おせっちゃんの今日2

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朝の公園で・・・愛情に欠けるか

2021-09-13 13:34:20 | 日記

脊柱の圧迫骨折を引き起こして後、3年間整形にリハビリのため通いました。ストレッチや筋肉を落とさないように指導してくださったA先生はお若く、孫とも思える方でした。昨年末で、ご自宅の近くの病院に勤めることのなったからと退職なさいました。私もそれを機会に通院を卒業させてもらったのでした。
A先生の残された言葉が「おせっちゃん、歩くことが基本です。とにかく歩いてください。スピードよりも歩幅を大きくね」でした。

教えを守って、朝の家事を終えて、近所の公園に行き、周回路をぐるぐる回りするのが習慣になっています。よほどの雨の日以外はなるべく歩きます。辛い日もありますが、孫(?)を裏切ってはいけないと頑張っています。
そのウオーキングには、もう一つ楽しみがあります。だんだんお顔なじみの方が出来てきたのです。お互いマスク顔ですが、そして長話、近づきすぎは避けてではありますが、一日の活力の源になります。

そうしたお顔なじみの1グループはワンちゃんが主役です。公園の一角に、秋には黄葉が美しい大木が植わっている広場があります。その広場の主のように、午前中は必ず来ている男性がおられます。聞くところによると、肺のご病気をなさって激しい運動は禁止されていらっしゃるのだとか。自己流の体操などをしていらっしゃるようです。その方は、ワンちゃんがお好きなようで、犬を連れた人が何人かが自然に集まり、犬談義、をなさっているようです。なんとなくそこの準会員になって挨拶をしています。

でも、やはり犬と暮らしていないものは本当の仲間にはなれないようです。私も、一寸咽喉から頭を撫でてやるくらいで、そのあとのあやし方が分かりません。家族(?)自慢は勿論できません。犬たちも、この婆さんはだめだな、というようにすぐ離れて行ってしまいます。仕方がないので、挨拶が済むとバイバイと歩きに戻るのです。

歩きながら考えます。犬猫などを家族としてともに暮らしたことのない者は、やはり暖かな愛情・心に欠陥があるのかなあ、と自分を過小評価するのです。犬猫たちだけでなく、ひいては人付き合いもどこか冷たいのかなあ、と反省めいた気持ちになるのです。

今日こんなことがありました。新しい、年配の男性が、どこか色つやの良くないワンちゃんを連れて仲間に入っていらっしゃいました。私にも声をかけてこられました。
「これももう、認知症になっていますよ。14歳ですから」
「あら、あなたも後期高齢者なの。でも頑張って歩いているのね。偉いねえ」
「今日は頑張りましたよ、かなり自分で歩きましたから」
「14歳って、人間で言えば何歳くらいですか」
「80台でしょうね」
「ああ、それではおばあちゃんとおんなじね。頑張ろうね」

頭をなでてやってバイバイしたのでした。


名前の物語

2021-09-11 14:00:56 | いろいろ

今朝の朝日新聞「声」は、「みんなで語ろう・名前の物語」と題して特集が組んでありました。

私の名前は「おせっちゃん」という所から類推してくださっていると思いますが「節子」です。この節子にきちんと落ち着くまでに、多少の紆余曲折がありました。

大学卒業の日でした。卒業証書をいただきました。見ると名前が誤字でした。「節子」の「ふしづくり」が「こざと」になっているのです。わかりやすく言えば「節」の最後に書く右下の旗のような形の所が、四角ではなく、くにゃくにゃと波打っているのです。大事な卒業証書がこれではいけん、と思いました。

証書をもって事務室に行き、書き換えてくれるよう申し出ました。事務長が顔色を変えて反論です。
「ああたは、まちがっちょるというけんど、これをみいさん。わしらはまちがっちゃあいけんとおもうから、一人一人、戸籍抄本と突き合わせてやっちょるんよ」。
見ると、抄本の私の名前はくにゃくにゃのこざとの節(これではないせつ)になっているのでした。「卩」「阝」。後者になっていたのです。
「ああたの本当の名前はこれなんよ。書き換えられん」とのこと。すごすご引き下がりました。

それまで、小・中・高と「節」で証書は貰っていました。抄本謄本もつくづく見たことはありませんでした。まさか誤字が名前になっているとは。
親にも証書を見せて、いきさつを話しました。何処で間違いが起こったのだろうということになりましたが、そのままうやむやになりました。

母がこっそり推理したのは、犯人は父ではないかというのです。その時代は手書きで届けを出し、役所の人も手書きで原簿に書き加えていたに違いありません。犯人は、父か役所の受け付けた人かと推し量れるのです。父は独特の癖字を書く人でしたし、「節」をくにゃくにゃに書く時もあったようです。母が内緒ごとを言うように「おとーちゃんに違いないと思う」と。

そんなごたごたがありましたが、特に支障が起こるというわけでもなく「節子」で生き続けました。

世の中がパソコンで動くように時代は移っていきました。本籍地の役所から葉書が一枚来ました。
あなたの名前はパソコンでは打ち出されない誤字ですが、正しい「節」に直していいですか?という変更要請の文書でした。
ほっとしました。これで間違えではない「節子」になれたのです。
そんなわけで、今、私は「節子」です。


腹を立て、絶望した

2021-09-10 13:32:40 | ニュースから

大学を卒業し、3年間・・ほとんどプロ意識もないままの三年間でしたが・・勤めて結婚。当時は女は結婚したら主婦になると決めつけられており、専業主婦の道をここまで歩んできました。「何もしない人」と言われ「三食昼寝付き」と揶揄されても、黙っていました。
それはそれで、その環境の中で子供を育て、父母舅姑の晩年をみ、そのお勤めが終わった頃からはボランティアで町会などの仕事に引き出されておりました。それなりに頑張り、楽しんだのだとは思います。

でも本当に狭い世界での暮らしです。

この度オリンピック・パラリンピックがコロナ禍の真っただ中強引とも思われる開催をしました。終わってみれば、心配された猛烈な感染爆発もなく、ほっと胸を撫でた国民でした。いろいろな議論の中、狭い世界しか知らない私もそれなりに怪しからんと思い、無理もないかなと思い、テレビに向かって一人意見を吐いたりも致しました。そして主婦がする意見のなんと規模の小さいことか、ちょっとしたことで、莫大の予算が動く世界なのだと思い知ったりしたのでした。主婦が小さな世界で批判非難できるような規模ではないと、知りました。

でも、このごまめの歯ぎしりしかできない主婦でも、どうしようもなく腹が立ち、絶望した事件が報じられました。東京オリパラ組織委員会が弁当13万食を廃棄し、その後、反省することもなく、医療用のマスク・手袋・ガウンなど500万円相当を廃棄処分したというのです。

聞いた時、そのあまりの勿体なさに信じられない思いがしました。
弁当は、ボランティアの人が、無観客になったため減少し、そのため余ったのだと言います。開催などの決定が最後の最後まで決まらずにいましたから、余ったことは仕方がないとしましょう。でも、それを捨てるか?!!。世の中にはコロナお家生活で収入が激減、食べられない子どもたちも多いと聞きます。日雇いの大人も飢えていると。
いくらギリギリまで分からなかったとはいえ、「もし無観客になったら」「弁当が余ったら」を考える時間はあったはずです。すべての作業を自分たちでやりあげろとは言いません。困窮者を助けているボランティア団体に連絡することくらいはできたでしょう。残っちゃった⇒捨てるのルートしか頭の回路が無いのですか!!

医療用品。これももしコロナの爆発が起こった時などと考えて、かなり余分に用意したのだと言います。それはいいでしょう。でも使わなかった⇒廃棄処分、はないでしょう。コロナ感染がささやかれた頃からの、あのマスク不足、買い占め、アベノマスクの配布(後々の笑い話ですが)よもや忘れてはいないでしょうね。医療の現場では足りないガウンをビニールのレインコートで凌いだこともあったようですよ。
どうして倉庫を手配して次の非常時に備えようとは思わなかったのですか。誰一人として。医療現場に話して使ってもらうことはできたのではありませんか。喜ばれたと思いますよ。

「もったいない」は日本の世界に誇る言葉と褒められたこともあります。言葉だけではないでしょう。本来日本人が持っている精神財産のはずです。大きな組織の中で、大きな額のお金を動かすと、感覚がマヒするのですか。

大いに反省して、二度と同じような傲慢な仕事はなさらないでください。


運を拾う

2021-09-09 16:11:55 | 新聞記事から

少し勢いを落としてきたとはいえ、常に何かに押しつぶされるような不安感を与えるコロナウイルスです。おまけに、急に涼しくなったのは有難いのですが、雨続きの憂鬱な日々です。人々の心はかさついているようで、ニュースも暗い犯罪に溢れます。
そんな中で、誰にも明るさを届けるのがオオタニサ~ン・ショウヘイさ~んです。

最近の声のページにこんな投稿がありました。ますますファンが増えそうです。

野球を愛し、自らも楽しんでいる彼の生きざまが、皆に明るさを届けてくれます。
何気ない行動ですが、身についた行為なのでしょうね。

よく似た教えを母から受けました。高校受験の時でした。その頃希望した高校では試験に加えて、面接がありました。ほんのちょっとした時間ですが、3・4人の試験官の前に一人で対面し、質問に答えるのです。

面接の行われる前の晩に母が言いました。ある会社の試験の面接で、床に用紙が一枚落ちて居たそうよ。少々上がり気味の受験者は、皆落ちた紙など目に入らないのか無視だったの。一人の子が本当に自然に、気負った風もなく紙を拾って手に持って、試験官の前の椅子に座ったのよ。合格!!

わが家の二人の子供に、同じような機会を見つけて言い継ぎました。この何気なくやるということが、身についた行動でなければできないことなのですよね。

 

 


家事の分担

2021-09-08 13:32:12 | テレビから

朝食の半ばでNHKから「羽鳥慎一モーニングショー」に切り替え、洗濯、食器洗いなどをやりながら、ながら観をするというのが私の大体の日課です。今朝は、仕上がったものを干しに2階に上がっておりました。下りてくると次のような話題になっておりました。

もうそのコーナーはほとんど終わりに近かったのですが、類推するに、家庭での夫婦の家事分担について、が主題のようでした。
画面を左右2分割し、上から24時間が刻まれています。左右が夫と妻です。そこにやる家事を書き込んでいったらしく家事分担の一覧表ができていました。
驚くほどの偏りです。妻の家事負担が一目瞭然、本人たちが一番驚くほどだったとのこと。表を作る前は半分半分でやっている、と言っていた夫は2~3しかやっていないのです。家事はこれこれと名前が付けられない雑多のものが多く、これもほとんどが妻の方にかぶさっているとのこと。大体、夫は家庭を保って行くのにどんな仕事があるかすら理解していない。そうして自分は5割はしていると思っている。

出演の男性諸氏、う~んと頭を垂れていました。

思い出したことがあります。息子Kが幼稚園に行っている頃です。仲良しさんにS君がいました。母親同士も親しくしていました。家にも行き来していました。子どもが遊ぶ間、母親もおしゃべりで過ごすこともありました。
そんな午後を過ごした翌日、S君ママが言いました。
昨日、夕食の時、息子が言うのよ。ショックだったわ。

パパは毎日会社に行って働いているでしょう。ママはお家にいて働いていないよね。今日はお昼からはKちゃんがきたけれど、Kちゃんママも一緒に来て、ず~っとママとおしゃべりしてたよ。ずるいんじゃあないの。楽だよね。

う~ん、そう思われるのか。私もショックを受けて、腹立たしくもなりました。
Kちゃんママ「まあ、夫が上手く説明してくれて息子も分かってくれたようだけれど」

ママは何にもしないで遊んでいるように見える時もあるかもしれない。楽そうに見えるかもしれない。でも違うんだよ。ママは野球で言えば中継ぎの投手みたいな人、ピンチヒッターのような人なんだよ。いかにも何にもしていないように見えるけど、大事な時にうまくやってくれる人なんだよ。例えば、君が学校で喘息の発作を起こした時、学校から電話がかかってくるだろう。ママが家にいてくれるから、すぐ駆けつけてお医者さまにも連れて行ってくれるの。パパが急に出張しなければいけない時、宿泊の用意をして荷物を届けてくれることができるのは、ママがピンチヒッター役でお家にいてくれるからなの。パパもママもいっぱいいっぱいに仕事を入れていたら、こうした仕事はしてくれる人がいなくなるでしょう。いかにも遊んでいるように見えて、大事な役目をしているんだよ。

古い時代の婆さんの独り言。
私達の時代は「主婦は三食昼寝付き」などと、揶揄されながら悔しさを押し隠して専業主婦の座に座っていました。それから幾年月、世の中は変わりました。男女同等、女性の社会進出が当たり前のことのようになりました。それはそれで価値あることなのでしょうが、仕事も家事も完ぺきにこなすには、たとえ夫婦で半分半分分担できたにしても、かなりきついのではないでしょうか。

ピンチヒッター的な主婦がいる余裕は案外大事なのかもしれないと思うのです。勿論「三食昼寝付き」などと揶揄するなどは論外ですが。