本日まで那覇大綱挽まつりがあるのですが・・・
お祭りだけではない10月10日
「10・10空襲」とは
太平洋戦争が始まって3年近く経った1944年秋、それまで平穏な日々が続いていた沖縄に一気に戦火が広がった。近海に近づいた米軍の機動部隊から飛び立った艦載機が沖縄に襲いかかったのだ。この空襲は10月10日に行われたことから「10・10(じゅうじゅう)空襲」と呼ばれている。
1944年7月、マリアナ諸島を攻略した米軍は、次の目標をフィリピン奪還と定め、そのための制海制空権を確保しようと台湾から南西諸島にかけての日本軍基地を一斉に攻撃した。その中、10月10日には、沖縄本島に1日で延べ1400機もの艦載機が数次に渡る攻撃を加えた。最初は、飛行場など軍事施設を標的に爆弾を投下したり、機銃掃射を加えたりした。その後市街地を無差別に攻撃し、那覇市域の9割が焦土と化した。
この空襲での死傷者は600人に上った。「10・10空襲」以後も、那覇には何度も空襲が行われた。そして、1945年3月英軍も加わった連合軍は、50万人もの勢力で沖縄に侵攻、苛烈な沖縄戦が始まった。3カ月におよんだ陸海の激戦で死者は20万人を超し、沖縄県民の4人に1人が命を落とした。
ヤフーニュース
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1944(昭和19)年10月10日、米軍第三機動部隊空母から発進した艦載機が南西諸島全域を爆撃しました。
米軍の攻撃目標は飛行場と船舶や軍施設でしたが、なかでも県都那覇市は焼夷弾(しょういだん)による民間居住地域にも攻撃が加えられ多くの犠牲者を出しました。
空襲は、午前6時40分の第一次攻撃から午後3時45分の第五次攻撃まで9時間にわたる波状的空襲(はじょうてきくうしゅう)が行われ、のべ1,396機の米軍艦載機が縦横無尽に南西諸島を飛び回り爆弾や焼夷弾を投下するという、文字通りの無差別攻撃でした。
また、空襲には米軍の情報収集という側面もありました。米軍が沖縄戦で用いた作戦計画書「アイスバーグ作戦」の計画立案に必要な地形情報を得るため、空爆を行う一方で艦載機から写真を撮影し、この空中写真をもとに作戦地図を作成しました。
この米軍の空襲に対し、日本側は那覇無差別爆撃は国際法規違反であると抗議しています。この資料は、外務省外交史料館に所蔵されており、国立公文書館アジア歴史資料センターのサイトでも検索して閲覧することができます。参考:件名標題「3.那覇無差別爆撃関係」レファレンスコード:B02032457100