(01)
「最初の記事(3月10日)」で「証明」した通り、
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
従って、
(02)
「順番」を「入れ換へ」ると、
① AがBである。
② BはAである。
③ A以外Bでない。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(02)により、
(03)
① 私が理事長です。
② 理事長は私です。
③ 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(03)により、
(04)
① 私が理事長です。
② 理事長は私です。
に於いて、
①=② である以上、
① 私が理事長です。
といふ「日本語」が、
② 理事長は私です。
といふ「日本語」に、「言ひ換へ」られることは、「当然」である。
然るに、
(05)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。
(三上章、日本語の論理、1963年、40頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
三上章先生は、
① 私が理事長です。
といふ「日本語」が、
② 理事長は私です。
といふ「日本語」に、「言ひ換へ」られるといふことを、知ってゐた。
然るに、
(07)
② 理事長は私です。
に対する「対偶」は、
③ 私以外は理事長ではない。
である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 私が理事長です。
といふ「日本語」が、
② 理事長は私です。
といふ「日本語」に、「言ひ換へ」られるといふことを、知ってゐた、数学教師である、三上章先生が、
② 理事長は私です。
に対する「対偶」が、
③ 私以外は理事長ではない。
であることに、仮に、気付いてゐたならば、その時に、
① 私が理事長です。
② 理事長は私です。
③ 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=②=③ である。
といふことに、気付いたことになる。
然るに、
(09)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念館は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念館」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
然るに、
(10)
また、かりに大倉氏が、
タゴール記念館は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念館」を品評するという心持ちの文である。
といふ「言ひ方」からすれば、三上章先生は、
② 理事長は私です。
に対する「対偶」は、
③ 私以外は理事長ではない。
である。といふことに、気付いてゐたとは、言へない。
然るに、
(01)により、
(11)
「順番」を「入れ換へ」ると、
① AはBである。
② AがBである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
従って、
(11)により、
(12)
① これはいいです。
② これがいいです。
③ 良いのはこれです。
④ これ以外は良くないです。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
然るに、
(13)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
③ 良いのはこれです。
④ これ以外は良くないです。
と言ふのであれば、
③ 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くないです(これにします)。
といふ「意味」になる。
従って、
(12)(13)により、
(14)
② これがいいです。
③ 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くないです(これにします)。
に於いて、
②=③=④ である。
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
② これがいいです。
と言ふのであれば、
② これがいいです(これを下さい)。
③ 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くないです(これにします)。
といふ、「意味」になる。
従って、
(12)(15)により、
(16)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
① これはいいです。
といふ風に、言ふのであれば、
② これがいいです(これを下さい)。
とは言へない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(17)
② これがいいです(これを下さい)。
とは言へない。のであれば、当然、
① これはいいです(他のを見せて下さい)。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(18)
① これはいいです(他のを見せて下さい)。
② これがいいです(これを下さい)。
に於いて、
① と ② では、「意味」が「反対」である。
従って、
(11)~(18)により、
(19)
① AはBである。
② AがBである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ「公理(axiom)」によって、
① これはいいです(他のを見せて下さい)。
② これがいいです(これを下さい)。
といふ「定理(theorem)」が、「証明」される。
然るに、
(20)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、ハとガで意味が反対になることがある。
これはいいです。(不用)
これがいいです。(入用)
ここで異を立てる方にはハを使っているが、述語が同型異議になっている。不用の方はテモイイ、デモイイ(許可)で、入用の方はほめことば(好適)である。つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう(三上章、日本語の論理、1963年、156・7頁)。
然るに、
(21)
不用の方はテモイイ、デモイイ(許可)で、入用の方はほめことば(好適)である。つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう。
といふ「言ひ方」では、一体何故、
これはいいです。(不用)
これがいいです。(入用)
のやうに、「ハとガで意味が反対になることがある」のかといふ「問ひ」に、答へることは、出来ない。
従って、
(19)(20)(21)により、
(22)
一体何故、
これはいいです。(不用)
これがいいです。(入用)
のやうに、「ハとガで意味が反対になることがある」のかといふ「質問」に対して、三上章先生が、
つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう。
といふ、「答へにならない答へ」しか出来ないのであれば、三上章先生の、後継者の、諸先生方は、
① AはBである。
② AがBである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ「公理(axiom)」を、認めるべきである。
(23)
この「公理(axiom)」を、認めた上で、日本語の教師の方たちが、「日本語には主語が無い。」と言ふのであれば、私自身は、「日本語に、主語が有っても、主語が無くとも、どちらでもよい。」
ただし、
(24)
ならば、「日本語に即した文法の樹立を」を目指すわれわれは「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは、実は名詞だ」と宣言したい。どうしても区別したいなら「人称名詞」で十分だ。日本語の「人称代名詞」はこれからは「人称名詞」と呼ぼう
(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、40・41頁)。
といふ、金谷武洋先生の、「提案(主張)」には、全面的に、同意したい。
「最初の記事(3月10日)」で「証明」した通り、
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
従って、
(02)
「順番」を「入れ換へ」ると、
① AがBである。
② BはAである。
③ A以外Bでない。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(02)により、
(03)
① 私が理事長です。
② 理事長は私です。
③ 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(03)により、
(04)
① 私が理事長です。
② 理事長は私です。
に於いて、
①=② である以上、
① 私が理事長です。
といふ「日本語」が、
② 理事長は私です。
といふ「日本語」に、「言ひ換へ」られることは、「当然」である。
然るに、
(05)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。
(三上章、日本語の論理、1963年、40頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
三上章先生は、
① 私が理事長です。
といふ「日本語」が、
② 理事長は私です。
といふ「日本語」に、「言ひ換へ」られるといふことを、知ってゐた。
然るに、
(07)
② 理事長は私です。
に対する「対偶」は、
③ 私以外は理事長ではない。
である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 私が理事長です。
といふ「日本語」が、
② 理事長は私です。
といふ「日本語」に、「言ひ換へ」られるといふことを、知ってゐた、数学教師である、三上章先生が、
② 理事長は私です。
に対する「対偶」が、
③ 私以外は理事長ではない。
であることに、仮に、気付いてゐたならば、その時に、
① 私が理事長です。
② 理事長は私です。
③ 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=②=③ である。
といふことに、気付いたことになる。
然るに、
(09)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念館は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念館」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
然るに、
(10)
また、かりに大倉氏が、
タゴール記念館は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念館」を品評するという心持ちの文である。
といふ「言ひ方」からすれば、三上章先生は、
② 理事長は私です。
に対する「対偶」は、
③ 私以外は理事長ではない。
である。といふことに、気付いてゐたとは、言へない。
然るに、
(01)により、
(11)
「順番」を「入れ換へ」ると、
① AはBである。
② AがBである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
従って、
(11)により、
(12)
① これはいいです。
② これがいいです。
③ 良いのはこれです。
④ これ以外は良くないです。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
然るに、
(13)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
③ 良いのはこれです。
④ これ以外は良くないです。
と言ふのであれば、
③ 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くないです(これにします)。
といふ「意味」になる。
従って、
(12)(13)により、
(14)
② これがいいです。
③ 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くないです(これにします)。
に於いて、
②=③=④ である。
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
② これがいいです。
と言ふのであれば、
② これがいいです(これを下さい)。
③ 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くないです(これにします)。
といふ、「意味」になる。
従って、
(12)(15)により、
(16)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
① これはいいです。
といふ風に、言ふのであれば、
② これがいいです(これを下さい)。
とは言へない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(17)
② これがいいです(これを下さい)。
とは言へない。のであれば、当然、
① これはいいです(他のを見せて下さい)。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(18)
① これはいいです(他のを見せて下さい)。
② これがいいです(これを下さい)。
に於いて、
① と ② では、「意味」が「反対」である。
従って、
(11)~(18)により、
(19)
① AはBである。
② AがBである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ「公理(axiom)」によって、
① これはいいです(他のを見せて下さい)。
② これがいいです(これを下さい)。
といふ「定理(theorem)」が、「証明」される。
然るに、
(20)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、ハとガで意味が反対になることがある。
これはいいです。(不用)
これがいいです。(入用)
ここで異を立てる方にはハを使っているが、述語が同型異議になっている。不用の方はテモイイ、デモイイ(許可)で、入用の方はほめことば(好適)である。つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう(三上章、日本語の論理、1963年、156・7頁)。
然るに、
(21)
不用の方はテモイイ、デモイイ(許可)で、入用の方はほめことば(好適)である。つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう。
といふ「言ひ方」では、一体何故、
これはいいです。(不用)
これがいいです。(入用)
のやうに、「ハとガで意味が反対になることがある」のかといふ「問ひ」に、答へることは、出来ない。
従って、
(19)(20)(21)により、
(22)
一体何故、
これはいいです。(不用)
これがいいです。(入用)
のやうに、「ハとガで意味が反対になることがある」のかといふ「質問」に対して、三上章先生が、
つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう。
といふ、「答へにならない答へ」しか出来ないのであれば、三上章先生の、後継者の、諸先生方は、
① AはBである。
② AがBである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ「公理(axiom)」を、認めるべきである。
(23)
この「公理(axiom)」を、認めた上で、日本語の教師の方たちが、「日本語には主語が無い。」と言ふのであれば、私自身は、「日本語に、主語が有っても、主語が無くとも、どちらでもよい。」
ただし、
(24)
ならば、「日本語に即した文法の樹立を」を目指すわれわれは「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは、実は名詞だ」と宣言したい。どうしても区別したいなら「人称名詞」で十分だ。日本語の「人称代名詞」はこれからは「人称名詞」と呼ぼう
(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、40・41頁)。
といふ、金谷武洋先生の、「提案(主張)」には、全面的に、同意したい。