とあるスナックで
小林
コー
小林
この本の P-252
日本が戦時経済体制を振り捨て、経済システムの変革を成し遂げるのに必要なもの、それは危機だった。そして、マキャヴエリ的思考の持ち主であるだけでなく、経済を動かすのに必要なツールを握っていたら、当然、どうやって危機を生み出すかを考えるだろう。前川リポートには、計画をどう実現するかという詳細は記されていなかった。しかし日銀のインサイダーたちはおどろくほど鮮明に、計画実現のタイムスケジュールを描いていた。公表された前川レポートは、日銀内部では当時もいまも「十年計画」という名前で呼ばれている。それは日本改造十年計画である。
銀行の貸出割り当てを縮小し、景気を後退させて、経済的危機を生み出したとしたら、その原因はたちまち世間に知れてしまうだろう。敵方は窓口指導の引き締めの行き過ぎを批判するだろうし、彼らを黙らせておくのは難しいに違いない。もっと大規模で長期的な危機を生み出すのに効果的なよい方法がある。逆を行くことだ。窓口指導の貸出割り当てを大幅に引き上げ、バブルをふくらませる。そうすれば、誰も危機の創出に反対しない。金融の元栓を開いて経済を金浸しにすれば、変革に反対する人々も潤うし、誰も文句は言わない。バブル期、企業の収益はうなぎのぼりで、不動産投機家と銀行は大儲けをし、政治家は党への献金というかたちで豊富なおこぼれにあずかり、大蔵省は思わぬ歳入増にほくほくだった。金融のゆるみで、日本中の交際費が急増した。産業界、官界、政界のエリートたちは好景気のおかげでご満悦だった。危険を見抜いて、提供される安易な儲け口を拒否するほど賢明な人間はほとんどいなかった。結果は望んだとおりになった。バブルがはじけ、深刻な危機が訪れたのだ。触れるものが金に化したために滅びたというミダス王と同じで、1980年代の金融緩和の代償は大きかった。
前川と彼のプリンスである三重野、福井は、日本を改革しうる操縦かんを握っていた。1989年に前川が世を去ったのちにも、福井と三重野は十年計画を着々と進めた。彼らは窓口指導の天井をますます高くして、バブルを生み出した。国の借金は(窓口指導でコントロールされた信用創造)は、経済成長率をはるかに上回った。バブルを創り出したプリンスたちは、つぎに最も劇的で破壊的な方法でバブルをつぶした。1993年にプリンス三重野が証言したとおり、プリンスたちが金融の元栓を閉じれば不況に転じるのは避けられない。行き過ぎた信用は不良債権と化した。銀行システムは麻痺し、信用収縮(クレジット・クランチ)が不況を引きおこさざるをえなかった。この景気下降は完璧にコントロールされていた。1990年代の不況は、その深刻さも長さも中央銀行のプリンスたちが簡単に操作し、微調整できるものだった。いっぽう、世間の目は政治家と大蔵省ばかりに向いていた。日本銀行を疑う者はほとんどいなかった。
プリンスたちは十年計画の目標の達成度合いに応じて、不況の長さを決めた。主たる目標のすべてが達成されたところで、不況を終わらせる。厳密にいえば、十年計画は1996年で終了する予定だった。たしかに、野心的な目標のいくつかは実現した。経済構造は劇的な変化を遂げた。サービス部門は97年には国民総生産の61パーセントを占めた。この数字は87年に前川が決めた目標値を上回っていた(日本の変化の詳細については次章)。長期不況によって、変革を求めるコンセンサスができあがった。
1986年なら、産業界、政界、官界の指導者のほとんど、そして一般サラリーマンや主婦も、国家を変革して国民の暮らし向きを変えろというアメリカの要求を拒否しただろう。だが、1996年には、古いシステムはもはや機能しない、日本はシステムを変えなければならないという思いが、おおぜいの意思決定者に広く深くしみわたっていた。日銀法を改正して中央銀行を政府、大蔵省、その他いかなる民主的機関からも独立させろという議論をプリンスたちがぶちあげたのはこの時であった。
日本が戦時経済体制を振り捨て、経済システムの変革を成し遂げるのに必要なもの、それは危機だった。そして、マキャヴエリ的思考の持ち主であるだけでなく、経済を動かすのに必要なツールを握っていたら、当然、どうやって危機を生み出すかを考えるだろう。前川リポートには、計画をどう実現するかという詳細は記されていなかった。しかし日銀のインサイダーたちはおどろくほど鮮明に、計画実現のタイムスケジュールを描いていた。公表された前川レポートは、日銀内部では当時もいまも「十年計画」という名前で呼ばれている。それは日本改造十年計画である。
銀行の貸出割り当てを縮小し、景気を後退させて、経済的危機を生み出したとしたら、その原因はたちまち世間に知れてしまうだろう。敵方は窓口指導の引き締めの行き過ぎを批判するだろうし、彼らを黙らせておくのは難しいに違いない。もっと大規模で長期的な危機を生み出すのに効果的なよい方法がある。逆を行くことだ。窓口指導の貸出割り当てを大幅に引き上げ、バブルをふくらませる。そうすれば、誰も危機の創出に反対しない。金融の元栓を開いて経済を金浸しにすれば、変革に反対する人々も潤うし、誰も文句は言わない。バブル期、企業の収益はうなぎのぼりで、不動産投機家と銀行は大儲けをし、政治家は党への献金というかたちで豊富なおこぼれにあずかり、大蔵省は思わぬ歳入増にほくほくだった。金融のゆるみで、日本中の交際費が急増した。産業界、官界、政界のエリートたちは好景気のおかげでご満悦だった。危険を見抜いて、提供される安易な儲け口を拒否するほど賢明な人間はほとんどいなかった。結果は望んだとおりになった。バブルがはじけ、深刻な危機が訪れたのだ。触れるものが金に化したために滅びたというミダス王と同じで、1980年代の金融緩和の代償は大きかった。
前川と彼のプリンスである三重野、福井は、日本を改革しうる操縦かんを握っていた。1989年に前川が世を去ったのちにも、福井と三重野は十年計画を着々と進めた。彼らは窓口指導の天井をますます高くして、バブルを生み出した。国の借金は(窓口指導でコントロールされた信用創造)は、経済成長率をはるかに上回った。バブルを創り出したプリンスたちは、つぎに最も劇的で破壊的な方法でバブルをつぶした。1993年にプリンス三重野が証言したとおり、プリンスたちが金融の元栓を閉じれば不況に転じるのは避けられない。行き過ぎた信用は不良債権と化した。銀行システムは麻痺し、信用収縮(クレジット・クランチ)が不況を引きおこさざるをえなかった。この景気下降は完璧にコントロールされていた。1990年代の不況は、その深刻さも長さも中央銀行のプリンスたちが簡単に操作し、微調整できるものだった。いっぽう、世間の目は政治家と大蔵省ばかりに向いていた。日本銀行を疑う者はほとんどいなかった。
プリンスたちは十年計画の目標の達成度合いに応じて、不況の長さを決めた。主たる目標のすべてが達成されたところで、不況を終わらせる。厳密にいえば、十年計画は1996年で終了する予定だった。たしかに、野心的な目標のいくつかは実現した。経済構造は劇的な変化を遂げた。サービス部門は97年には国民総生産の61パーセントを占めた。この数字は87年に前川が決めた目標値を上回っていた(日本の変化の詳細については次章)。長期不況によって、変革を求めるコンセンサスができあがった。
1986年なら、産業界、政界、官界の指導者のほとんど、そして一般サラリーマンや主婦も、国家を変革して国民の暮らし向きを変えろというアメリカの要求を拒否しただろう。だが、1996年には、古いシステムはもはや機能しない、日本はシステムを変えなければならないという思いが、おおぜいの意思決定者に広く深くしみわたっていた。日銀法を改正して中央銀行を政府、大蔵省、その他いかなる民主的機関からも独立させろという議論をプリンスたちがぶちあげたのはこの時であった。
コー
そして今、2017年、まさに同じことが、起きようとしているのではないだろうか。いやもう起きているのか。
銀行から貸し出される準備は万端整ったというところか。、日銀が銀行の国債を買い取って、それを各銀行の日銀の当座預金にべらぼうに積み上がってるわけだ。
さー銀行さん、じゃんじゃん<貸出し>をしてくださいよと。たしかに銀行が<貸出し>をしなければ、世の中のお金は増えない。増えなければ<デフレ>を終わらすことはできない。
問題は、銀行から貸し出されたお金がどこに向かうか。土地や株式などの<GDPに含まれない取引>にむかうのか、それとも<GDPに含まれる取引>に向かうのか。
ブームが去ったときに、銀行が<信用収縮>を起こすのか、起こさないのか。
お金が流れた先ではたして、<付加価値>を生むのか、生まないのか。
オリンピックを前にして、また、バブルが生まれそうだな。
銀行から貸し出される準備は万端整ったというところか。、日銀が銀行の国債を買い取って、それを各銀行の日銀の当座預金にべらぼうに積み上がってるわけだ。
さー銀行さん、じゃんじゃん<貸出し>をしてくださいよと。たしかに銀行が<貸出し>をしなければ、世の中のお金は増えない。増えなければ<デフレ>を終わらすことはできない。
問題は、銀行から貸し出されたお金がどこに向かうか。土地や株式などの<GDPに含まれない取引>にむかうのか、それとも<GDPに含まれる取引>に向かうのか。
ブームが去ったときに、銀行が<信用収縮>を起こすのか、起こさないのか。
お金が流れた先ではたして、<付加価値>を生むのか、生まないのか。
オリンピックを前にして、また、バブルが生まれそうだな。