の旅行はさほど大掛かりなものではなく、ほんの2、3日の行程であるとのこと(無理だろ!とはいえ、これは夢ですから…)。そうか、それなら荷物は少なくて済むわね。必需品を詰めた小さな鞄を抱えて出かけようとするのが朝8時10分のこと。8時半には飛行機が離陸するというのに、なんと、K氏は呑気にラーメンなどを啜っている。

「こら、もう飛行機が飛んじゃうよ! 飯なんか機内食でもいいだろう!」

と慌てる私に、

「大丈夫、迎えが来るから」と言うK氏。その言葉通り、家の外に自動車がとまる音が聞こえた。運転手は紺色の事務服を着て栗色の髪をした痩せた若い女性で、どうやらこの旅行の手配をしてくれた人らしい。車内では、あれこれと旅の概要を説明されたような気がする。彼女の慌てふためいた運転ぶりに私もつられて焦ってしまうが、どうにか空港に到着(すごく近所だった。夢だから。出国手続きなども省略。夢だから)。


飛行機の中のことはよく覚えていない。私は飛行機という乗り物が苦手なので(高所恐怖症ゆえに)、夢の中でも思い出したくないのだと思う。


そしてついにヨーロッパ到着!
なんか北欧のどこかスウェーデンか、あるいはデンマークとかその辺という感じ。行ったことがないので、「石畳!」程度のこれまた曖昧な町並みしか再現できていませんでしたが、なんだかとても愉快だったのはたしかで、私は笑いながら目を覚ましたのでありました。



******


なんという楽しい夢!
と思って気持ちよく目覚めたのですが、こうやってよく思い出してみると、……全然旅行なんて出来ていませんね! 飛行機乗るのに慌てた! っていうだけの内容じゃないか(´∀`;)Oh...

そういうわけで、私は夢の世界を補強するためにも、またいつかヨーロッパを旅したいなぁと願うのであります。たぶんこの夢は「今度は北欧のあたりに行ったらいいんじゃない?」というお告げだと思うんですよね、ええ、ええ!

旅はいいものです、旅は。






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