とあるスナックで
コー
1985年10月31日、中曽根康弘首相は<国際協調のための経済構造調整研究会>を創設し、前川を座長に任命して、<中、長期的視点から日本の経済的、社会的構造と運営に関する政策を研究>し、どう改革していくかを明らかにするという仕事をゆだねた。
前川レポートは、その序文で結論を記している。<今や我が国は、従来の経済政策及び国民生活のあり方を歴史的に転換させるべき時期を迎えている。かかる転換なくして、我が国の発展はありえない>。レポートが掲げる中長期的な国家政策目標は、<経常収支不均衡を国際的に調和のとれるよう着実に縮小させること>であり、<この目標実現の決意を・・・・表明すべきである>としている。<経常収支の大幅黒字は、基本的には、我が国経済の輸出指向等経済構造>に由来すると、レポートは認識していた。したがって、<我が国の構造調整という画期的な施策を実施し、国際協調型経済構造への変革をはかることが急務である>
前川レポートは、アメリカ側通商代表の要望リストのようだった。
P-252
古いシステムに根を張った経済界、政界の利権をまるごと相手にして、これをどう克服するか?現実主義者に言わせれば、前川レポートが出発点にもならないことは自明だった。夢物語にすぎない。
歴史家なら、こうした困難を意外とは思うまい。一国が基本的な変革を遂げうる環境はたった一つしかない。それが歴史の法則だ。じじつ、経済的、社会的、政治的システムの大きな変革を遂げた国は世界にひとつもない。 危機に見舞われた場合をのぞけば、である。 どんなシステムにも既得権益があり、国家全体を揺るがし、エスタブリッシュメントの権力を侵食するほどの危機が起こった場合にだけ、変革が可能なのだ。そのときこそ、セントラル・バンカーの出番である。
小林
前川と彼のプリンスである三重野、福井は、日本を改革しうる操縦桿をにぎっていた。1989年に前川が世を去ったのちにも、福井と三重野は十年計画を着々と進めた。彼らは<窓口指導>の天井をますます高くして、バブルを生み出した。国の借金(窓口指導でコントロールされた信用創造)は、経済成長率をはるかに上回った。バブルを創り出したプリンスたちは、つぎにもっとも劇的で破壊的な方法でバブルをつぶした。
1993年にプリンス三重野が証言した通り、プリンスたちが金融の元栓を閉じれば不況に転じるのは避けられない。行き過ぎた信用は不良債権と化した。銀行システムは麻痺し、信用収縮(クレジット・クランチ)が不況を引き起こさざるをえなかった。この景気下降は完璧にコントロールされていた。1990年代の不況は、その深刻さも長さも中央銀行のプリンスたちが簡単に操作し、微調整できるものだった。いっぽう、世間の目は政治家と大蔵省にばかり向いていた。
日本銀行を疑う者はほとんどいなかった。
コー
コー
なぜ日銀幹部は、そんなことをしたのか。
日本は戦後、経済が波はあったが順調に拡大し、莫大な黒字を持つようになり、世界中からバッシングを受けるようになった。今の若い人には想像もできないかもしれないが、日本が世界で<NO1>の経済力を持っているとまで言われた時期があるんだ。ニューヨークのエンパイアステートビルを買ったり、オークションでゴッホの絵を何十億という金で買ったり、世界中で手に札束を持って暴れまわっていた時期があるんだ。その時に、アメリカ、ヨーロッパや世界中からバッシングを受けたんだ。日本が金持ちなのは、日本人だけが有利な国内法で守われていて、外国人が参入できないような国内の制度があり、非常に不平等な、関税の問題にしても、また農業の問題にしても、自分勝手な制度のためだと。それは非常にアンフェアだと。
世界中から、すごい、バッシングだったね。
P-247日本は戦後、経済が波はあったが順調に拡大し、莫大な黒字を持つようになり、世界中からバッシングを受けるようになった。今の若い人には想像もできないかもしれないが、日本が世界で<NO1>の経済力を持っているとまで言われた時期があるんだ。ニューヨークのエンパイアステートビルを買ったり、オークションでゴッホの絵を何十億という金で買ったり、世界中で手に札束を持って暴れまわっていた時期があるんだ。その時に、アメリカ、ヨーロッパや世界中からバッシングを受けたんだ。日本が金持ちなのは、日本人だけが有利な国内法で守われていて、外国人が参入できないような国内の制度があり、非常に不平等な、関税の問題にしても、また農業の問題にしても、自分勝手な制度のためだと。それは非常にアンフェアだと。
世界中から、すごい、バッシングだったね。
1985年10月31日、中曽根康弘首相は<国際協調のための経済構造調整研究会>を創設し、前川を座長に任命して、<中、長期的視点から日本の経済的、社会的構造と運営に関する政策を研究>し、どう改革していくかを明らかにするという仕事をゆだねた。
前川レポートは、その序文で結論を記している。<今や我が国は、従来の経済政策及び国民生活のあり方を歴史的に転換させるべき時期を迎えている。かかる転換なくして、我が国の発展はありえない>。レポートが掲げる中長期的な国家政策目標は、<経常収支不均衡を国際的に調和のとれるよう着実に縮小させること>であり、<この目標実現の決意を・・・・表明すべきである>としている。<経常収支の大幅黒字は、基本的には、我が国経済の輸出指向等経済構造>に由来すると、レポートは認識していた。したがって、<我が国の構造調整という画期的な施策を実施し、国際協調型経済構造への変革をはかることが急務である>
前川レポートは、アメリカ側通商代表の要望リストのようだった。
P-252
古いシステムに根を張った経済界、政界の利権をまるごと相手にして、これをどう克服するか?現実主義者に言わせれば、前川レポートが出発点にもならないことは自明だった。夢物語にすぎない。
歴史家なら、こうした困難を意外とは思うまい。一国が基本的な変革を遂げうる環境はたった一つしかない。それが歴史の法則だ。じじつ、経済的、社会的、政治的システムの大きな変革を遂げた国は世界にひとつもない。 危機に見舞われた場合をのぞけば、である。 どんなシステムにも既得権益があり、国家全体を揺るがし、エスタブリッシュメントの権力を侵食するほどの危機が起こった場合にだけ、変革が可能なのだ。そのときこそ、セントラル・バンカーの出番である。
小林
だから、国家的な危機が必要だったんですね。
P-253前川と彼のプリンスである三重野、福井は、日本を改革しうる操縦桿をにぎっていた。1989年に前川が世を去ったのちにも、福井と三重野は十年計画を着々と進めた。彼らは<窓口指導>の天井をますます高くして、バブルを生み出した。国の借金(窓口指導でコントロールされた信用創造)は、経済成長率をはるかに上回った。バブルを創り出したプリンスたちは、つぎにもっとも劇的で破壊的な方法でバブルをつぶした。
1993年にプリンス三重野が証言した通り、プリンスたちが金融の元栓を閉じれば不況に転じるのは避けられない。行き過ぎた信用は不良債権と化した。銀行システムは麻痺し、信用収縮(クレジット・クランチ)が不況を引き起こさざるをえなかった。この景気下降は完璧にコントロールされていた。1990年代の不況は、その深刻さも長さも中央銀行のプリンスたちが簡単に操作し、微調整できるものだった。いっぽう、世間の目は政治家と大蔵省にばかり向いていた。
日本銀行を疑う者はほとんどいなかった。
コー
大きな衝撃や危機は、国を変えることができる、ということか。
だからといって、何の権利があって、わざわざ危機を作れるのかということだ。
だからといって、何の権利があって、わざわざ危機を作れるのかということだ。