9.11について

2001年の9.11事件や、その他色々な感想、思い、などを書いていけたらなと、思っています。

9.11について  <円の支配者>リチャード・ヴェルナー著  その9

2017年04月24日 | 日記
とあるスナックで

小林
この本の P-252

日本が戦時経済体制を振り捨て、経済システムの変革を成し遂げるのに必要なもの、それは危機だった。そして、マキャヴエリ的思考の持ち主であるだけでなく、経済を動かすのに必要なツールを握っていたら、当然、どうやって危機を生み出すかを考えるだろう。前川リポートには、計画をどう実現するかという詳細は記されていなかった。しかし日銀のインサイダーたちはおどろくほど鮮明に、計画実現のタイムスケジュールを描いていた。公表された前川レポートは、日銀内部では当時もいまも「十年計画」という名前で呼ばれている。それは日本改造十年計画である。

銀行の貸出割り当てを縮小し、景気を後退させて、経済的危機を生み出したとしたら、その原因はたちまち世間に知れてしまうだろう。敵方は窓口指導の引き締めの行き過ぎを批判するだろうし、彼らを黙らせておくのは難しいに違いない。もっと大規模で長期的な危機を生み出すのに効果的なよい方法がある。逆を行くことだ。窓口指導の貸出割り当てを大幅に引き上げ、バブルをふくらませる。そうすれば、誰も危機の創出に反対しない。金融の元栓を開いて経済を金浸しにすれば、変革に反対する人々も潤うし、誰も文句は言わない。バブル期、企業の収益はうなぎのぼりで、不動産投機家と銀行は大儲けをし、政治家は党への献金というかたちで豊富なおこぼれにあずかり、大蔵省は思わぬ歳入増にほくほくだった。金融のゆるみで、日本中の交際費が急増した。産業界、官界、政界のエリートたちは好景気のおかげでご満悦だった。危険を見抜いて、提供される安易な儲け口を拒否するほど賢明な人間はほとんどいなかった。結果は望んだとおりになった。バブルがはじけ、深刻な危機が訪れたのだ。触れるものが金に化したために滅びたというミダス王と同じで、1980年代の金融緩和の代償は大きかった。

前川と彼のプリンスである三重野、福井は、日本を改革しうる操縦かんを握っていた。1989年に前川が世を去ったのちにも、福井と三重野は十年計画を着々と進めた。彼らは窓口指導の天井をますます高くして、バブルを生み出した。国の借金は(窓口指導でコントロールされた信用創造)は、経済成長率をはるかに上回った。バブルを創り出したプリンスたちは、つぎに最も劇的で破壊的な方法でバブルをつぶした。1993年にプリンス三重野が証言したとおり、プリンスたちが金融の元栓を閉じれば不況に転じるのは避けられない。行き過ぎた信用は不良債権と化した。銀行システムは麻痺し、信用収縮(クレジット・クランチ)が不況を引きおこさざるをえなかった。この景気下降は完璧にコントロールされていた。1990年代の不況は、その深刻さも長さも中央銀行のプリンスたちが簡単に操作し、微調整できるものだった。いっぽう、世間の目は政治家と大蔵省ばかりに向いていた。日本銀行を疑う者はほとんどいなかった。

プリンスたちは十年計画の目標の達成度合いに応じて、不況の長さを決めた。主たる目標のすべてが達成されたところで、不況を終わらせる。厳密にいえば、十年計画は1996年で終了する予定だった。たしかに、野心的な目標のいくつかは実現した。経済構造は劇的な変化を遂げた。サービス部門は97年には国民総生産の61パーセントを占めた。この数字は87年に前川が決めた目標値を上回っていた(日本の変化の詳細については次章)。長期不況によって、変革を求めるコンセンサスができあがった。
1986年なら、産業界、政界、官界の指導者のほとんど、そして一般サラリーマンや主婦も、国家を変革して国民の暮らし向きを変えろというアメリカの要求を拒否しただろう。だが、1996年には、古いシステムはもはや機能しない、日本はシステムを変えなければならないという思いが、おおぜいの意思決定者に広く深くしみわたっていた。日銀法を改正して中央銀行を政府、大蔵省、その他いかなる民主的機関からも独立させろという議論をプリンスたちがぶちあげたのはこの時であった。



コー
そして今、2017年、まさに同じことが、起きようとしているのではないだろうか。いやもう起きているのか。

銀行から貸し出される準備は万端整ったというところか。、日銀が銀行の国債を買い取って、それを各銀行の日銀の当座預金にべらぼうに積み上がってるわけだ。

さー銀行さん、じゃんじゃん<貸出し>をしてくださいよと。たしかに銀行が<貸出し>をしなければ、世の中のお金は増えない。増えなければ<デフレ>を終わらすことはできない。

問題は、銀行から貸し出されたお金がどこに向かうか。土地や株式などの<GDPに含まれない取引>にむかうのか、それとも<GDPに含まれる取引>に向かうのか。

ブームが去ったときに、銀行が<信用収縮>を起こすのか、起こさないのか。

お金が流れた先ではたして、<付加価値>を生むのか、生まないのか。


オリンピックを前にして、また、バブルが生まれそうだな。
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9.11について  <円の支配者> リチャード・ヴェルナー著 その8

2017年04月23日 | 日記
とあるスナックで
小林
そしてP-240

先に述べたとおり、90年代に日銀がその気になれば日本の不況を簡単に終わらせられたことを考え合わせると謎はさらに深まる。しかも、当時も日銀を動かしていたのは同じ人びとだった。三重野と福井である。大蔵省も政治家も専門的知識が少なく、信用創造が景気回復の鍵であることを(少なくとも98年までは)知らなかったが、日銀のプリンスたちは百も承知だった。戦争直後の時代、プリンスたちは信用収縮がもたらした不況に終止符を打って、優れた腕前を示した。1945年当時、不良債権問題はもっと深刻だったが、一万田は紙幣を印刷し、CPを買い取り、銀行システムに資金を注入して、信用創造を拡大した。ところが90年代、プリンスたちは景気を回復させるどころか、危機を長期化させ、悪化させる政策を選んだ。彼らの目標が日本経済をどん底におとすことだったと考えると、はじめてその政策の一貫性が見えてくる。
だが、なぜ、深刻な不況を望んだのだろうか?


コー
要するに、<300人委員会>側に怒られて、日本を変えようとしたということだと思う。<300人委員会>側、つまり、欧米の中央銀行、欧米の経済閣僚たち、特にアメリカの。そして欧米の政治家たちから。おい、日本よ俺たちのシマを荒らすな、とね。そして日本の経済システムは、俺らにとっては非常に危険なシステムだから、それを変えろと。

そして、日銀の生え抜きたちは、ははー、かしこまりました、おっしゃるとおりでございますと、<前川リポート>を作り、そのために日本経済を計画的に破壊したんだ。破壊しなければ、日本は変えられないと思い、計画、実行したということだ。

理由はどうであれ、これは日本国民にたいする、<犯罪>だと思う。

そしてその証拠を消すために、いそいで<窓口指導>を廃止し、<営業局>を改変したんだな。
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9.11について  <円の支配者> リチャード・ヴェルナー著  その7

2017年04月23日 | 日記
とあるスナックで

小林
ではなぜか。  いよいよ 第14章 ですね。


細かい窓口指導の手続きに精通していたことを考えれば、バブル生成期に営業局長だった福井俊彦は、不動産投機の取引にどれくらいのお金が流れたかを正確に把握していたはずだ。その気になれば、大口の借りての名前まですべてあげることができたろう。上司で師でもあり、副総裁といいながら事実上の日銀総裁だった三重野康は、1960年代、70年代の実体験から、不動産業種への貸出増加がバブルを生み出すことを充分に知っていた。80年代の福井と三重野の発言を見ると、何が起ころうとしているかを当時すでに承知していたことがわかる。二人とも銀行貸出とマネーサプライの拡大が不動産価格を押し上げたと述べているのだ。窓口指導の貸出割当枠の規模に関しては、決まった規則もなく、理由の開示もされず、大蔵省からの圧力もなければ、全世界の誰にも説明責任を負っていないから、福井と三重野は自分たちの判断どおりに行動できた。彼らが大蔵省の積極的な金融緩和策にはほんとうに反対なら、窓口指導の貸出伸び率をたとえば6パーセントから7パーセントにまで引き下げることは簡単だったはずだが、福井が指示したのは12パーセントから14パーセントという二桁の伸びだった。バブル生成が不可避の高い貸出伸び率を選んだのだ。なぜか?


コー
いまの日銀総裁は、黒田東彦、どうやら日銀生え抜きの総裁ではなく、大蔵省からの総裁みたいだな。
この伝家の宝刀<窓口指導>をあまりご存知ないみたいだな。デフレ対策として<超金融緩和>をやっているつもりだが、さっぱり効果がでてこない。そりゃそうだろう、世の中に新たにお金を増やして、そしてデフレを治そうとするには、<銀行の貸し出し>が増えなければならないということだ。貸し出されたお金がしかも、<不動産>や<株>のような<GDPに含まれない取引>に流れるのではなく、<GDPに含まれる取引>に流れる必要があるということだと思うな。

残念だが<窓口指導>の経験がない黒田総裁には、<窓口指導>に変わるアイデアがないように思われるな。

日銀の生え抜きたちは、うすら笑みを浮かべて、彼が失敗するのを待っているんだろう。
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9.11について  <円の支配者>リチャード・ヴェルナー 著 その6

2017年04月20日 | 日記
とあるスナックで

小林
どうやら、日銀の<営業局>というところが、キーポイントになるみたいですね。 P-235

見る目をもった日銀スタッフには、日本銀行にはエリート中のエリートが存在することは自明だった。この少数のグループは信用創造量を決定し、窓口指導の権力を頑強に守って、誰にも口出しをさせなかった。彼らは後継者を自分たちで選んだばかりではなく、忠実な部下だけを営業局長やその下の重要ポストに就けた。窓口指導政策を管轄する営業局の権利は非常に大きく、日銀の他の部門から独立していたので、他の日銀マンは彼らを<関東軍>と呼んだ。
関東軍とは、1920年代から満州に駐屯していた日本軍部隊である。東京の総司令部の掣肘(せいちゅう)を受けず、勝手に攻撃的な政策を追求した結果、日本を対中戦争に追い込むことになった。結果は悲惨だった。同じく窓口指導の貸出割り当ても日銀内部の少数のグループによって決められていて、彼らは誰にも責任を負わずに勝手に行動していた。敏感な銀行関係者はこの事実を知っていたが、日銀との良好な関係の維持に銀行の将来がかかったいたから、どうすることもできなかった。先の「日銀担2」の行員はこう証言している。「窓口指導は営業局長が決めていた。営業局長は日銀で最も強い力をもち、いつかは総裁になる人物だった。バブル時代の営業局長は福井で、20年前の局長は三重野だった」

三重野の公式な総裁就任より前の1988年、89年、すでに窓口指導の貸出枠は引き締められていた。しかし、当時の澄田総裁はこの政策転換についても何も知らされていなかった。バブルを生み出した信用創造の指導についても、彼は知らなかった。それなのに気の毒な澄田総裁はバブル発生の責任を問われ、日銀生え抜きのスタッフは資産インフレと闘う戦士、健全な金融政策の守護者とマスコミに称えられた。
1989年に総裁に就任した三重野はマスコミの喝采を浴びた。彼は責任のない傍観者のような顔でバブル時代の政策を批判し、自分は異なる政策を実施すると示唆した。


コー
大蔵省出身の総裁には、この<信用統制メカニズム>である<窓口指導>の詳しい内容を、あえて教えなかったんだな、日銀の生え抜きたちは。、
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9.11について  <円の支配者> リチャード・ヴェルナー 著 その5

2017年04月19日 | 日記
とあるスナックで

小林
この本の  P-207

日銀職員と銀行関係者のインタビューからすぐにわかるのは、日銀は貸出増額計画を銀行に押し付けただけではないということだ。それどころか、信用の増額を自在に決定し、実行したのである。日銀は80年代以前の時期や、さらには戦時中とまったく同じ総量規制を行っていた。窓口指導は依然として中央銀行の主要な政策手段だった。金利はせいぜいで「補完的」手段でしかなかった。日銀は貸出の増額割り当てを上回ったり下回ったりした銀行を罰した。銀行ははげしいランキング競争を展開しているから、たとえ罰せられることがなくても、割当額を残すどころか使い切るのに必死になることも十分に承知していた。1982年までの質的窓口指導も続いていた。したがって日本銀行は、不動産融資や建設業、ノンバンク金融機関への貸出が増大していること、つまり信用創造が投機的目的につかわれていることをよくしっていたのである。(コー注:この後を読むとわかるが、知っていたんではなく意識的に、投機目的に使われるようにしたのである)
Pー213
実際、日銀が不動産価格の高騰を見ていながら、またバブルを懸念する世間の抗議にあいながら、なぜ5年もの間、日本の銀行に対してとんでもなく大きな貸出増加枠を設定し続けたのか。これは謎である。日銀には70年代のバブルの経験があっただけではない。1960年代、研究者はすでに、日銀の窓口指導が信用の過剰な伸びの原因であると指摘していた。「民間銀行の信用創造の量をコントールするのは日本銀行の義務であるーーーー(1950年代の)過剰な融資は、収益の最大化を求めた銀行の過ちではなく、そのような信用の拡大を許した日銀の過ちである」(コー注:1950年代、60年代、70年代と日銀はバブルの経験があった)明らかに数十年の経験があり、信用割当枠を決めていた日銀が無実を申し立てても通らないだろう。これらの意思決定者がバブルを生み出していることを知らなかったはずはない、という結論しか考えられないのである。

窓口指導は1991年7月に突如、廃止された。それも、大慌てという感じで。日銀職員は、窓口指導の廃止があまりに急だったので驚いた、と語っている。6月にはヒアリングがおこなわれ、日銀職員はいつものように窓口指導の割当額の準備をしていた。そこへ、とつぜん廃止が声明され、仕事は中断した。窓口指導の担当者にも、廃止の理由は説明されなかった(日銀職員5)。
銀行側も同様に驚き、途方にくれた。窓口指導廃止後も間もなく、銀行側は、どうやって貸出計画を作成すればいいかわからない、と不満を述べた。「これまでは結局、日銀枠で全体の量がまず決まり、これをどう分けるかという議論だった」。「ある支店がもっと融資をしたいといってきても、枠がいっぱいだからだめだといったような安易な回答はできなくなる」
発表された窓口指導廃止の公式理由は、金融の規制緩和のために効果が薄れた、ということだった。
だが、インタビューした人々は誰も、窓口指導の効力がなくなったから廃止されたとは考えていなかった。効力は充分にあったのだ。銀行側も日銀職員も、突然の廃止の理由はわからないとと言った。理由は別のところにあるのかもしれない。窓口指導はバブルを発生させ、つぎはバブルを破裂させて1990年代の不況を招いた。事実、戦後を通じて、窓口指導の貸出増加枠は最も重要な経済変数だった。これは硝煙のたつ銃で、これをもっている者をつきとめれば犯人が簡単にわかる。そこで犯人を探すためには、誰がこの銃を持ち、誰が引き金を引いたのかを探らなければならない。

P-215
1989年6月、窓口指導で急激な引き締めをおこなってバブルをつぶし、90年代の不況をもたらしたのは日本銀行だった。
不況を長期化させたのも日銀である。
92年か93年に適切な景気浮揚策をとろうと思えばとれたのに、ほぼ10年間手を打たなかったのだ。また、90年代の危機の最終的な原因も明らかになった。

80年代のバブルを生み出した窓口指導の信用統制メカニズムである

これもまた、日銀によって支配されていた。日銀の政策が過去15年間の出来事の原因だったことは疑いない。
それでは日銀の政策を決めていたのは誰か。

この点において、日銀はほとんど明かしてくれない。それどころか1998年4月には組織が再編されてしまった。おもな変化があったのは肝心の 営業局 で、このころ英語では信用市場管理局とよばれていた。この名称がふたたびかわっただけではなく、金融市場局、信用機構室決済システム課、考査局の三つに分割された。こうして、信用統制政策の中枢をつきとめることは、さらに難しくなったのである。


コー
ベルナーは、さらに日銀を追及していくわけだ。すごいね。ドイツ人魂ここにあり、だね。







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