諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

151 「学び」と私たち#6 「機械」で学べるか

2021年08月29日 | 「学び」と私たち
絵地図? 箱根旧街道 畑宿のあたり かつて三島宿~小田原城下まで歩きましたが、ほんとに8里(32㌔)ありました。疲!。

テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、

今回は、佐伯さんの、のちに別の本で詳しく述べることになるコンピュータ(チィーチングマシン)についてです。

コロナ禍中にあって、同じ空間にいること難しいという、状況下で、学校教育を支える手段は、リモート授業であり、タブレット端末などICT機器をつかった学習ということになって、一挙に学校もこうした機器を活用せざる得ない状況になってきています。
 ところが、”ICTフル活用”というと、(待ったなしではあっても)何か、躊躇するところもあります。
(こういうことでいいのかな?)

もともと佐伯さんは、工学部の出身で、「科学的に」教育にアプローチする立場ですが、ティーチングマシーンの「学び」に対して慎重です。私たちの抱く「躊躇」とつながる気がします。
「第4章「機械」で学ぶことはできるのか」も2回に分けて取り上げます。 


ベテラン教師の「知恵」や「工夫」を万人のものにしていくためには、すなわち、第三章でいった「知識のわかちあい」、「一貫性のひろがり」をもたらすためには、どうしても、その「知恵」や「工夫」が、どんな人間でもわかる形で明確に記述されていかねばならないであろう。一番「どんな人間でもわかるように」表すのは、それが「機械にだってわかる」ぐらいに明確になっていることがのぞましいことになる。

ここに「教育工学」の根本理念があるという。しかし、すぐにこのことに警戒する。

「教育工学」なるものが、つねに発展し、新たな「機械的原理」を生み出し、より広く、より深く意味での教育的営みの明確化にむかって絶えず成長、発展しているかぎりにおいては、まさに「教育的」であり「人間的」でもあるが、ひとたびそれが固定化し、つねに同じ発想、同じプロセスの中でぐるぐるまわりをはじめ、その枠内に入るものだけを扱っていくようになったとき、それはその「工学」を進めている人間が非人間化し、非道徳化しているのである。

そもそもこの「機械的原理」は「行動主義」の心理学に出発する。

1920年前後にたてつづけに出現したワトソン、ゾーンダイク、スキナー、ガスリー、トールマンらの学習理論は、すべてこのパブロフの条件づけの研究方法と理論化を基本的な典型(パラダイム)においたものといえる。

この人たちは、それまでの「水掛け論になりがちだった」それまでの心理学の限界を破る実証性のある「行動主義」を唱え、それ以降の「ティーチングマシン」の開発の指導者になっていく。
そして、理論の基本は、

そこでスキナーは、学習を効果的に能率的に進めるためには、次のような原則に従うべきであるとした。
 まず、学習は、つねに生体の偶発的行動の先行によって行わるべきであるとする。(※ここでネズミが偶然スイッチに触れるとエサが与えられるシステムが紹介される)
 次に、「のぞましい行動」に一歩でも近い行動が偶発したならば、直ちに強化を与える(即時強化)べきであるとする。強化が遅れれば、他の種の(のぞましくない)行動が偶発し、それによって、のぞましくない行動が強化されてしまうかもしれないから。人間の場合には、その「強化」通常、「あなたの反応は正しかった」ことを本人に知らせるだけで十分であって、いちいちアメとかチョコレートを差し出す必要がない。
 第三に彼の逐次的接近法にてらして、「のぞましい行動にむかって」強化を与えていくべき行動(目標行動)のスケジュールをつくること、すなわち、目標行動の系列化が行われなければならない、とする。


いかにも、パブロフからの派生した行動主義を教育にもちこんだ感がつよいが、学習の原理を誰もが納得し、共有できうる科学主義からすると、それまでの曖昧な教授方法は古めかしく感じたのだろう。
そして、科学的に行動分析を積み上ていくことを通して、冒頭の「ベテラン教師の「知恵」や「工夫」を万人のものにしていくためには、その「知恵」や「工夫」が、どんな人間でもわかる形で明確に記述されていかねばならないどろう。」という筋書きである。

 そして、誰でも理解でき、実践できることを目指す行動主義心理学に基づく学習の究極は、「機械にもできる」ことである。佐伯さんのいう「ティーチングマシン」というのはこうした考え方に基づく教育実践ということで考えたい。

元来、理科系出身の佐伯さんが、意外な論を展開していく過程を次回負っていく。

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150 「学び」と私たち#5 道徳の成長

2021年08月22日 | 「学び」と私たち
絵地図(ではない) こんなバスの路線図ですが、山に行かれないとこれもよく感じます。上高地バスターミナルで。

テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、

今回も、佐伯さんの、「道徳」の学び方、そして、その先です。

子ども達の心には、生きてい行くにはどうやら、自分を律する何らかの規範が必要であることを相当早くから感じていることを挙げている。そして、その素朴とも言える欲求に対してきちんと応えていくのが大人の役割であると。
そして、その規範みたいなことは、場面場面のふるまい方のhow-toではなく、自分の在り方の「一貫性」を自ら作り上げていくべきで、そこを後押しすることが、「道徳」=「人はいかに生きるべきか」の教育なのだろうと読み取った。つまり、

生きることと呼応して、「道徳」(=「人はいかに生きるべきか」)は存在する

のである。

ところが、それは、生きていることが絶えず変化しているのと同様に、「道徳」も成長を促されるのだと続ける。

いつも「まわりの人」をみて、「誰がボスか」を敏感に感知し、そこにうまく調子をあわせておのが身の安全をはかる。これはほかならぬわたしやあなたが、きのうもきょうもやって来ていることではなかったか。この「手」は実にうまくいく。一切のコンフリクト(衝突)はその場で解消してしまう。
しかし、なにごともあまりにもうまくいくとき、われわれは気をつけた方がよい。それは「閉じた世界」での、一種の「狂気」ではないだろうか、と。
われわれが人間の道徳(よさ)を学ぼうとするとき、この「閉じた世界」での解決だけは断じて拒否しなければなるまい。一貫性を「ひろげて」いくこと、また、そのために「より高い視点」を求め続けていくこと、そして、どこまでも一貫性(整合性)を失わないこと、これ以外の道はあるまい。


佐伯さんは、どうしようもなく生じる「コンフリクト」のより良き解消のためにも、「一貫性」は横に「ひろげ」ていき、常に「高い視点」を求めつづるけるものだとういう。
「道徳」と言ったとき下手をすると思考停止になる。ことを警戒しつつ、絶えず「一貫性」は向上的に広がっていく、動的なものだと言っている。
「道徳教育」というと、多くの人たちがなんとなく違和感を覚えるのは、そもそも教育内容として定量的に表せるものではないということだろう。道徳的判断は、その人の立場や気持ち、環境、地域や、時代的な背景によって、「一貫性」をもっていても、デリケートにその振る舞い方は変化する。大切なことは、道徳的価値とその表現は、自問自答していく過程抜きにはあり得ないということだ。

ところで後年、佐伯さんは、
ある研究者のコメントを引用する形で、こんなことを言っている。

学びは、たんに知識や技能を身につけることではなく、むしろ、「一人前」として認められること、いわば、その人の「アイデンティティ」が形成されることだということです。
したがって、知識や技能は「穴だらけ」でも、その人の判断がなんらかの局面で「頼りにされ」たり、「任せられる」とされれば、学んだ甲斐があるというわけです。人々はそういう「学び甲斐」を求めており、それは一人間としてアイデンティティの確立を求めているということなのである。

                         (『学ぶ力』岩波書店(2004))

たぶん、子ども達が、無意識に「一貫性」を自分で作り上げていくことを早くから感じていると佐伯さんは指摘しているが、子ども達はたぶんこうした共同体のでの自分を予感しているのではないか。
そして、そこに「学び甲斐」を求めるのならば、「一貫性」を持とうとすることは、すなわち「学び」の場づくりをしようとしていることともいえよう。

それにしても「知識や技能は「穴だらけ」でも、その人の判断がなんらかの局面で「頼りにされ」たり、「任せられる」とされれば、学んだ甲斐があるというわけです。」という一文は、肝に銘ずるべきことである。


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149 「学び」と私たち#4 道徳への道

2021年08月15日 | 「学び」と私たち
絵地図 三つ峠山 富士急行 三つ峠駅から登山口までの途中の絵地図。すごい急傾斜ですが、さすがにこれほどでもありません。


テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、

今回は、佐伯さんの、「道徳」の学び方、その筋道についてです。

ご存じの通り新しい学習指導要領では「道徳」が教科として位置付けられ、学校でもその実施の仕方で議論があるところと思います。

「道徳」を教えるというと、経験の中から学び取るという考え(経験主義)と、それでは曖昧になるからはっきり大事なことを掲げるべきだとする考え(徳目主義)があって、社会の構成員としての当然のルール押さえるべきだとするシチズンシップからの考えなどがあるかと思います。

「道徳」は1958年に「修身の復活」と揶揄されるむきもありつつ設定された経緯があります。そして、その経緯を踏まえた1975年、「道徳」について認知心理学者はどう考えたのでしょう。現在の「教科道徳」にも参考になるはずです。

われわらの学ぶべきことは多いが、そのなかで「人はいかに生きるべきか」を学ぶことは大きな位置を占めている。つまり、「道徳」を学ぶわけである。

「道徳」=「人はいかに生きるべきか」を子どもがどう学んでいくか、興味深いテーマです。
前段が長くなりました。以下、本文。

佐伯さんは、学校での「道徳教育」の問題点をこう指摘する。

「道徳教育」の実践報告をみても、「名作」を読ませて「感動」させてたり。「反省」させたり、「感想」を書かせたりが中心で、読ませる名作も、たとえば「走れメロス」のような「純粋で情感あふれる」ものがえらばれる。
人々に「感動」を与えたり、「情感あふれる体験」をさせたりすることは、それほどむずかしいことではなく、まして、教育界がよってたかって「研究会」をしたり「研修会」をしたりするほどのことではない。

いくら「心情」にうったえても「情感あふれる体験」はそれ自体、「理性的」あるいは「合理的」な思考にもとづく判断力とは結びつかないと言っている。
つまり、心情論だけでは、「人はいかに生きるべきか」に行き着かないというのである。

それを踏まて、その解を次の絵本の引用に求める。

わがままでらんぼうなしげるくんは、「いやいやえん」という保育園にいかされ、そこでは一切のわがままな主張が全部、徹底してまもられる。
「赤いもの大きらい」といえば、クレヨンの中から赤色はのぞかれ、おやつのときにも他の子どもはまっかなりんごをもらうとき自分だけクッキーをたべさせられる。「おべんとうなんかいらいない」と一言いえば、おひるのべんとうはない。らんぼうしほうだい、けんかもしほうだい、人形の首をとってもそのまま……などである。
最後のしげるくんは帰りぎわ、「いやいやえんはんか大きらい、もうこないよッ」といいはなつ。「そうかい。ざんねんなこと」とおばさんがいい、「さようなら」といってわかれる。ただそれだけのことであり、そこには何もお説教めいた説明もない。


(中川 李枝子『いやいやえん』福音館書店)


佐伯さんは、このエピソードの中に、子ども自身がもつ「道徳」=「人はいかに生きるべきか」への志向を見ている。
みんながどうしてるとか(「先例主義」「判例主義」)、こうしなければならない(「制定法的」)といった、外からの基準ではなく、もっと内面が求める基準に沿うべきだと言っているようだ。
この心がもとめるものを指して、佐伯さんは、「一貫性」という。
ちなみに、この後、しげるくんは、「明日になったら、ちゅーりっぷ保育園に行くんだ。やっぱりおもしろいよ」というらしい。「いやいやえん」*では「一貫性」が得られない。
*https://www.jac-youjikyouiku.com/chiiku/recommend/17416/より引用。

「不平等」、「えこひいき」、「ルール違反」……子どもはずいぶん幼いときから、これらに対して敏感に反応し、たりかに「怒る」。もちろん、子どもがときとしてわがままであり、身勝手であることは否定できない。そのようなとき叱られればたしかに「泣く」。しかし、いくら泣いても、それは真から怒っているのではないから、なきやめがばあとは実にサッパリとした顔付きで生き生きと遊び出す。
しかし、大人たちがこれらの「正義にもとる」行為をし、子どもに強いていると、子どもの心は深く傷つき、萎縮し、子どもの一貫性を求める「心の叫び」はいつか悲しみの上に消え去り、代りに、恣意的な大人たちの行う「判例」を記憶し、顔色をうかがい、雰囲気、けはい、などを察知して「調子をあわせる」練習にはげむにいたる。

子ども達の心には、こうした「一貫性」を求める性質のようなものがもともとあって、この素朴な人間性に応えていくことが、「道徳」=「人はいかに生きるべきか」の解につながると、認知心理学者はいっているのである。

「第3章 道徳(よさ)はいかに学ばれるか」は大変読み応えがあり次回もここから考えます。 



福音館書店HPから



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148 「学び」と私たち#3 「わかる」と「空白」

2021年08月08日 | 「学び」と私たち

絵地図 最近は、俯瞰的な絵地図より、実用的な地図が多い気がします。確かにこっちの方が頼りになりますが。

テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版

を 紹介しつつ、 今回は、佐伯さんの理解(「わかる」)のメカニズムについて読み解きます。

日常生活でも学習活動でも、記憶(「おぼえる」)していれば、すなわち、理解(「わかる」)していることとは言えない。
実際の子どもたちの指導場面でも、このことを考えさせられることは多い。
「おぼえる」の先、「わかる」の手前に何があるのか。

「わかる」とわれわれがいう場合、主に意味論的記憶にかかわりがあるようである。 ところで、「わかる」という場合、それは単に意味と結びつく「網目の結び目」との対応がつくのだけでなく、その「未知なる部分」(網目の「空白部分」)もわかるわけであり、その意味で、「わかる」とは「わからないところがわかる」ことである。」

数学の証明問題などで、「わかった!」と言ったあと答案を書く。その結果、「できた!」に至るのであるから、たぶん「わかる」とはすべてが塗りつぶされてしまった状態ではないのだろう。「空白部分」埋められる見通しがついた宣言が「わかった!」なのかもしれない。

ところで、このような「わからない部分」すなわち網目の『空白』にいきあたると、そこで人は「疑問がわく」わけで、それが網目のあちこちを統合するはたらきによって自然に埋まってくる場合もある。どうしても「空白が埋まらない」ときは、本部=中期記憶までもどり、そこの「資料室」にとどまり、次に短期記憶から入ってくる「新しい情報」をまって休んでいることもあろう。

そして、証明問題ができないとき、「いつかはできるはず」と思いながら、頭の中のいろいろなところに問いあわせたり(考えたり)、あたらしい短期記憶を気長に待ち伏せたり、もっとはっきり「わからない」と口に出して質問したりする。
そして、その「わかる」ための過程を俯瞰すると、

「わかる」とは、「絶えざる問いかけを行う」ことでもある。

「わかる」とは、問いかけの集積の上にあるのだろう。

さらにまた、公園内を自動車がいきつもどりつ探検しつつあちこち駆け巡るうちに「道」ができて、いわゆる「遠い概念」が「近く」なる。(東海道新幹線ができたことによって東京と大阪が「近く」なるのと同じ意味で。)これがいわゆる「一見無関係に思えていたことが関連づいてくること」に対応する。ここで、当然のことながら、エピソード的記憶に入っている過去の自分の「経験」との関連がつくことをふくめなければならない。 すなわち、「わかる」とは、「無関係であったもの同士が関連づいてくる」ことでもあろう。

バラバラだった概念が、「実はこんな関係を持つんだ!」ということが発見され、合点がいくこと。 それが「わかる」ということだろう。

ここまでのことを学校の研究紀要の結論のように書けば、
・「わかる」とは、疑問を発見すること
・疑問を課題意識として認識すること
・課題解決までに必要な情報収集のための手段を与えること
・課題解決までの間、待つこと
・そして「わかる」が成立するためには、多様は経験が複雑に関係していること
・「わかる」の先には、「次の問いかけ」が生じること


そして、佐伯さんは、そうしているあいだにも、道は拡張され、新ルートが発見され、不可逆的に「わかる」は進む、といい、こう結ぶ。

「わかる」とは、死にいたるまでにわかりつづけていくことなのであり、また、「ますます深く、ますます広く」わかりつづけていくことなのである。

えらく哲学的だが、本シリーズも不可逆的に進めます。
次は、道徳律(善し悪し)をどう学ぶか、です。


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147「学び」と私たち#2 記憶のドライブ

2021年08月01日 | 「学び」と私たち
絵地図 八ケ岳 硫黄岳山頂 連峰のほぼ中央には、様々なルートが集まります。

時々私たちは「学び」という言葉を口にしますが、本シリーズでは、このことについて少し立ち止まって考えて見ます。

テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版

その佐伯さんは、「第二章 「「おぼえる」ことと「わかる」こと」の中で、記憶のメカニズムについて、こんな洒落た比喩で説明します。
このメカニズムが「おぼえる」こととは?、「わかる」こととは?、につながってきます。
本シリーズは引用が長くなりそうです。

きわめて比喩的に、中期記憶のはたらきを説明しよう。
ここに広大な国立公園があったとする。(米国やカナダには自動車で文字通り振るスピードで一周するだけで何日もかかるような公園があるが、まずそのぐらい広いと考えていただきたい。)その広大な公園の中を、さまざまな旅行者が自動車にのって駆けめぐっている状況を思いうかべていただきたい。公園の要所要所には「管理事務所」があり、公園の玄関口にある本部とインターホンで連絡がとれるようになっており、管理人がひとり駐在している。この管理人が大変なまけもので、本部からの呼出しがあまりないときや、旅行者が通りかからないときは、すぐに昼寝するクセがある。しかも、インターホンは大変原始的で、本部からの呼び出しは、公園内すべての管理事務所に同時的に放送され、管理人は自分の名前が何度も呼ばれないかぎりヒルネしており、何度も呼ばれると、やっとおきて返事をする。
 本部からの連絡はいつも「…さん、あなたのところに…という標識はたってますか」であり、それに答える場合は、(もし目覚めていたとして)もしその標識がある場合には「ありますよ」と答え、自分のところに関係がない場合にはだまっている。似たような標識がある場合には「ありますよ」と答え、似たものはないが、自分のところに「関係がある」標識についての問い合わせに対しては、「ある」といったり「ない」といったり適当に答える。あまりしつこく何度も問い合わせてきたときには、ヨッコラショと腰をあげて、新しい標識を立てる。
(下線、引用者)

この「国立公園への旅行者」、「公園の玄関口にある本部」、「要所要所の管理事務所」、そして、なまけものの管理人とその仕事っぷりが、それそれ、短期記憶、中期記憶、長期記憶に対応し、その関係性が記憶の構造を示しているという。

短期記憶から入ってきた情報は「本部」の中期記憶でまとめられ、長期記憶との対応づけがなされる。そのとき本部は全管理事務所(そこが長期記憶内の個々の「概念」にあたる部分)に問いあわせ、関連する「意味標識」があるかを問いあわせる。その部分の脳細胞が「活動している」(「目覚めている」)ならば、マッチしておれば返答がある。「関連」している標識がない場合、新しくその標識が立てられる(つまり新しい情報が「記憶」される)。

つまり、短期記憶からの旅行者は「本部」(中期記憶)で要件内容(意味概念)としてまとめられ、「皆さーん!」と無数の長期記憶の管理事務所に向かって呼びかけると、任意の長期記憶が「関係あるかも」と思って手をあげる。そこに取りあえず、旅行者を案内し、とにかく、短期記憶と長期記憶とをつなぎ合わせるということだろう。そうしているうちに、

ここで旅行者がみな自動車にのっていると想定していただきたい。このことは同じ道を何台もの自動車が何度も通る、「道」ができてしまい、ますます通りやすくなることを意味する。

これで道ができ、旅行者は通り安くはなるが、案内は順調であるばかりではない。
「本部」と「管理事務所」の関係も曖昧で、旅行者は「本部」に案内されたいくつかの「管理事務所」に行ってみるが、当てが外れたりして、そもそもの旅行の目的を何度も思い起こしながら、駆けめぐることになる。つまり、

人間が様々な「問題」を解決すべく、「思考」するということに対応する。
人間は、そのようにして「期待」や「予想」を生み出し、また、もとの「期待」へいきつもどりつしているうちに、その人の「思考パターン」や「パーソナリティー」が形成されるのであろう。

脳が「生きている」というとは、このように、常に内部で活動しつづけ、新しく変貌しつつ、新しい概念を自己生成しつづけることを意味し、単にオートメーション工場内のように、ギッタンバッコンと装着が「動いている」というような意味だけではない。


頭の中では絶えずこうした営みが行われいるのなら、これは「学び」を考える上で、重要な手がかりである。

流石名著、先が楽しみです。






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