―「先ほどの記事(214)」の「続き」を書きます。―
(32)
存在を表わす動詞として、古代語においても、「有」と「在」と常用されている。しかし、その存在するものと、存在する場所という単語の語順は、次のように全く反対である。
A式 場所語―有―存在物
例 机上有書(机上に書あり)
B式 存在物―在―場所語
例 書在机上(書、机上にあり)
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、346頁)
従って、
(32)により、
(33)
① 伯楽不常有=伯楽は常にはあらず。
② 伯楽不常在=伯楽は常にはあらず。
であれば、
① は、「マチガイ」であって、
② が、「タダシイ」はずであるが、
「韓愈(雜説)」の「原文」では、何故か、
② ではなく、
① になってゐる。
然るに、
(34)
③ 臣弑其君者有之=臣にして其の君を弑する者、之有り。
のやうな「倒置」であるならば、
① 伯楽不常有 =伯楽は常にはあらず。
ではなく、
① 伯楽不常有之=伯楽は常には、之有らず。
になってゐても、ヲカシクはない。
然るに、
(35)
④ 常在、常住、常識、常勝、常備、・・・・・。
等は、すべて、「名詞」である。
従って、
(35)により、
(36)
④ 常在、常住、常識、常勝、常備、・・・・・。
だけでなく、
④ 常有
の場合も、「名詞」なのかも知れない。
従って、
(36)により、
(37)
④ 千里馬常有=千里の馬は常にあり。
の場合も、
④ 千里馬常有=千里の馬は常有である。
といふ「名詞文」として、
④ 千里馬常有=千里(形容詞)+馬(名詞)+常有(名詞)。
といふ「語順」なのかも、知れないし、さうであれば、
④ 千里馬常有=千里の馬は常有である。
といふ「語順」は、「漢文として、普通である」。
然るに、
(38)
「韓愈」自身は、
存在を表わす動詞として、古代語においても、「有」と「在」と常用されている。しかし、その存在するものと、存在する場所という単語の語順は、全く反対である。
といふことを、どうでも良いと思ってゐたのかも、知れない。
然るに、
(39)
仮に、さうであるならば、
① 伯楽不常有=伯楽は常にはあらず。
④ 千里馬常有=千里の馬は常にあり。
といふ「それ」は、固より、
① 伯楽不常在=伯楽は常にはあらず。
④ 千里馬常在=千里の馬は常にあり。
である。といふことになる。
然るに、
(40)
(ⅰ)
1 (1)∀x{馬x→∃y(千里xy)} A
1 (2) 馬a→∃y(千里xy) 1UE
3 (3) 馬a A
13 (4) ∃y(千里xy) 23MPP
5(5) 千里ab A
35(6) 馬a&千里ab 35&I
35(7) ∃y(馬a&千里ay) 6EI
13 (8) ∃y(馬a&千里ay) 457EE
1 (9) 馬a→∃y(馬a&千里ay) 38CP
1 (ア)∀x{馬x→∃y(馬x&千里xy)} 9UI
(ⅱ)
1 (1)∀x{馬x→∃y(馬x&千里xy)} A
1 (2) 馬a→∃y(馬a&千里ay) 1UE
3 (3) 馬a A
13 (4) ∃y(馬a&千里ay) 23MPP
5(5) 馬a&千里ab A
5(6) 千里ab 5&E
5(7) ∃y(千里ay) 6EI
13 (8) ∃y(千里ay) 457EE
1 (9) 馬a→∃y(千里xy) 38CP
1 (ア) ∀x{馬x→∃y(千里xy)} 9UI
従って、
(41)
(ⅰ)∀x{馬x→ ∃y(千里xy)}=すべてのxについて、xが馬であるならば、あるyは、xの千里である。
(ⅱ)∀x{馬x→∃y(馬x&千里xy)}=すべてのxについて、xが馬であるならば、あるyは、馬である所のxの千里である。
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ) である。
然るに、
(42)
(ⅱ)∀x{馬x→∃y(馬x&千里xy)}=すべてのxについて、xが馬であるならば、あるyは、馬である所のxの千里である。
といふことは、
(ⅱ)「馬の集合」の中には、「千里の馬」が、「必ずゐる」。
といふ「意味」である。
然るに、
(43)
(ⅱ)「馬の集合」の中には、「千里の馬」が、「必ずゐる」。
といふことは、
(ⅱ)千里の馬は、常に有る。
といふことである。
然るに、
(44)
(ⅱ)∀x{馬x→∃y(馬x&千里xy)}=すべてのxについて、xが馬であるならば、あるyは、馬である所のxの千里である。
とするよりも、
(ⅲ)∀x{馬x→∃y(千里馬y)} =すべてのxについて、xが馬であるならば、あるyは、千里の馬である。
とする方が、「簡単(計算が楽)」なので、以下では、
(ⅲ)∀x{馬x→∃y(千里馬y)} =すべてのxについて、xが馬であるならば、あるyは、千里の馬である。
であると、する。
従って、
(28)(41)(44)により、
(45)
④ 千里馬常有而伯楽不常有=
④ 千里馬常有而伯楽不(常有)⇒
④ 千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず。
といふ「漢文・訓読」は、
④ ∀x{馬x→∃y(千里馬y)}&~∀z(馬喰z→伯楽z)=
④ すべてのxについて、xが馬であるならば、あるyは、千里の馬であり、&すべてのzについて、zが馬喰であるならば、zは伯楽である。といふわけではない。
といふ「述語論理・訓読」に、相当する。
(46)
「漢文」は、もともと、「人工言語」であるものの、「漢文の文法」は、「語順」だけである。と言っても、「言ひ過ぎ」ではない。
従って、
(47)
「漢文」には、「ギリシャ語や、ラテン語や、エスペラント」のやうな「文法」が「一切、皆無」である。
cf.
漢語におけるこのような表現のしかたは、単語の間の関係を文法的な形式によって示すことを重んじている西欧の言語になれている人にとっては、まことに奇妙なことに思われるものと考えられる。カールグレン氏は、その著書《中国の言語》において、このような奇妙な孤立的な漢語の文法は、「非常に貧弱なものであり」、「漢語においては、文法的な分析は、あまり役に立たず、実際に役立つのは、広い読書を通じて習得した経験、つまり、中国人がどのようにして文をつくりあげているかということに対する感覚が、唯一のものである」と説き、更に、漢語の文の意味を理解するためには、「豊富な直観が、必要である」とも述べている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、293頁)。
然るに、
(48)
「述語論理」にも、「ギリシャ語や、ラテン語や、エスペラント」のやうな「文法」が、「皆無」である。
それ故、
(49)
蓋し、「述語論理」に、「最も近い言語」は、「漢文」であるに、違ひない。
従って、
(50)
「漢文」に興味がある私は、「その勢ひ」として、「述語論理」にも、興味を持つことなる。
それ故、
(51)
「然るべき、漢文」に関しては、どうしても、「述語論理」に訳したくなるものの、そのやうなことをしてゐると、せっかく買った、「Word2019」の勉強を、いつまで経っても、始めることが出来ず、そのことが、今現在の、「最大の悩み」になってゐる。