(Ⅰst)
(01)
① yは鼻であって、xはyを所有してゐる。
といふことは、
① yは、xの鼻である。
といふ「意味」である。
然るに、
(02)
そこでたとえば「象は鼻が長い」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのかはっきりしないから、このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。しかしこの文の論理構造をはっきり文章にあらわして「すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い」といえばいいかもしれない。しかし日常の言語によるコミニュケーションでは、たとえば動物園で象をはじめて見た小学生が、父親にむかってこのような文章で話しかけたとすれば、その子供は論理的であるといって感心されるまえに社会人としての常識をうたがわれるにきまっている(田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い。
といふことは、
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふことである。
然るに、
(04)
「最初の記事(3月10日)」で「確認」した通り、
① AはBである。
② AがBである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 象は鼻が長い。
ではなく、
① 象は鼻は長い。
といふ「日本語」は、
① 象は鼻は長い=
① 全ての象は鼻は長い=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
然るに、
(07)
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない。
のであれば、
① 象が存在するならば、鼻の長い象が存在する。
然るに、 (08)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2) 象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 1UE
3 (3)∃x(象x) A
4 (4) 象a A
1 4 (5) ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 24MPP
1 4 (6) ∃y(鼻yx&長y) 5&E
13 (7) ∃y(鼻yx&長y) 346EE
1 4 (8) ∀z(~鼻zx→~長z) 5&E
13 (9) ∀z(~鼻zx→~長z) 348EE
13 (ア) ~鼻bx→~長b 9UE
イ (イ) 長b A
ウ(ウ) ~鼻bx A
13 ウ(エ) ~長b アウMPP
13 イウ(オ) ~長b&長b イエ&I
13 イ (カ) ~~鼻bx ウオRAA
13 イ (キ) 鼻bx カDN
13 (ク) 長b→鼻bx イキCP
13 (ケ) ∃z(長z→鼻zx) クEI
13 (コ) ∃y(鼻yx&長y)& ∃z(長z→鼻zx) 7ケ&I
13 (サ)∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx) 3コ&I
1 (シ)∃x(象x)ならば、あるxは象であって、あるyはxの鼻であって、yは長く、あるzが長いならば、zはxの鼻である。
1 (ス)象が存在するならば、ある象は象であって、あるyは象の鼻であって、yは長く、あるzが長いならば、zは象の鼻である。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
然るに、
(09)
その一方で、
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふことは、
① 全ての象の鼻は長い。そして、全ての象の鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふことに、他ならない。
然るに、
(10)
(a)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2) 象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 1UE
3(3) 象a A
13(4) ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 23MPP
13(5) ∃y(鼻yx&長y) 4&E
1 (6) 象a→∃y(鼻yx&長y) 35CP
1 (7)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)} 6UI
13(8) ∀z(~鼻zx→~長z) 4&E
1 (9) 象a→∀z(~鼻zx→~長z) 38CP
1 (ア)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} 9UI
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} 7ア&I
(b)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)} 1&E
1 (3) 象a→∃y(鼻yx&長y) 2UE
1 (4)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} 1&E
1 (5) 象a→∀z(~鼻zx→~長z) 4UE
6(6) 象a A
16(7) ∃y(鼻yx&長y) 63CP
16(8) ∀z(~鼻zx→~長z) 65CP
16(9) ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 78&I
1 (ア) 象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 69CP
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} アUI
従って、
(10)により、
(11)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
であるとき、そのときに限って、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
である。
従って、
(06)~(11)により、
(12)
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」に対する、
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「翻訳」は、「正しい」。
然るに、
(13)
① 全てのxについて、xが象ならば、 あるyはxの鼻であって、 yは長く、 全てのzについて、zがxの鼻でないならば、 zは長くない。
② 全てのxについて、xが品ならば、 あるyはxの中の「これ」であって、yは良く、 全てのzについて、zがxの「これ」でないならば、 zは良くない。
③ 全てのxについて、xが僕ならば、 あるyはxが食べたいものであって、yはウナギであって、全てのzについて、zがxが食べたいものでないならば、zはウナギではない。
④ 全てのxについて、xがサンマならば、あるyは目黒のxであって、 yはうまく、 全てのzについて、zが目黒のxでないならば、 zはうまくない。
といふ、「変った日本語」が、「真(本当)」であるならば、
① 象は、鼻が長い。
② 品は、これがいいです。
③ 君たちはともかく、ぼくはウナギだ。
④ サンマは目黒に限る(目黒がうまい)。
といふ「日本語」は、全て、「真(本当)」である。
然るに、
(14)
あるいは、「一人しかゐない、ぼく」なのに、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
といふ「言ひ方」は、あるいは、「ヲカシイ」と言ふかも知れない。
然るに、
(15)
要するに「すべて」という語も「人間」という語も、「存在する」ということとは無関係である(沢田充茂、現代論理学入門、1962年、122頁)。
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
① 象は鼻が長い。
② 品はこれがいいです。
③ ぼくはウナギだ。
④ サンマは目黒に限る(目黒がうまい)。
といふ「日本語」は、四つとも全て、
① ∀x{Fx→∃y(Gyx&Gy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
② ∀x{Fx→∃y(Fyx&Gy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
③ ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
④ ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
といふ風に、「翻訳」される。
然るに、
(17)
⑤ こんにゃくは太らない。
もちろん、この文が問題となるのは、「太らない」のが「こんにゃく」ではなく、それを食べる人間様の場合である。
(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、84頁改)
従って、
(17)により、
(18)
⑤ こんにゃくは太らない。 といふのであれば、
⑤ こんにゃくが存在するならば、ある人が存在して、その人はこんにゃくを食べ、その人は太らない。
然るに、
(19)
1 (1)∀x{蒟蒻x→ ∃y(人y&食yx&~太y)} A
1 (2) 蒟蒻a→ ∃y(人y&食yx&~太y)} 1UE
3 (3)∃x(蒟蒻x) A
4(4) 蒟蒻a A
1 4(5) ∃y(人y&食yx&~太y) 24MPP
13 (6) ∃y(人y&食yx&~太y) 345EE
1 (7)∃x(蒟蒻x)→∃y(人y&食yx&~太y) 36CP
1 (8)あるxが蒟蒻であるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
1 (9)こんにゃくが存在するならば、ある人が存在して、その人はこんにゃくを食べ、その人は太らない。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
従って、
(18)(19)により、
(20)
⑤ こんにゃくは太らない。
といふ「日本語」は、
⑤ こんにゃくは太らない=
⑤ ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}=
⑤ 全てのxについて、xがこんにゃくであるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
従って、
(16)(20)により、
(21)
① 象は鼻が長い。
② 品はこれがいいです。
③ ぼくはウナギだ。
④ サンマは目黒に限る(目黒がうまい)。
⑤ こんにゃくは太らない。
に於いては、⑤ だけが、他とは異なるものの、これらの「日本語」は、
① ∀x{Fx→∃y(Gyx&Gy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
② ∀x{Fx→∃y(Fyx&Gy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
③ ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
④ ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
⑤ ∀x{Fx→∃y(Gy&Hyx&~Iy)}。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
従って、
(22)
① 象は、
② 品は、
③ ぼくは、
④ サンマは、
⑤ こんにゃくは、 といふ「日本語」は、「述語論理」に於いては、
① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xが品ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
④ 全てのxについて、xがサンマならば、
といふ「意味」になる。
然るに、
(23)
主題(話題語)は、日本語のように係助詞「は」で示されるもの、中国語のように語順(文頭)で示されるものがあり、見かけ上主語と区別しにくい場合も多い(ウィキペディア)。
然るに、
(24)
① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xが品ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
④ 全てのxについて、xがサンマならば、
⑤ 全てのxについて、xがこんにゃくならば、
といふのであれば、例へば、
① 象は鼻が長い=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
であれば、「象」を「話題」にしてゐて、
⑤ こんにゃくは太らない=
⑤ ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}。
であれば、「こんにゃく」を「話題」にしてゐる。
従って、
(21)~(24)により、
(25)
① 象は、
② 品は、
③ ぼくは、
④ サンマは、
⑤ こんにゃくは、
といふ「日本語」を、
① ∀x{Fx→
② ∀x{Fx→
③ ∀x{Fx→
④ ∀x{Fx→
⑤ ∀x{Fx→
といふ風に、すなはち、 ① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xが品ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
④ 全てのxについて、xがサンマならば、
⑤ 全てのxについて、xがこんにゃくならば、
といふ風に、「訳しても良い」のであれば、私自身も、
① 象(主題)は、
② 品(主題)は、
③ ぼく(主題)は、
④ サンマ(主題)は、
⑤ こんにゃく(主題)は、
といふことを、認めざるを得ない。
(Ⅱnd)
然るに、
(26)
それでは、狭義の述語論理において究極的な主語となるものは何であろうか。それは「人間」というような一般的なものではない。
また「ソクラテス」も述語になりうるし、「これ」すらも「これとは何か」という問に対して「部屋の隅にある机がこれです」ということができる。
そこで私たちは主語を示す変項x、yを文字通りに解釈して、「或るもの」(英語で表現するならば something)とか、「他の或るもの」というような不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といふ一つの文は、
(xはソクラテスである)(xは人間である)
という、もっとも基本的な 主語-述語 からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち、
SはPである。
という一般的な 主語-述語文は、
Fx Gx
という二つの文で構成されていると考える。そしてこの場合、Fx はもとの文の主語に対応し、Gx は述語に対応していることがわかる。
(沢田充茂、現代論理学入門、1962年、118・119頁)
従って、
(27)
⑥ ソクラテスは人間である=
⑥ ソクラテスといふ人間がゐる。
といふ「日本語」は、
⑥ ∃x(ソクラテスx&人間x)=
⑥ あるxはソクラテスといひ、そのxは人間である。
といふ「述語論理」に、対応する。
従って、
(26)(27)により、
(28)
⑥ ソクラテスは人間である。
といふ「日本語」に於ける、
⑥ ソクラテス は、「主語」ではなく、飽くまでも、
⑥ ソクラテスといふxが、「主語」である。
従って、
(29)
⑦ すべての哲学者は独身だ=
⑦ ∀x(哲学者x→独身x)=
⑦ 全てのxについて、xが哲学者ならば、xは独身である。
であれば、
⑦ 哲学者であるxが、「主語」であって、
⑦ 哲学者は、「主語」ではない。
従って、
(29)により、
(30)
ところで先にも述べたが、「すべての哲学者は独身だ」における「すべての哲学者」は、文法でいうような主語ではない。述語論理では「哲学者」は述語であり、「すべてのものは哲学者である」あるいは「哲学者であるすべてのものは」と読みかえられる(飯田賢一・中才敏郎・中谷隆雄、論理学の基礎、1994年、121・122頁)。
といふ、ことになる。
従って、
(29)(30)により、
(31)
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
であれば、
① 象x =象であるx
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
が、「主語」である。
従って、
(31)により、
(32)
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない。
といふ「日本語」を、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}= ① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」する限り、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」には、少なくとも、
① 象x =象であるx
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
といふ「二つの主語」があることになる。
然るに、
(33)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)。
従って、
(32)(33)により、
(34)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於いて、
① ∀x といふ「演算子の働き」は、
① {象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
といふ「全体」に及んでゐて、
① ∃y(鼻yx&長y)
に於いて、
① ∃x といふ「演算子の働き」は、
① (鼻yx&長y)
といふ「部分」に及んでゐる。
然るに、
(35)
日本語「象は鼻が長い」のようないわゆる「総主文」が存在する。このような日本語表現を二重の主語と解釈するかどうかは議論があるが、中国語においてはこのような表現は「主謂謂語句」、すなわち「主語+謂語(述語)」の組み合わせが副文として述語になっていると解釈する(ウィキペディア)。
従って、
(31)~(35)により、
(36)
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「等式」が、「正しい」限り、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」には、少なくとも、
① 象x =象であるx
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
といふ「二つの主語」があって、
① 象x は、
① 象は鼻が長い。といふ「全体」の「総主」であって、
① 鼻yx は、
① 鼻が長い。といふ「部分」の「主語」である。
然るに、
(37)
「象は鼻が長い」はどれが主辞がわからないから、このままでは非論理的な構造の文である、と言う人がもしあった(沢田『入門』二九ペ)とすれば、その人は旧『論理学』を知らない人であろう、これはこのままで、
象は 鼻が長い。
主辞 賓辞
とはっきりしている(三上章、日本語の論理、1963年、13頁)。
(38)
伝統論理学を速水滉『論理学』(16)で代表させよう。わたしのもっているのが四十三年の第十九冊一万部中の一冊で、なお引続き刊行だろうから、前後かなり多くの読者をもつ論理学書と考えられる。新興の記号論理学の方は、沢田充茂『現代論理学入門』(62)を参照することとする(三上章、日本語の論理、1963年、4頁)。
従って、
(36)(37)(38)により、
(39)
三上章先生は、
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ新『論理学』を知らない人であらう。
といふ、ことになる。
(Ⅲrd)
然るに、
(40)
「どうして中国語でなくて日本語にしたの」
そうしたら、返ってきた言葉に驚きました。皆打ち合わせていたかのように、「だって日本が好きなんです」と言うのです。好きだと言われたら、これはもはや理性ではなく、感情ですよね。「へえ、好きなんだ。それじゃしょうがないない」と私は頭をかいてみせましたが、正直とても嬉しかったのです(金谷武洋、日本語が世界を平和にするこれだけの理由、2014年、198頁)。
従って、
(41)
学生たちは、「金谷武洋先生」を含む、「日本人と日本」が好きである。
加へて、
(42)
さて、こういう練習を積み重ねているうちに、大変嬉しいことがおきました。他の大学の先生からたちから「先生の学生はとても自然な日本語を話しますね」とよく言われるようになったのです(金谷武洋、日本語が世界を平和にするこれだけの理由、2014年、97頁)。
従って、
(41)(42)により、
(43)
金谷武洋先生の、「日本語教授法」は、ほとんど「100点満点」なのだと、思ふ。
然るに、
(Ⅳth)
(44)
⑧ 愛してる=
⑧ ∃x∃y{僕x&君y&愛xy&∀z〔愛xz→(z=y)〕}=
⑧ あるxはボクであって、あるyは君であって、xはyを愛し、すべてのzについて、xがzを愛するならば、zはyと同じ人である。
於いて、
⑧ x=ぼく
⑧ y=君
⑧ 愛=愛xy
であるため、
⑧ 愛 といふ「述語」には、「x(主語)とy(目的語)」が、含まれてゐる。
従って、
(44)により、
(45)
そして、ここがとても大切な部分ですが、それ(主語や目的語や補語)は「省略」しているのではないのです。もともと述語に含まれているのです(金谷武洋、日本語が世界を平和にするこれだけの理由、2014年、97頁改)。
といふ「発想」は、「述語論理」そのものである。
従って、
(44)(45)により、
(46)
⑧ 愛してる=
⑧ ∃x∃y{僕x&君y&愛xy&∀z〔愛xz→(z=y)〕}=
⑧ あるxはボクであって、あるyは君であって、(xはyを愛し)、すべてのzについて、xがzを愛するならば、zはyと同じ人である。
といふ「等式」が、「正しい」のであれば、『「省略」しているのではないのです。(xとyは)もともと述語(である愛)に含まれているのです。』といふことは、まさしく、さうである。と、言はざるを得ない。
然るに、
(47)
1953年6月に50歳の三上が初めて上梓した『現代語法序説』は、当初かなり注目され反響を呼んだ。しかし、反響は一時的なものでしだいに下火となる。それだからこそ、当時からさらに半年を経るた2006年の現在でも「学校文法」は、十年一日の如く「文には主語と述語がある」と教えているのだし、海外の「日本語文法」でも、「日本語では主語がよく省略されます」と説明される「第二英文法」のままなのだ(金谷武洋、主語を抹殺した男 評伝三上章、2006年、176頁)。
然るに、
(48)
「昨日(3月11日)の記事」にも、書いた通り、私自身は、「三上文法」が、それほど「優れた文法」であるとは、思はない。
従って、
(25)(32)(43)(46)(48)により、
(49)
「結論」を確認すると、
(Ⅰ)
① 象は、
② 品は、
③ ぼくは、
④ サンマは、
⑤ こんにゃくは、
といふ「日本語」を、
① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xが品ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
④ 全てのxについて、xがサンマならば、
⑤ 全てのxについて、xがこんにゃくならば、
といふ風に、「訳しても良い」のであれば、私自身も、
① 象(主題)は、
② 品(主題)は、
③ ぼく(主題)は、
④ サンマ(主題)は、
⑤ こんにゃく(主題)は、
といふことを、認めざるを得ない。
(Ⅱ)
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない。
といふ「日本語」を、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」する限り、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」には、少なくとも、
① 象x =象であるx
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
といふ「二つの主語」があることになる。
(Ⅲ)
金谷武洋先生の、カナダ人に対する「日本語教授法」は、ほとんど「100点満点」なのだと、思ふ。
(Ⅳ)
⑧ 愛してる=
⑧ ∃x∃y{僕x&君y&愛xy&∀z〔愛xz→(z=y)〕}=
⑧ あるxはボクであって、あるyは君であって、xはyを愛し、すべてのzについて、xがzを愛するならば、zはyと同一人物。 といふ「等式」が、「正しい」のであれば、『「省略」しているのではないのです。(xとyは)もともと述語(である愛)に含まれているのです。』といふことは、まさしく、さうである。と、言はざるを得ない。
(Ⅴ)
私自身は、「三上文法」が、それほど「優れた文法」であるとは、思はない。
(50)
「ちえ蔵さま(https://shugohairanai.com/)」からのコメントをお待ちしてゐます。
(01)
① yは鼻であって、xはyを所有してゐる。
といふことは、
① yは、xの鼻である。
といふ「意味」である。
然るに、
(02)
そこでたとえば「象は鼻が長い」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのかはっきりしないから、このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。しかしこの文の論理構造をはっきり文章にあらわして「すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い」といえばいいかもしれない。しかし日常の言語によるコミニュケーションでは、たとえば動物園で象をはじめて見た小学生が、父親にむかってこのような文章で話しかけたとすれば、その子供は論理的であるといって感心されるまえに社会人としての常識をうたがわれるにきまっている(田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い。
といふことは、
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふことである。
然るに、
(04)
「最初の記事(3月10日)」で「確認」した通り、
① AはBである。
② AがBである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 象は鼻が長い。
ではなく、
① 象は鼻は長い。
といふ「日本語」は、
① 象は鼻は長い=
① 全ての象は鼻は長い=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
然るに、
(07)
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない。
のであれば、
① 象が存在するならば、鼻の長い象が存在する。
然るに、 (08)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2) 象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 1UE
3 (3)∃x(象x) A
4 (4) 象a A
1 4 (5) ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 24MPP
1 4 (6) ∃y(鼻yx&長y) 5&E
13 (7) ∃y(鼻yx&長y) 346EE
1 4 (8) ∀z(~鼻zx→~長z) 5&E
13 (9) ∀z(~鼻zx→~長z) 348EE
13 (ア) ~鼻bx→~長b 9UE
イ (イ) 長b A
ウ(ウ) ~鼻bx A
13 ウ(エ) ~長b アウMPP
13 イウ(オ) ~長b&長b イエ&I
13 イ (カ) ~~鼻bx ウオRAA
13 イ (キ) 鼻bx カDN
13 (ク) 長b→鼻bx イキCP
13 (ケ) ∃z(長z→鼻zx) クEI
13 (コ) ∃y(鼻yx&長y)& ∃z(長z→鼻zx) 7ケ&I
13 (サ)∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx) 3コ&I
1 (シ)∃x(象x)ならば、あるxは象であって、あるyはxの鼻であって、yは長く、あるzが長いならば、zはxの鼻である。
1 (ス)象が存在するならば、ある象は象であって、あるyは象の鼻であって、yは長く、あるzが長いならば、zは象の鼻である。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
然るに、
(09)
その一方で、
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふことは、
① 全ての象の鼻は長い。そして、全ての象の鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふことに、他ならない。
然るに、
(10)
(a)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2) 象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 1UE
3(3) 象a A
13(4) ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 23MPP
13(5) ∃y(鼻yx&長y) 4&E
1 (6) 象a→∃y(鼻yx&長y) 35CP
1 (7)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)} 6UI
13(8) ∀z(~鼻zx→~長z) 4&E
1 (9) 象a→∀z(~鼻zx→~長z) 38CP
1 (ア)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} 9UI
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} 7ア&I
(b)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)} 1&E
1 (3) 象a→∃y(鼻yx&長y) 2UE
1 (4)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} 1&E
1 (5) 象a→∀z(~鼻zx→~長z) 4UE
6(6) 象a A
16(7) ∃y(鼻yx&長y) 63CP
16(8) ∀z(~鼻zx→~長z) 65CP
16(9) ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 78&I
1 (ア) 象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 69CP
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} アUI
従って、
(10)により、
(11)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
であるとき、そのときに限って、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
である。
従って、
(06)~(11)により、
(12)
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」に対する、
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「翻訳」は、「正しい」。
然るに、
(13)
① 全てのxについて、xが象ならば、 あるyはxの鼻であって、 yは長く、 全てのzについて、zがxの鼻でないならば、 zは長くない。
② 全てのxについて、xが品ならば、 あるyはxの中の「これ」であって、yは良く、 全てのzについて、zがxの「これ」でないならば、 zは良くない。
③ 全てのxについて、xが僕ならば、 あるyはxが食べたいものであって、yはウナギであって、全てのzについて、zがxが食べたいものでないならば、zはウナギではない。
④ 全てのxについて、xがサンマならば、あるyは目黒のxであって、 yはうまく、 全てのzについて、zが目黒のxでないならば、 zはうまくない。
といふ、「変った日本語」が、「真(本当)」であるならば、
① 象は、鼻が長い。
② 品は、これがいいです。
③ 君たちはともかく、ぼくはウナギだ。
④ サンマは目黒に限る(目黒がうまい)。
といふ「日本語」は、全て、「真(本当)」である。
然るに、
(14)
あるいは、「一人しかゐない、ぼく」なのに、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
といふ「言ひ方」は、あるいは、「ヲカシイ」と言ふかも知れない。
然るに、
(15)
要するに「すべて」という語も「人間」という語も、「存在する」ということとは無関係である(沢田充茂、現代論理学入門、1962年、122頁)。
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
① 象は鼻が長い。
② 品はこれがいいです。
③ ぼくはウナギだ。
④ サンマは目黒に限る(目黒がうまい)。
といふ「日本語」は、四つとも全て、
① ∀x{Fx→∃y(Gyx&Gy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
② ∀x{Fx→∃y(Fyx&Gy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
③ ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
④ ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
といふ風に、「翻訳」される。
然るに、
(17)
⑤ こんにゃくは太らない。
もちろん、この文が問題となるのは、「太らない」のが「こんにゃく」ではなく、それを食べる人間様の場合である。
(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、84頁改)
従って、
(17)により、
(18)
⑤ こんにゃくは太らない。 といふのであれば、
⑤ こんにゃくが存在するならば、ある人が存在して、その人はこんにゃくを食べ、その人は太らない。
然るに、
(19)
1 (1)∀x{蒟蒻x→ ∃y(人y&食yx&~太y)} A
1 (2) 蒟蒻a→ ∃y(人y&食yx&~太y)} 1UE
3 (3)∃x(蒟蒻x) A
4(4) 蒟蒻a A
1 4(5) ∃y(人y&食yx&~太y) 24MPP
13 (6) ∃y(人y&食yx&~太y) 345EE
1 (7)∃x(蒟蒻x)→∃y(人y&食yx&~太y) 36CP
1 (8)あるxが蒟蒻であるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
1 (9)こんにゃくが存在するならば、ある人が存在して、その人はこんにゃくを食べ、その人は太らない。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
従って、
(18)(19)により、
(20)
⑤ こんにゃくは太らない。
といふ「日本語」は、
⑤ こんにゃくは太らない=
⑤ ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}=
⑤ 全てのxについて、xがこんにゃくであるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
従って、
(16)(20)により、
(21)
① 象は鼻が長い。
② 品はこれがいいです。
③ ぼくはウナギだ。
④ サンマは目黒に限る(目黒がうまい)。
⑤ こんにゃくは太らない。
に於いては、⑤ だけが、他とは異なるものの、これらの「日本語」は、
① ∀x{Fx→∃y(Gyx&Gy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
② ∀x{Fx→∃y(Fyx&Gy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
③ ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
④ ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
⑤ ∀x{Fx→∃y(Gy&Hyx&~Iy)}。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
従って、
(22)
① 象は、
② 品は、
③ ぼくは、
④ サンマは、
⑤ こんにゃくは、 といふ「日本語」は、「述語論理」に於いては、
① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xが品ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
④ 全てのxについて、xがサンマならば、
といふ「意味」になる。
然るに、
(23)
主題(話題語)は、日本語のように係助詞「は」で示されるもの、中国語のように語順(文頭)で示されるものがあり、見かけ上主語と区別しにくい場合も多い(ウィキペディア)。
然るに、
(24)
① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xが品ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
④ 全てのxについて、xがサンマならば、
⑤ 全てのxについて、xがこんにゃくならば、
といふのであれば、例へば、
① 象は鼻が長い=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
であれば、「象」を「話題」にしてゐて、
⑤ こんにゃくは太らない=
⑤ ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}。
であれば、「こんにゃく」を「話題」にしてゐる。
従って、
(21)~(24)により、
(25)
① 象は、
② 品は、
③ ぼくは、
④ サンマは、
⑤ こんにゃくは、
といふ「日本語」を、
① ∀x{Fx→
② ∀x{Fx→
③ ∀x{Fx→
④ ∀x{Fx→
⑤ ∀x{Fx→
といふ風に、すなはち、 ① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xが品ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
④ 全てのxについて、xがサンマならば、
⑤ 全てのxについて、xがこんにゃくならば、
といふ風に、「訳しても良い」のであれば、私自身も、
① 象(主題)は、
② 品(主題)は、
③ ぼく(主題)は、
④ サンマ(主題)は、
⑤ こんにゃく(主題)は、
といふことを、認めざるを得ない。
(Ⅱnd)
然るに、
(26)
それでは、狭義の述語論理において究極的な主語となるものは何であろうか。それは「人間」というような一般的なものではない。
また「ソクラテス」も述語になりうるし、「これ」すらも「これとは何か」という問に対して「部屋の隅にある机がこれです」ということができる。
そこで私たちは主語を示す変項x、yを文字通りに解釈して、「或るもの」(英語で表現するならば something)とか、「他の或るもの」というような不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といふ一つの文は、
(xはソクラテスである)(xは人間である)
という、もっとも基本的な 主語-述語 からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち、
SはPである。
という一般的な 主語-述語文は、
Fx Gx
という二つの文で構成されていると考える。そしてこの場合、Fx はもとの文の主語に対応し、Gx は述語に対応していることがわかる。
(沢田充茂、現代論理学入門、1962年、118・119頁)
従って、
(27)
⑥ ソクラテスは人間である=
⑥ ソクラテスといふ人間がゐる。
といふ「日本語」は、
⑥ ∃x(ソクラテスx&人間x)=
⑥ あるxはソクラテスといひ、そのxは人間である。
といふ「述語論理」に、対応する。
従って、
(26)(27)により、
(28)
⑥ ソクラテスは人間である。
といふ「日本語」に於ける、
⑥ ソクラテス は、「主語」ではなく、飽くまでも、
⑥ ソクラテスといふxが、「主語」である。
従って、
(29)
⑦ すべての哲学者は独身だ=
⑦ ∀x(哲学者x→独身x)=
⑦ 全てのxについて、xが哲学者ならば、xは独身である。
であれば、
⑦ 哲学者であるxが、「主語」であって、
⑦ 哲学者は、「主語」ではない。
従って、
(29)により、
(30)
ところで先にも述べたが、「すべての哲学者は独身だ」における「すべての哲学者」は、文法でいうような主語ではない。述語論理では「哲学者」は述語であり、「すべてのものは哲学者である」あるいは「哲学者であるすべてのものは」と読みかえられる(飯田賢一・中才敏郎・中谷隆雄、論理学の基礎、1994年、121・122頁)。
といふ、ことになる。
従って、
(29)(30)により、
(31)
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
であれば、
① 象x =象であるx
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
が、「主語」である。
従って、
(31)により、
(32)
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない。
といふ「日本語」を、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}= ① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」する限り、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」には、少なくとも、
① 象x =象であるx
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
といふ「二つの主語」があることになる。
然るに、
(33)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)。
従って、
(32)(33)により、
(34)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於いて、
① ∀x といふ「演算子の働き」は、
① {象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
といふ「全体」に及んでゐて、
① ∃y(鼻yx&長y)
に於いて、
① ∃x といふ「演算子の働き」は、
① (鼻yx&長y)
といふ「部分」に及んでゐる。
然るに、
(35)
日本語「象は鼻が長い」のようないわゆる「総主文」が存在する。このような日本語表現を二重の主語と解釈するかどうかは議論があるが、中国語においてはこのような表現は「主謂謂語句」、すなわち「主語+謂語(述語)」の組み合わせが副文として述語になっていると解釈する(ウィキペディア)。
従って、
(31)~(35)により、
(36)
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「等式」が、「正しい」限り、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」には、少なくとも、
① 象x =象であるx
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
といふ「二つの主語」があって、
① 象x は、
① 象は鼻が長い。といふ「全体」の「総主」であって、
① 鼻yx は、
① 鼻が長い。といふ「部分」の「主語」である。
然るに、
(37)
「象は鼻が長い」はどれが主辞がわからないから、このままでは非論理的な構造の文である、と言う人がもしあった(沢田『入門』二九ペ)とすれば、その人は旧『論理学』を知らない人であろう、これはこのままで、
象は 鼻が長い。
主辞 賓辞
とはっきりしている(三上章、日本語の論理、1963年、13頁)。
(38)
伝統論理学を速水滉『論理学』(16)で代表させよう。わたしのもっているのが四十三年の第十九冊一万部中の一冊で、なお引続き刊行だろうから、前後かなり多くの読者をもつ論理学書と考えられる。新興の記号論理学の方は、沢田充茂『現代論理学入門』(62)を参照することとする(三上章、日本語の論理、1963年、4頁)。
従って、
(36)(37)(38)により、
(39)
三上章先生は、
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ新『論理学』を知らない人であらう。
といふ、ことになる。
(Ⅲrd)
然るに、
(40)
「どうして中国語でなくて日本語にしたの」
そうしたら、返ってきた言葉に驚きました。皆打ち合わせていたかのように、「だって日本が好きなんです」と言うのです。好きだと言われたら、これはもはや理性ではなく、感情ですよね。「へえ、好きなんだ。それじゃしょうがないない」と私は頭をかいてみせましたが、正直とても嬉しかったのです(金谷武洋、日本語が世界を平和にするこれだけの理由、2014年、198頁)。
従って、
(41)
学生たちは、「金谷武洋先生」を含む、「日本人と日本」が好きである。
加へて、
(42)
さて、こういう練習を積み重ねているうちに、大変嬉しいことがおきました。他の大学の先生からたちから「先生の学生はとても自然な日本語を話しますね」とよく言われるようになったのです(金谷武洋、日本語が世界を平和にするこれだけの理由、2014年、97頁)。
従って、
(41)(42)により、
(43)
金谷武洋先生の、「日本語教授法」は、ほとんど「100点満点」なのだと、思ふ。
然るに、
(Ⅳth)
(44)
⑧ 愛してる=
⑧ ∃x∃y{僕x&君y&愛xy&∀z〔愛xz→(z=y)〕}=
⑧ あるxはボクであって、あるyは君であって、xはyを愛し、すべてのzについて、xがzを愛するならば、zはyと同じ人である。
於いて、
⑧ x=ぼく
⑧ y=君
⑧ 愛=愛xy
であるため、
⑧ 愛 といふ「述語」には、「x(主語)とy(目的語)」が、含まれてゐる。
従って、
(44)により、
(45)
そして、ここがとても大切な部分ですが、それ(主語や目的語や補語)は「省略」しているのではないのです。もともと述語に含まれているのです(金谷武洋、日本語が世界を平和にするこれだけの理由、2014年、97頁改)。
といふ「発想」は、「述語論理」そのものである。
従って、
(44)(45)により、
(46)
⑧ 愛してる=
⑧ ∃x∃y{僕x&君y&愛xy&∀z〔愛xz→(z=y)〕}=
⑧ あるxはボクであって、あるyは君であって、(xはyを愛し)、すべてのzについて、xがzを愛するならば、zはyと同じ人である。
といふ「等式」が、「正しい」のであれば、『「省略」しているのではないのです。(xとyは)もともと述語(である愛)に含まれているのです。』といふことは、まさしく、さうである。と、言はざるを得ない。
然るに、
(47)
1953年6月に50歳の三上が初めて上梓した『現代語法序説』は、当初かなり注目され反響を呼んだ。しかし、反響は一時的なものでしだいに下火となる。それだからこそ、当時からさらに半年を経るた2006年の現在でも「学校文法」は、十年一日の如く「文には主語と述語がある」と教えているのだし、海外の「日本語文法」でも、「日本語では主語がよく省略されます」と説明される「第二英文法」のままなのだ(金谷武洋、主語を抹殺した男 評伝三上章、2006年、176頁)。
然るに、
(48)
「昨日(3月11日)の記事」にも、書いた通り、私自身は、「三上文法」が、それほど「優れた文法」であるとは、思はない。
従って、
(25)(32)(43)(46)(48)により、
(49)
「結論」を確認すると、
(Ⅰ)
① 象は、
② 品は、
③ ぼくは、
④ サンマは、
⑤ こんにゃくは、
といふ「日本語」を、
① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xが品ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
④ 全てのxについて、xがサンマならば、
⑤ 全てのxについて、xがこんにゃくならば、
といふ風に、「訳しても良い」のであれば、私自身も、
① 象(主題)は、
② 品(主題)は、
③ ぼく(主題)は、
④ サンマ(主題)は、
⑤ こんにゃく(主題)は、
といふことを、認めざるを得ない。
(Ⅱ)
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない。
といふ「日本語」を、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」する限り、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」には、少なくとも、
① 象x =象であるx
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
といふ「二つの主語」があることになる。
(Ⅲ)
金谷武洋先生の、カナダ人に対する「日本語教授法」は、ほとんど「100点満点」なのだと、思ふ。
(Ⅳ)
⑧ 愛してる=
⑧ ∃x∃y{僕x&君y&愛xy&∀z〔愛xz→(z=y)〕}=
⑧ あるxはボクであって、あるyは君であって、xはyを愛し、すべてのzについて、xがzを愛するならば、zはyと同一人物。 といふ「等式」が、「正しい」のであれば、『「省略」しているのではないのです。(xとyは)もともと述語(である愛)に含まれているのです。』といふことは、まさしく、さうである。と、言はざるを得ない。
(Ⅴ)
私自身は、「三上文法」が、それほど「優れた文法」であるとは、思はない。
(50)
「ちえ蔵さま(https://shugohairanai.com/)」からのコメントをお待ちしてゐます。