(01)
37講 格助詞「が・の」の働き
助詞は助動詞ほど現代語と離れていませんので、解釈面をしっかり押さえることがポイントです。初めに格助詞「が・の」です。両者は非常によく似ています。
(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、100頁)
すなはち、
(02)
① 君の家、私の国、君の行く道、博士の愛した数式。
に対して、
① 君が世、我が国、君が行く道、博士が愛した数式。
であるため、「が」と「の」は、非常によく似てゐる。
然るに、
(03)
なにがしとかや言ひし世捨人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、誠にさも覚えぬべけれ。
なにがしとかいった世捨て人が、「現世で人の心を引きつけ自由を束縛するものは何も持っていない身にも、ただ四季おりおりの空の美しさだけが捨てがたい」と言ったのは、まったくそのように思われるにちがいない。
(三省堂、新明解古典シリーズ10 徒然草、1990年、49頁)
従って、
(03)により、
(04)
② ただ 空 の 名残 のみ ぞ 惜しき(徒然草)。
② ただ 空 の 名残 だけ が 惜しい(現代語)。
である。
然るに、
(05)
45講 係助詞「ぞ・なむ・や・か・こそ」の働き
係助詞のうち、係り結びを形成するものを取り上げます。係り結びの形などについては、別講で扱うとして「ぞ・なむ・や・か・こそ」の各係助詞の用法をみておきましょう。
(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、100頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
② ただ 空 の 名残 のみ ぞ 惜しき(徒然草)。
② ただ 空 の 名残 だけ が 惜しい(現代語)。
に於いて、
② 「ぞ」が「係助詞」である以上、
② 「が」も「係助詞」でなければ、ならない。
然るに、
(07)
44講 係助詞「は・も」の働き
副助詞と同じく、それがなくても意味は通じるという助詞に、係助詞があります。副助詞と働きが似ていることから、副助詞として扱う文法書もありますが、ここでは別に扱います。
(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、114頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
② ただ 空 の 名残 だけ が 惜しい(現代語)。
に於いて、
② 「が」も「係助詞」であって、「は・も」も「係助詞」である。
従って、
(01)(08)により、
(09)
(Ⅰ) 「の」の仲間である「格助詞」としての「が」。
(Ⅱ)「は・も」の仲間である「係助詞」としての「が」。
といふ「(二通りの)が」が、なければ、ならない。
然るに、
(10)
何故か、
「が」最も基本的な格助詞である。動作や状態の主体/要求や願望の対象を示す(ウィキペディア)。
とあるやうに、
(Ⅱ)「は」の仲間である「係助詞」としての「が」。
を、認める「文法書」が、見つからない。
然るに、
(11)
「(7)番目の記事」でも、示した通り、
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
然るに、
(12)
「が」が「濁音」であるやうに、
「ぞ」も「濁音」である。
従って、
(11)(12)により、
(13)
「が(濁音)の音量」が、「は(清音)の音量」よりも「大きい」のであれば、
「ぞ(濁音)の音量」も、「は(清音)の音量」よりも「大きい」ことになる。
然るに、
(14)
「これ迄の記事」を読まれた方であれば、既に、分ってもらへてゐるやうに、私が言ひたいのは、「_は(清音)」に対する「_が(濁音)」は、「強調形」である。
といふことである。
従って、
(13)(14)により、
(15)
「_ぞ(濁音)」が、「強調形」であるならば、私にとって「都合」がよいものの、果たして、
ぞ(係助詞)〔上代には「そ」とも〕ガイド
①(ア)主語 の強調
(イ)目的語 の強調
(旺文社、全訳 学習 古語辞典、2006年、463頁)
とのことである。
(16)
明日の「予定」⇒「これだけ(は・が)」について。
37講 格助詞「が・の」の働き
助詞は助動詞ほど現代語と離れていませんので、解釈面をしっかり押さえることがポイントです。初めに格助詞「が・の」です。両者は非常によく似ています。
(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、100頁)
すなはち、
(02)
① 君の家、私の国、君の行く道、博士の愛した数式。
に対して、
① 君が世、我が国、君が行く道、博士が愛した数式。
であるため、「が」と「の」は、非常によく似てゐる。
然るに、
(03)
なにがしとかや言ひし世捨人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、誠にさも覚えぬべけれ。
なにがしとかいった世捨て人が、「現世で人の心を引きつけ自由を束縛するものは何も持っていない身にも、ただ四季おりおりの空の美しさだけが捨てがたい」と言ったのは、まったくそのように思われるにちがいない。
(三省堂、新明解古典シリーズ10 徒然草、1990年、49頁)
従って、
(03)により、
(04)
② ただ 空 の 名残 のみ ぞ 惜しき(徒然草)。
② ただ 空 の 名残 だけ が 惜しい(現代語)。
である。
然るに、
(05)
45講 係助詞「ぞ・なむ・や・か・こそ」の働き
係助詞のうち、係り結びを形成するものを取り上げます。係り結びの形などについては、別講で扱うとして「ぞ・なむ・や・か・こそ」の各係助詞の用法をみておきましょう。
(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、100頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
② ただ 空 の 名残 のみ ぞ 惜しき(徒然草)。
② ただ 空 の 名残 だけ が 惜しい(現代語)。
に於いて、
② 「ぞ」が「係助詞」である以上、
② 「が」も「係助詞」でなければ、ならない。
然るに、
(07)
44講 係助詞「は・も」の働き
副助詞と同じく、それがなくても意味は通じるという助詞に、係助詞があります。副助詞と働きが似ていることから、副助詞として扱う文法書もありますが、ここでは別に扱います。
(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、114頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
② ただ 空 の 名残 だけ が 惜しい(現代語)。
に於いて、
② 「が」も「係助詞」であって、「は・も」も「係助詞」である。
従って、
(01)(08)により、
(09)
(Ⅰ) 「の」の仲間である「格助詞」としての「が」。
(Ⅱ)「は・も」の仲間である「係助詞」としての「が」。
といふ「(二通りの)が」が、なければ、ならない。
然るに、
(10)
何故か、
「が」最も基本的な格助詞である。動作や状態の主体/要求や願望の対象を示す(ウィキペディア)。
とあるやうに、
(Ⅱ)「は」の仲間である「係助詞」としての「が」。
を、認める「文法書」が、見つからない。
然るに、
(11)
「(7)番目の記事」でも、示した通り、
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
然るに、
(12)
「が」が「濁音」であるやうに、
「ぞ」も「濁音」である。
従って、
(11)(12)により、
(13)
「が(濁音)の音量」が、「は(清音)の音量」よりも「大きい」のであれば、
「ぞ(濁音)の音量」も、「は(清音)の音量」よりも「大きい」ことになる。
然るに、
(14)
「これ迄の記事」を読まれた方であれば、既に、分ってもらへてゐるやうに、私が言ひたいのは、「_は(清音)」に対する「_が(濁音)」は、「強調形」である。
といふことである。
従って、
(13)(14)により、
(15)
「_ぞ(濁音)」が、「強調形」であるならば、私にとって「都合」がよいものの、果たして、
ぞ(係助詞)〔上代には「そ」とも〕ガイド
①(ア)主語 の強調
(イ)目的語 の強調
(旺文社、全訳 学習 古語辞典、2006年、463頁)
とのことである。
(16)
明日の「予定」⇒「これだけ(は・が)」について。