(01)
① 〈 { [ 〔 (
②〈 { [ 〔 (あa) 〕 ] } 〉
に於いて、
① を「左括弧」とし、
② を「右括弧」とする。
従って、
(02)
「括弧」は、「左括弧と、右括弧の、ペア」である。
然るに、
(03)
① ( ( ( ) )( ( ( ) ) ) ) )
② ( ( ( ) )( ( ( ( ) ) ) )
に於いて、「よく見れば分かる(?)」やうに、
① の場合は、「右括弧」が、「一つ余分」で、
② の場合は、「左括弧」が、「一つ余分」である。
すなはち、
(04)
① 〈 〔 ( ) 〕[ 〔 ( ) 〕 ] } 〉
② 〈 〔 ( ) 〕{ [ 〔 ( ) 〕 ] 〉
に於いて、
① の場合は、「 }」が、「一つ余分」で、
② の場合は、「{ 」が、「一つ余分」である。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① ( ( ( ) )( ( ( ) ) ) ) )
② ( ( ( ) )( ( ( ( ) ) ) )
は、両方とも、「括弧」ではなく、「括弧モドキ」である。
然るに、
(06)
④ 読漢文=
④ 読(漢文)⇒
④ (漢文)読=
④ (漢文を)読む。
である。
然るに、
(07)
③ 漢読文=
③ 漢(読{文)}。
に於いて、
③ 漢( )⇒( )漢
③ 読{ }⇒{ }読
といふ「移動」を行ふと、
③ 文読漢=
③ 文(読{漢)}⇒
③ ({漢)文}読=
③ ({漢)文}読=
③ ({漢)文を}読む。
である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
④ 読(漢文) = (漢 文を)読む。
③ 文(読{漢)}=({漢)文を}読む。
である。
然るに、
(09)
④ 読漢文=漢文を読む。
といふ「漢文訓読」に対して、
③ 文読漢=漢文を読む。
といふ「漢文と、訓読」は、有り得ないし、
(10)
④ ( )
といふ「括弧」に対して、
③ ( { ) }
といふ「括弧」も、有り得ない。
従って、
(05)(10)により、
(11)
① ( ( ( ) )( ( ( ) ) ) ) )
② ( ( ( ) )( ( ( ( ) ) ) )
③ ( { ) }
は、三つとも、「括弧」ではなく、「括弧モドキ」である。
然るに、
(12)
それでも尚、
③ 文読漢。
といふ「それ」に対して、
③「返りて」を付けようとするならば、
③ 文二読三漢一。
といふ具合に、
③ 二 三 一
といふ「それ」を、付けざるを得ない。
然るに、
(13)
「返り点」は、
「縦書き」ならば、「下から上へ、返るための点」であって、
「横書き」ならば、「右から左へ、返るための点」であるため、
③ 二 二
↑ ↓
↑ 三
あa一
のやうな「それ」は、「返り点」ではなく、「返り点モドキ」である。
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
③ ( { ) }
③ 二 三 一
の場合は、
③「 括弧 モドキ」であって、
③「返り点モドキ」である。
従って、
(14)により、
(15)
③ 2<3>1
のやうな「順番」に対しては、「括弧モドキ・返り点モドキ」しか、付けることが、出来ない。
従って、
(15)により、
(16)
③ 2<3>1
④ 4 2<3>1
⑤ 2<5<3>1 4
のやうな「順番」に対しては、「括弧・返り点」ではなく、「括弧モドキ・返り点モドキ」しか、付けることが、出来ない。
然るに、
(17)
(ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・
(ⅱ)上 中 下
(ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(ⅳ)天 地 人
(ⅴ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ
に於いて、
(ⅳ)は、
(ⅳ)以外に、「置き換へ」ることが、出来るし、
(ⅳ)の中には、(ⅲ)が入り、
(ⅲ)の中には、(ⅱ)が入り、
(ⅱ)の中には、(ⅰ)が入る。
然るに、
(18)
例へば、
⑥ 地 乙 二 一 下 二 一 中 上 甲 天。
であれば、
⑥ B 9 2 1 7 4 3 6 5 8 A。
である。
cf.
A(16進法)=10(10進法)
B(16進法)=11(10進法)
然るに、
(19)
⑥ B{9[2(1)7〔4(3)6(5)〕8]A}。
に於いて、
⑥ B{ }⇒{ }B
⑥ 9[ ]⇒[ ]9
⑥ 2( )⇒( )2
⑥ 7〔 〕⇒〔 〕7
⑥ 4( )⇒( )④
といふ「移動」を行ふと、
⑥{[(1)2〔(3)4(5)6〕78]9A}B=
⑥ 1<2<3<4<5<6<7<8<9<A<B。
である。
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
(ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・
(ⅱ)上 中 下
(ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(ⅳ)天 地 人
(ⅴ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ
といふ「返り点」で表すことが出来る「漢文訓読の語順」は、「括弧」で表すことが、出来る。
然るに、
(21)
例へば、「新釈漢文大系 全120巻(別巻1) - 明治書院」には、
(ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・
(ⅱ)上 中 下
(ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(ⅳ)天 地 人
(ⅴ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ
からなる、「返り点」が付いてゐる。
従って、
(16)(20)(21)により、
(22)
「新釈漢文大系 全120巻(別巻1) - 明治書院」対しては、「返り点・括弧」を付けることが、出来るものの、
④ 4 2<3>1
⑤ 2<5<3>1 4
である所の、
④ 下 二<上>一
⑤ ニ<五<三>一 四
といふ「順番」に対しては、「返り点・括弧」を付けることが、出来ない。
従って、
(22)により、
(23)
例へば、
④ 只管要纏擾我。
⑤ 端看不出這婆子的本事来。
⑤ 西門慶促忙促急儧造不出床来。
といふ「白話文(中国語)」が、
④ 4 2<3>1
⑤ 2<5<3>1 4
といふ「順番」で、「訓読」されるのであれば、これらに対しては、「返り点・括弧」を付けることが、出来ない。
従って、
(22)(23)により、
(24)
④ 只管要纏擾我。
⑤ 端看不出這婆子的本事来。
⑤ 西門慶促忙促急儧造不出床来。
の場合は、「新釈漢文大系 全120巻(別巻1) - 明治書院」にあるやうな「漢文」とは、「全くの別もの」である。
といふ、ことになる。
然るに、
(25)
従って、
(22)(25)により、
(26)
「漢文」に対して、「括弧・返り点」を付けて、「訓読」することと、
「白話」に対して、「括弧モドキ・返り点モドキ」を付けて、「無理やりに、訓読」することは、「同じこと」ではないし、因みに、
訓読法の限界は、白話文、つまり口語の文章には適用できないことだといわれます。つまり、文語(文言)の文章だけしか訓読法で読むことができないのです。中国語の文語文(つまり漢文)は、漢字の表意文字たる性質を十二分に生かして、簡潔な表現になっておりますから、訓読に非常に適しています。これに対し、白話(口語)の文章は、熟語や助字が多く、冗長です。そのため訓読には不向きなのです。
との、ことである。
然るに、
(27)
もともと「訓読」に適さない「言語」にまで、「返り点モドキ」を用ひて、「無理やり、訓読」しようとする方が、マチガイなのであって、それ故、「白話」を「訓読」できないからと言って、そのことを以て、「訓読法には限界がある」と、すべきではない。
① 〈 { [ 〔 (
②〈 { [ 〔 (あa) 〕 ] } 〉
に於いて、
① を「左括弧」とし、
② を「右括弧」とする。
従って、
(02)
「括弧」は、「左括弧と、右括弧の、ペア」である。
然るに、
(03)
① ( ( ( ) )( ( ( ) ) ) ) )
② ( ( ( ) )( ( ( ( ) ) ) )
に於いて、「よく見れば分かる(?)」やうに、
① の場合は、「右括弧」が、「一つ余分」で、
② の場合は、「左括弧」が、「一つ余分」である。
すなはち、
(04)
① 〈 〔 ( ) 〕[ 〔 ( ) 〕 ] } 〉
② 〈 〔 ( ) 〕{ [ 〔 ( ) 〕 ] 〉
に於いて、
① の場合は、「 }」が、「一つ余分」で、
② の場合は、「{ 」が、「一つ余分」である。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① ( ( ( ) )( ( ( ) ) ) ) )
② ( ( ( ) )( ( ( ( ) ) ) )
は、両方とも、「括弧」ではなく、「括弧モドキ」である。
然るに、
(06)
④ 読漢文=
④ 読(漢文)⇒
④ (漢文)読=
④ (漢文を)読む。
である。
然るに、
(07)
③ 漢読文=
③ 漢(読{文)}。
に於いて、
③ 漢( )⇒( )漢
③ 読{ }⇒{ }読
といふ「移動」を行ふと、
③ 文読漢=
③ 文(読{漢)}⇒
③ ({漢)文}読=
③ ({漢)文}読=
③ ({漢)文を}読む。
である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
④ 読(漢文) = (漢 文を)読む。
③ 文(読{漢)}=({漢)文を}読む。
である。
然るに、
(09)
④ 読漢文=漢文を読む。
といふ「漢文訓読」に対して、
③ 文読漢=漢文を読む。
といふ「漢文と、訓読」は、有り得ないし、
(10)
④ ( )
といふ「括弧」に対して、
③ ( { ) }
といふ「括弧」も、有り得ない。
従って、
(05)(10)により、
(11)
① ( ( ( ) )( ( ( ) ) ) ) )
② ( ( ( ) )( ( ( ( ) ) ) )
③ ( { ) }
は、三つとも、「括弧」ではなく、「括弧モドキ」である。
然るに、
(12)
それでも尚、
③ 文読漢。
といふ「それ」に対して、
③「返りて」を付けようとするならば、
③ 文二読三漢一。
といふ具合に、
③ 二 三 一
といふ「それ」を、付けざるを得ない。
然るに、
(13)
「返り点」は、
「縦書き」ならば、「下から上へ、返るための点」であって、
「横書き」ならば、「右から左へ、返るための点」であるため、
③ 二 二
↑ ↓
↑ 三
あa一
のやうな「それ」は、「返り点」ではなく、「返り点モドキ」である。
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
③ ( { ) }
③ 二 三 一
の場合は、
③「 括弧 モドキ」であって、
③「返り点モドキ」である。
従って、
(14)により、
(15)
③ 2<3>1
のやうな「順番」に対しては、「括弧モドキ・返り点モドキ」しか、付けることが、出来ない。
従って、
(15)により、
(16)
③ 2<3>1
④ 4 2<3>1
⑤ 2<5<3>1 4
のやうな「順番」に対しては、「括弧・返り点」ではなく、「括弧モドキ・返り点モドキ」しか、付けることが、出来ない。
然るに、
(17)
(ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・
(ⅱ)上 中 下
(ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(ⅳ)天 地 人
(ⅴ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ
に於いて、
(ⅳ)は、
(ⅳ)以外に、「置き換へ」ることが、出来るし、
(ⅳ)の中には、(ⅲ)が入り、
(ⅲ)の中には、(ⅱ)が入り、
(ⅱ)の中には、(ⅰ)が入る。
然るに、
(18)
例へば、
⑥ 地 乙 二 一 下 二 一 中 上 甲 天。
であれば、
⑥ B 9 2 1 7 4 3 6 5 8 A。
である。
cf.
A(16進法)=10(10進法)
B(16進法)=11(10進法)
然るに、
(19)
⑥ B{9[2(1)7〔4(3)6(5)〕8]A}。
に於いて、
⑥ B{ }⇒{ }B
⑥ 9[ ]⇒[ ]9
⑥ 2( )⇒( )2
⑥ 7〔 〕⇒〔 〕7
⑥ 4( )⇒( )④
といふ「移動」を行ふと、
⑥{[(1)2〔(3)4(5)6〕78]9A}B=
⑥ 1<2<3<4<5<6<7<8<9<A<B。
である。
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
(ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・
(ⅱ)上 中 下
(ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(ⅳ)天 地 人
(ⅴ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ
といふ「返り点」で表すことが出来る「漢文訓読の語順」は、「括弧」で表すことが、出来る。
然るに、
(21)
例へば、「新釈漢文大系 全120巻(別巻1) - 明治書院」には、
(ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・
(ⅱ)上 中 下
(ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(ⅳ)天 地 人
(ⅴ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ
からなる、「返り点」が付いてゐる。
従って、
(16)(20)(21)により、
(22)
「新釈漢文大系 全120巻(別巻1) - 明治書院」対しては、「返り点・括弧」を付けることが、出来るものの、
④ 4 2<3>1
⑤ 2<5<3>1 4
である所の、
④ 下 二<上>一
⑤ ニ<五<三>一 四
といふ「順番」に対しては、「返り点・括弧」を付けることが、出来ない。
従って、
(22)により、
(23)
例へば、
④ 只管要纏擾我。
⑤ 端看不出這婆子的本事来。
⑤ 西門慶促忙促急儧造不出床来。
といふ「白話文(中国語)」が、
④ 4 2<3>1
⑤ 2<5<3>1 4
といふ「順番」で、「訓読」されるのであれば、これらに対しては、「返り点・括弧」を付けることが、出来ない。
従って、
(22)(23)により、
(24)
④ 只管要纏擾我。
⑤ 端看不出這婆子的本事来。
⑤ 西門慶促忙促急儧造不出床来。
の場合は、「新釈漢文大系 全120巻(別巻1) - 明治書院」にあるやうな「漢文」とは、「全くの別もの」である。
といふ、ことになる。
然るに、
(25)
従って、
(22)(25)により、
(26)
「漢文」に対して、「括弧・返り点」を付けて、「訓読」することと、
「白話」に対して、「括弧モドキ・返り点モドキ」を付けて、「無理やりに、訓読」することは、「同じこと」ではないし、因みに、
訓読法の限界は、白話文、つまり口語の文章には適用できないことだといわれます。つまり、文語(文言)の文章だけしか訓読法で読むことができないのです。中国語の文語文(つまり漢文)は、漢字の表意文字たる性質を十二分に生かして、簡潔な表現になっておりますから、訓読に非常に適しています。これに対し、白話(口語)の文章は、熟語や助字が多く、冗長です。そのため訓読には不向きなのです。
との、ことである。
然るに、
(27)
もともと「訓読」に適さない「言語」にまで、「返り点モドキ」を用ひて、「無理やり、訓読」しようとする方が、マチガイなのであって、それ故、「白話」を「訓読」できないからと言って、そのことを以て、「訓読法には限界がある」と、すべきではない。