(001)
③ A is B.
に於いて、
③ A を、「強く発音」すると、
④ A以外はBでない。
といふ「意味」になる。
従って、
(002)
「逆」に言ふと、
④ A以外はBでない。
といふことを、「主張」したい場合は、
③ A is B.
に於いて、
③ A を、「大きな声で、発音」する。
従って、
(003)
① AはBである。
③ AがBである。
に於いて、
① Aは〔清音〕 の「(心理的な)音量」よりも、
③ Aが〔濁音〕 の「(心理的な)音量」の方が、「大きい」のであれば、
その場合は、
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
③=④ でなければ、ならない。
然るに、
(004)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(005)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(004)(005)により、
(006)
① Aは〔清音〕 の「(心理的な)音量」よりも、
③ Aが〔濁音〕 の「(心理的な)音量」の方が、「大きい」。
従って、
(003)(006)により、
(007)
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(008)
② BはAである。
④ A以外はBでない。
といふことは、
③ BならばAである。
④ AでないならばBでない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(009)
③ BならばAである。
④ AでないならばBでない。
を、「記号」で書くと、
③ B→ A
④ ~A→~B
である。
然るに、
(010)
(a)
1 (1) B→ A 仮定
2 (2) ~A 仮定
3(3) B 仮定
1 3(4) A 13前件肯定
123(5) A&~A 42&導入
12 (6)~B 35背理法
1 (7)~A→~B 26条件法
(b)
1 (1) ~A→~B 仮定
2 (2) B 仮定
3(3) ~A 仮定
1 3(4) ~B 13前件肯定
123(5) B&~B 24&導入
12 (6)~~A 35背理法
12 (7) A 6二重否定
1 (8) B→ A 27条件法
従って、
(008)(009)(010)により、
(011)
② BはAである。
④ A以外はBでない。
の場合は、「対偶(Contraposition)」であって、それ故に、
②=④ である。
従って、
(007)(011)により、
(012)
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
③=④ であって、
② BはAである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
②=④ である。
従って、
(012)により、
(013)
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
②=③=④ である。
然るに、
(014)
逆には、(1)真でないときと、(2)真であるときがあります。そこで(1)と(2)をひっくるめて、「逆は必ずしも真ならず」といいます(山下正男、論理的に考えること、1985年、13・14頁)。
従って、
(013)(014)により、
(015)
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
(証明終了)
然るに、
(016)
① 中野区は東京都である。
② 東京都は中野区である。
③ 中野区が東京都である。
④ 中野区以外は東京都ではない。
に於いて、
① は、「本当」である。
② は、「ウソ」である。
③ も、「ウソ」である。
④ も、「ウソ」である。
(017)
① 東京都は日本の首都である。
② 日本の首都は東京都である。
③ 東京都が日本の首都である。
④ 東京都以外は日本の首都ではない。
に於いて、
① は、「本当」である。
② も、「本当」である。
③ も、「本当」である。
④ も、「本当」である。
従って、
(015)(016)(017)により、
(018)
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふことは、実際に、さうである。
然るに、
(019)
③ 東京都が日本の首都である。
ならば、言ふまでもなく、
① 東京都は日本の首都である。
従って、
(020)
③ AがBである。
ならば、言ふまでもなく、
① AはBである。
従って、
(020)により、
(021)
③ AがBである=
③ AはBであって(A以外はBでない)。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(022)
Definition of exclusive proposition
: a proposition in logic whose predicate is asserted to apply to its subject and no other “none but the brave deserves the fair” is a simple exclusive proposition(merriam-webster).
従って、
(021)(022)により、
(023)
③ AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
といふ「それ」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と呼ぶことにする。
然るに、
(024)
② 藤井総太( )指原莉乃と婚約!
であれば、「週刊誌の見出し」は、
② 藤井総太(が)指原莉乃と婚約!
であって、
② 藤井総太(は)指原莉乃と婚約!
ではあり得ない。
然るに、
(025)
マリリンモンローがディマジオと結婚!
のような見出しが女性週刊誌を賑わすのは、ガによってその上の体言を未知扱いにし、まったく驚いた、新しい情報だぞ! と読者に迫る手法である。
あのチャップリンが大往生。
のような場合、「あの」がついている以上、未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。
(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、41頁)
然るに、
(26)
「未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。」といふのは、「詭弁」に過ぎない。
従って、
(025)(026)により、
(027)
② 藤井総太(が)指原莉乃と婚約!
であれば、「週刊誌の見出し」は、
②(誰でも知ってゐる、他ならぬ、あの)藤井総太(が)指原莉乃と婚約!
といふ「意味」になる。
然るに、
(028)
②(他ならぬ)Aが
といふことは、
②(A以外ではない所の)Aが
といふ、ことである。
従って、
(028)により、
(029)
② AがBである=
②(他ならぬ)AがBである=
②(A以外ではない所の)AがBである。
といふ、ことになる。
従って、
(023)(029)により、
(030)
① AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
② AがBである=(A以外ではない所の)AがBである。
といふ「二通り」が、成立する。
然るに、
(031)
①(A以外はBでない)。は、「終止形」であって、
②(A以外ではない所の)は、「連体修飾語」である。
従って、
(030)(031)により、
(032)
① AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
② AがBである=(A以外ではない所の)AがBである。
に於いて、
① は、「終止形としての排他的命題」であって、
② は、「連体形としての排他的命題」であるとする。
然るに、
(033)
37講 格助詞「が・の」の働き
助詞は助動詞ほど現代語と離れていませんので、解釈面をしっかり押さえることがポイントです。初めに格助詞「が・の」です。両者は非常によく似ています。
(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、100頁)
すなはち、
(034)
① 君の家、私の国、君の行く道、博士の愛した数式。
に対して、
① 君が世、我が国、君が行く道、博士が愛した数式。
であるため、「が」と「の」は、非常によく似てゐる。
然るに、
(035)
① AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
② AがBである=(A以外ではない所の)AがBである。
③ AがBする(連体形)C(体言)。
に於いて、
① Aが(係助詞)
② Aが(係助詞)
③ Aが(格助詞)
であるため、
③ Aが(格助詞)Bする(連体形)C(体言)。
の場合は、ここでは、取りあげない。
然るに、
(036)
③ AならばBである(A→B)。
といふ「命題」を、「仮言命題」といふ。
然るに、
(037)
(a)
1 (1) A→ B 仮定
2(2) A&~B 仮定
2(3) A 2
12(4) B 13前件肯定
12(5) ~B 2&除去
12(6) B&~B 45&導入
1 (7)~(A&~B) 16背理法
(b)
1 (1)~(A&~B) 仮定
2 (2) A 仮定
3(3) ~B 仮定
23(4) A&~B 23&導入
123(5)~(A&~B)&(A&~B)12&導入
12 (6) ~~B 35背理法
12 (7) B 6二重否定
1 (8) A→ B 27条件法
従って、
(036)(037)により、
(038)
③ A→ B =AならばBである。
④ ~(A&~B)=AであってBでない、といふことはない。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(039)
④ AであってBでない、といふことはない。
といふのであれば、
④ AであってBでない。
ならば、そのときにだけ、「ウソ」である。
従って、
(038)(039)により、
(040)
③ Aならば、Bである=
④ AであってBでない、といふことはない。
といふ「仮言命題」は、
③ AであってBでない。
ならば、そのときにだけ、「ウソ」である。
然るに、
(041)
③ AならばBである=
③ 日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
であるとする。
然るに、
(040)(041)により、
(042)
③ 日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
といふのであれば、
⑤ 月曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 火曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 水曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 木曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 金曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 土曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
としても、
③ 日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
とふ「仮言命題」は、「ウソ」にはならず、
⑤ 日曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
のであれば、
③ 日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
とふ「仮言命題」は、「ウソ」になる。
従って、
(042)により、
(043)
⑤(日曜日以外でない所の)土曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない(としてもウソではない)。
④(日曜日以外でない所の)日曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない(としたらウソである)。
然るに、
(044)
④ 私はウソを言はない。
従って、
(043)(044)により、
(045)
⑤(日曜日以外でない所の)土曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない(といふことはアル)。
④(日曜日以外でない所の)日曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない(といふことはナイ)。
然るに、
(045)により、
(046)
④ AであってBでない、といふことはない。
③ AならばBである。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(045)(046)により、
(047)
③(日曜日以外でない所の)日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
④(日曜日以外でない所の)日曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない(といふことはナイ)。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(048)
③(日曜日以外でない所の)日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
といふことは、
③(他ならぬ)日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
といふことに、他ならない。
従って、
(036)~(048)により、
(049)
③ 日曜日が晴れならば、私は釣りに行く=(他ならぬ)日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
でなければ、ならない。
従って、
(027)(032)(049)により、
(050)
② 藤井総太が婚約 =(他ならぬ)藤井総太が婚約。
③ 日曜日が晴れならば、私は釣りに行く=(他ならぬ) 日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
に於いて、
② は、「連体形としての排他的命題」であって、
③ も、「連体形としての排他的命題」である。
従って、
(050)により、
(051)
② 藤井総太( )指原莉乃と婚約!
③ 日曜日( )晴れならば、私は釣りに行く。
に於ける、
② ( )には、「が」が入り、
③ ( )にも、「が」が入る「理由」は、
② 藤井総太(が)指原莉乃と婚約!
③ 日曜日(が)晴れならば、私は釣りに行く。
に於いて、それぞれが、
②「連体形としての排他的命題」であって、
③「連体形としての排他的命題」であるからである。
(証明終了)
従って、
(051)により、
(052)
② x( )象ならば、yはxの鼻である。
③ 日曜日( )晴れならば、私は釣りに行く。
に於ける、
② ( )には、「が」が入り、
③ ( )にも、「が」が入る「理由」は、
② x( )ならば、yはxの鼻である。
③ 日曜日( )晴れならば、私は釣りに行く。
に於いて、それぞれが、
②「連体形としての排他的命題」であるからである。
従って、
(036)(052)により、
(053)
② xが象ならば、
のやうな、「仮言命題の前件」としての、
② が は、
②「連体形としての排他的命題」に於ける「が」である。
然るに、
(054)
そこでたとえば「象は鼻が長い」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのかはっきりしないから、このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。しかしこの文の論理構造をはっきり文章にあらわして
「すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い」といえばいいかもしれない。しかし日常の言語によるコミニュケーションでは、たとえば動物園で象をはじめて見た小学生が、父親にむかってこのような文章で話しかけたとすれば、その子供は論理的であるといって感心されるまえに社会人としての常識をうたがわれるにきまっている(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)。
然るに、
(055)
しょゆうかく-いう-[2]【所有格】〔possessive case〕
英文法などで,主格・目的格と並ぶ格の一つ。所有・所属の関係を表すもの。my, your, its などの類(Weblio辞書)。
従って、
(055)により、
(056)
① yは鼻であって、xはyを所有してゐる。
といふことは、
① yは、xの鼻である。
といふ「意味」である。
従って、
(055)(056)により、
(057)
① すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い。
といふことは、
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふことである。
然るに、
(029)(032)により、
(058)
① 鼻が長い=鼻は長く(鼻以外は長くない)。
② 鼻が長い=(他ならぬ)鼻が長い。
といふ「二通り」が有る。
(059)
② 鼻が長い=(他ならぬ)鼻が長い。
といふのであれば、
② 鼻が長い。
といふ「それ」であっても、
② 藤井総太が婚約!⇒ビックリした。大変だ。
といふやうな「意味合ひ」が、「いくらか」は、無ければならない。
然るに、
(060)
三上章先生がいふ所の、
① 象は鼻が長い。
に於いて、
① 鼻が長い。
といふことに、
② 藤井総太が婚約!⇒ビックリした。大変だ。
といふやうな、『特別な意味』が有るとは、思へない。
従って、
(057)(060)により、
(061)
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
然るに、
(062)
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない。
と言ふのであれば、
① 象が存在するならば、鼻の長い象が存在する。
然るに、
(063)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2) 象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 1UE
3 (3)∃x(象x) A
4 (4) 象a A
1 4 (5) ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 24MPP
1 4 (6) ∃y(鼻yx&長y) 5&E
13 (7) ∃y(鼻yx&長y) 346EE
1 4 (8) ∀z(~鼻zx→~長z) 5&E
13 (9) ∀z(~鼻zx→~長z) 348EE
13 (ア) ~鼻bx→~長b 9UE
イ (イ) 長b A
ウ(ウ) ~鼻bx A
13 ウ(エ) ~長b アウMPP
13 イウ(オ) ~長b&長b イエ&I
13 イ (カ) ~~鼻bx ウオRAA
13 イ (キ) 鼻bx カDN
13 (ク) 長b→鼻bx イキCP
13 (ケ) ∃z(長z→鼻zx) クEI
13 (コ) ∃y(鼻yx&長y)& ∃z(長z→鼻zx) 7ケ&I
13 (サ)∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx) 3コ&I
1 (シ)∃x(象x)ならば、あるxは象であって、あるyはxの鼻であって、yは長く、あるzが長いならば、zはxの鼻である。
1 (ス)象が存在するならば、ある象は象であって、あるyは象の鼻であって、yは長く、あるzが長いならば、zは象の鼻である。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
然るに、
(064)
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふことは、
① 全ての象の鼻は長い。そして、全ての象の鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふことに、他ならない。
然るに、
(065)
(a)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2) 象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 1UE
3(3) 象a A
13(4) ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 23MPP
13(5) ∃y(鼻yx&長y) 4&E
1 (6) 象a→∃y(鼻yx&長y) 35CP
1 (7)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)} 6UI
13(8) ∀z(~鼻zx→~長z) 4&E
1 (9) 象a→∀z(~鼻zx→~長z) 38CP
1 (ア)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} 9UI
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} 7ア&I
(b)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)} 1&E
1 (3) 象a→∃y(鼻yx&長y) 2UE
1 (4)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} 1&E
1 (5) 象a→∀z(~鼻zx→~長z) 4UE
6(6) 象a A
16(7) ∃y(鼻yx&長y) 63CP
16(8) ∀z(~鼻zx→~長z) 65CP
16(9) ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 78&I
1 (ア) 象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 69CP
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} アUI
従って、
(065)により、
(066)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
であるとき、そのときに限って、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
である。
従って、
(054)~(066)により、
(067)
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」に対する、
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「翻訳」は、「正しい」。
然るに、
(068)
② ソクラテスは人間である。
といふ「日本語」は、
② ソクラテスといふ人間がゐる=
② ∃x(ソクラテスx&人間x)=
② あるxはソクラテスであって、そのxは人間である。
といふ「述語論」に、「翻訳」される。
然るに、
(069)
そこで私たちは主語を示す変項x、yを文字通りに解釈して、「或るもの」(英語で表現するならば something)とか、「他の或るもの」というような不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といふ一つの文は、
(xはソクラテスである)(xは人間である)
という、もっとも基本的な 主語-述語 からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち、
SはPである。
という一般的な 主語-述語文は、
Fx Gx
という二つの文で構成されていると考える。そしてこの場合、Fx はもとの文の主語に対応し、Gx は述語に対応していることがわかる。
(沢田充茂、現代論理学入門、1962年、119頁)
従って、
(068)(069)により、
(070)
② ソクラテスは人間である=
② ∃x(ソクラテスx&人間x)=
② あるxはソクラテスであって、そのxは人間である。
といふ「述語論理」には、
② ソクラテスx=ソクラテスといふx
② 人間x=人間であるx
といふ、「二つの主語」が、有ることになる。
然るに、
(071)
⑦ すべての哲学者は独身である。
といふ「日本語」は、
⑦ ∀x(哲学者x→独身x)=
⑦ 全てのxについて、xが哲学者ならば、xは独身である。
といふ「述語論」に、「翻訳」される。
然るに、
(072)
ところで先にも述べたが、「すべての哲学者は独身だ」における「すべての哲学者」は、文法でいうような主語ではない。述語論理では「哲学者」は述語であり、「すべてのものは哲学者である」あるいは「哲学者であるすべてのものは」と読みかえられる(飯田賢一・中才敏郎・中谷隆雄、論理学の基礎、1994年、121・122頁)。
といふ、ことになる。
従って、
(071)(072)により、
(073)
⑦ すべての哲学者は独身である=
⑦ ∀x(哲学者x→独身x) =
⑦ 全てのxについて、xが哲学者ならば、xは独身である。
といふ「述語論理」には、
⑦ 哲学者x=哲学者であるx
⑦ 独身x=独身であるx
といふ、「二つの主語」が、有ることになる。
従って、
(067)(070)(073)により、
(074)
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」には、少なくとも。
① 象x =象であるx
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
といふ、「二つの主語」が、有ることになる。
然るに、
(075)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)。
従って、
(074)(075)により、
(076)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於いて、
① ∀x といふ「演算子の働き」は、
① {象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
といふ「全体」に及んでゐて、
① ∃y(鼻yx&長y)
に於いて、
① ∃x といふ「演算子の働き」は、
① (鼻yx&長y)
といふ「部分」に及んでゐる。
従って、
(074)(075)(076)により、
(077)
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」には、
① 象x=象であるx
といふ「主語」は、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「全体」に対する「主語」であって、
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
といふ「主語」は、
① ∃y(鼻yx&長y)
といふ「部分」に対する「主語」である。
然るに、
(078)
日本語「象は鼻が長い」のようないわゆる「総主文」が存在する。このような日本語表現を二重の主語と解釈するかどうかは議論があるが、中国語においてはこのような表現は「主謂謂語句」、すなわち「主語+謂語(述語)」の組み合わせが副文として述語になっていると解釈する(ウィキペディア)。
従って、
(077)(078)により、
(079)
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」に、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「論理構造」が有る。
といふことを、認めるならば、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」には、
① 象x
① 鼻yx
といふ「二つの主語」が有って、尚且つ、
① 象x
は「総主」である。
然るに、
(080)
① An elephant has a long nose and no other part of it is not long.
といふ「英語」は、
① 象=Elephant
① 鼻=Nose
① 長=long
であるとして、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① As for all x, if x is an elephant then there is y such that y is a nose of x, and y is long. and as for all z, if z is not a nose of x then z is not long.
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
然るに、
(081)
① An elephant has a long nose and any other part of it is not long.
といふ「英語」だけを見て、
① nose
が「主語」であると、思ふ人は、一人もゐないはずである。
従って、
(082)
「総主(二重主語)」といふ「発想」は、
① 象は鼻が長い。
といふ「國語」に特有なのであって、
「総主(二重主語)」といふ「発想」は、
① An elephant has a long nose and any other part of it is not long.
といふ「英語」には、有り得ない。
然るに、
(083)
然ルニ國語ノ法則トシテ日本ノ文法ニ之ヲ編入スル者ナキハ何故ゾ。西洋ノ言語ニ類似ノ語法ナク、西洋ノ文典ニ類似ノ記載ナキガ故ニ非ザルカ(草野清淸、國語ノ特有セル語法―總主、明治三十二年)。
従って、
(082)(083)により、
(084)
「総主(二重主語)」といふ「発想」は、
① 象は鼻が長い。
といふ「國語」に「特有セル語法」なのであって、「西洋ノ言語ニ類似ノ語法ナク、西洋ノ文典ニ類似ノ記載ナシ」である。
然るに、
(085)
大辞林 第三版の解説
しゅじ【主辞】
「主語」に同じ。[形式論理学と文法]
そもそも主語・述語とは,形式論理学における命題〈AはBである〉のA(それについて語るところのもの)およびB(Aについて語る事がら)に当たるものを,アリストテレスがそれぞれギリシア語でhypokeimenon,katēgoroumenonと表現したことにさかのぼるという。これが,その後ラテン語でそれぞれsubjectum,praedictumと表現され,論理学および文法の用語としてしだいに定着,今日のヨーロッパ諸言語でも継承され(たとえば英語subject,predicate),また他の言語でも用いられるようになり,日本でも主語・述語と訳してきたものである(形式論理学では主辞・賓辞とも,文法では主部・述部とも訳す)。当初のヨーロッパでは論理学と文法は密接な(元来は未分化ともいえる)関係にあり,共通の用語となったのだが,しかし,両者は目標も対象も異なる学問である(文法は今日では言語学の一部として位置づけられている)。
従って、
(084)(085)により、
(086)
ある人が、
① 象は鼻が長い。
と言ふ「日本語」は、
① 象は
だけが「主語(主辞)」であって、
① 鼻が
は「主語(主辞)」でない。
とするならば、その人こそが、「西洋文法に巻かれていることを語る以外の何物でもない」。
然るに、
(087)
「象は鼻が長い」はどれが主辞がわからないから、このままでは非論理的な構造の文である、と言う人がもしあった(沢田『入門』二九ペ)とすれば、その人は旧『論理学』を知らない人であろう、これはこのままで、
象は 鼻が長い。
主辞 賓辞
とはっきりしている。速水式に簡単明リョウである。意味も、主辞賓辞の関係も小学生にもわかるはずの文である。これに文句をつけたり、それを取り次いだりするのは、人々が西洋文法に巻かれていることを語る以外の何物でもない。このまま定理扱いしてもよろしい。そしてこの定理の逆は真でないとして、鼻の長いもの例に、鞍馬山の天狗だの、池の尾の禅珍内供だのを上げるのも一興だろう。それでおしまいである。
(三上章、日本語の論理、1963年、13・14頁)。
従って、
(086)(087)により、
(088)
草野清淸先生は、沢田充茂先生ではなく、三上章先生の方こそが、「西洋文法に巻かれていることを語る以外の何物でもない」。
加へて、
(089)
① 象ならば鼻が長い(順)。
② 鼻が長いならば象である(逆)。
③ 天狗は鼻が長いが象ではない(反例)。
といふことと、
象は 鼻が長い。
主辞 賓辞
とはっきりしている。速水式に簡単明リョウである。意味も、主辞賓辞の関係も小学生にもわかるはずの文である。
といふことが、「どうして結びつくのか」が「不明」である。
(090)
伝統論理学を速水滉『論理学』(016)で代表させよう。わたしのもっているのが四十三年の第十九冊一万部中の一冊で、なお引続き刊行だろうから、前後かなり多くの読者をもつ論理学書と考えられる。新興の記号論理学の方は、沢田充茂『現代論理学入門』(062)を参照することとする(三上章、日本語の論理、1963年、4頁)。
然るに、
(091)
The best to way to find out what logic is to do some(E.J.Lemmon,Beginning Logic).
論理学とは何であるかを知る最善の方法は、実際に幾らかやってみることである(E.J.レモン、竹尾治一郎・浅野楢英訳、論理学初歩、1973年、3頁)。
然るに、
(092)
沢田充茂『現代論理学入門』は、「解説書(岩波新書)」なので、「沢田充茂、現代論理学入門、1962年」を読んだだけでは、「論理学を、実際に幾らかやってみた」ことには、ならない。
然るに、
(093)
捨てる神があれば、拾う神がある。
「xノ」消去もある。xは、しっぽをもつ任意の動物。
頭が西を向けば、尾が東を向く。
ただし、これは「雨の降る日は、天気が悪い」に似て笑いを誘うためだから、その効果のために犬を代入して、
犬が西向きゃ、尾が東向く。
「何々の」というものを重視したいものである。
すべての馬が動物であれば、馬の頭はすべて動物の頭である。(ド・モルガンの例)
というようなものに備えて、「何々の」に対しても敏感であることが望ましい。以上のように、条件文で道理を表わすことわざで了解事項となるものは、ガノニヲの範囲である。
(三上章、日本語の論理、1963年、37・38頁)。
然るに、
(094)
「何々の」というものを重視したいものである。かどうかは、ともかく、
1 (1) ∀x(馬x→動物x) A
1 (2) 馬b→動物b 1UE
3 (3) ∃y(馬y&頭ay) A
4(4) 馬b&頭ab A
4(5) 馬b 4&E
4(6) 頭ab 4&E
1 4(7) 動物b 26MPP
1 4(8) 動物b&頭ab 56&I
1 4(9) ∃y(動物y&頭ay) 8EI
13 (ア) ∃y(動物y&頭ay) 349EE
1 (イ) ∃y(馬y &頭ay)→∃y(動物y&頭ay) 3アCP
1 (ウ)∀x{∃y(馬y &頭xy)→∃y(動物y&頭xy)} イUI
(エ)「全てのxについてxが馬ならば、xは動物である。」ならば「全てのxについて、或るyが馬であって、xがその馬yの頭であるならば、或るyは動物であって、xはその動物yの頭である。」
といふことであるならば、私にも、「理解」出来る。
然るに、
(095)
日本文法界でかつて流行した見解、げんに流行しているらしい見解は次のものです。どちらもわれわれにはもはや用のないものです。
象ハ 鼻ガ 長イ。
総主語 主語
私ハ 腹ガ 痛イ。
主語 対象語
(三上章、象は鼻が長い、1982年、第13版、66頁)
然るに、
(032)により、
(096)
① 腹は痛い=腹は痛い。
② 腹が痛い=腹は痛く(腹以外は痛くない)。
従って、
(096)により、
(097)
② 腹が痛い=腹は痛く(腹以外は痛くない)。
と、言はずに、
① 腹は痛い=腹は痛い。
と、言ふのであれば、
① 腹以外(例へば、頭)も、痛いのか?
といふ風に、「尋きたく」なる。
従って、
(096)(097)により、
(098)
② あなたが好きです。
と、言はずに、
① あなたは好きです。
と、言ふのであれば、
① 他にも、好きな人がゐるのか。
といふ風に、「尋きたく」なる。
従って、
(097)(098)により、
(099)
② 腹以外は痛くない。
② あなた以外は好きではない。
と、言ひたいのであれば、
② 腹が痛い。
② あなたが好きです。
といふ風に、言ふべきである。
然るに、
(100)
主語と述語
何がなんだ。
何がどんなだ。
何がどうした。
この「何が」にあたる所を主語といい、「なんだ」「どんなだ」「どうした」にあたる所を述語という。
これは私の記憶にまちがいがなければ、私が中学1年のときにならった国文法の第1課の最初に書いてあった文章です。
(竹内外史、集合とはなにか、2001年、13・14頁)
然るに、
(101)
日本語などの東アジアの言語には必要のない「主語」は、明治維新以降は「脱亜入欧」の掛け声のもと、英文法を真似て導入されたものだった。大野晋も『日本語の世界』付録の丸谷才一との対談、その事情をあっさり認めてゐる。 明治以降、要するに英文法をもとにして、大槻博士が日本語の文法を組み立てた。その時に、ヨーロッパでは文を作る時に必ず主語を立てる。そこで『文には主語が必要』と決めた。そこで日本語では主語を示すのに『は』を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくては具合が悪いというわけで、無理にいろんなものを当てはめた(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、11頁)。
(102)
多くの印欧語において、主語は客観的に観察できる構文的概念である。以下に重要と思われるものを四つほど列挙しよう。マルチネにとっては(あ)が唯一の「主語の条件」であるが、特に英仏語の様子を勘案しながら、さらに3点を加えてみる。
(あ)基本文に不可欠な要素である。
(い)語順的にはほとんどの場合、文頭に現れる。
(う)動詞に人称変化(つまり)活用を起こさせる。
(え)一定の格(主格)を持って現れる。
ここで重要なのは、(い)から(え)までの3点を加えるのは(あ)の結論をさらに強めるためだという点である。
(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、62頁)
然るに、
(103)
2 主語を補うテクニック
古文が読みにくい原因の一つは、主体(主語)、客体(目的語・補語)が省略されている文が多いことです。主語がわかれば文はずいぶんと読みやすくなります。
(荻野文子、古文マドンナ解法、1993年、11頁)
従って、
(102)(103)により、
(104)
(Ⅰ)「主語」は、基本文に不可欠な要素である。
(Ⅱ)古文が読みにくい原因の一つは、主体(主語)、客体(目的語・補語)が省略されている文が多いことです。
従って、
(104)により、
(105)
(Ⅰ)「主語」は、「省略できない」。
とするならば、それだけで、
(Ⅱ)「日本語」に「主語」はない。
(106)
主語や目的語や補語、これだけは自分で考えるクセを付けて下さい。学校の先生がこれまた、考えなくとも、どんどん入れて訳してくれるんです。古文はよく、省かれているんですね。誰が、誰を、誰に、みたいなものが、日本語はよく省略されているんですけど、先生がどんどん補って下さる。で皆さんは何でその主語になるのかよくわかんないまま、またノートに、訳のところに、一生懸命、書いて覚えて、テストを受けてる。さっきも言いました。自力です。自力で補足するんです。
(東進ハイスクール 荻野文子先生 - YouTube)
従って、
(105)(106)により、
(107)
(Ⅰ)「主語」は、「省略できない」。
とするならば、 荻野文子先生の「教授法」は、成立しない。
(108)
「日本語」には、「英語」のやうな「主語」はない。といふのであれば、確かに、その通りである。
(109)
② こんにゃくは太らない。
もちろん、この文が問題となるのは、「太らない」のが「こんにゃく」ではなく、それを食べる人間様の場合である
(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、84頁改)。
従って、
(109)により、
(110)
② こんにゃくは太らない。
といふのであれば、
② こんにゃくが存在するならば、ある人が存在して、その人はこんにゃくを食べ、その人は太らない。
然るに、
(111)
1 (1)∀x{蒟蒻x→ ∃y(人y&食yx&~太y)} A
1 (2) 蒟蒻a→ ∃y(人y&食yx&~太y)} 1UE
3 (3)∃x(蒟蒻x) A
4(4) 蒟蒻a A
1 4(5) ∃y(人y&食yx&~太y) 24MPP
13 (6) ∃y(人y&食yx&~太y) 345EE
1 (7)∃x(蒟蒻x)→∃y(人y&食yx&~太y) 36CP
1 (8)あるxが蒟蒻であるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
1 (9)こんにゃくが存在するならば、ある人が存在して、その人はこんにゃくを食べ、その人は太らない。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
従って、
(110)(111)により、
(112)
② こんにゃくは太らない。
といふ「日本語」は、
② こんにゃくは太らない=
② ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}=
② 全てのxについて、xがこんにゃくであるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
従って、
(061)(112)により、
(113)
① 象は鼻が長い。
② こんにゃくは太らない。
といふ「日本語」は、
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
② 全てのxについて、xがこんにゃくであるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
然るに、
(114)
① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xがこんにゃくであるならば、
といふことから、すれば、
① 象は鼻が長い。
② こんにゃくは太らない。
といふ「日本語」は、「確実に」、
①「象」を「話題」にし、
②「こんにゃく」を「話題」にしてゐる。
従って、
(079)(114)により、
(115)
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「日本語・述語論理」に於いて、
①「象は」=「∀x{象x→」
は「総主」であって、「話題」である。
平成30年03月21日、毛利太。