テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、
今回は、佐伯さんの、のちに別の本で詳しく述べることになるコンピュータ(チィーチングマシン)についてです。
コロナ禍中にあって、同じ空間にいること難しいという、状況下で、学校教育を支える手段は、リモート授業であり、タブレット端末などICT機器をつかった学習ということになって、一挙に学校もこうした機器を活用せざる得ない状況になってきています。
ところが、”ICTフル活用”というと、(待ったなしではあっても)何か、躊躇するところもあります。
(こういうことでいいのかな?)
もともと佐伯さんは、工学部の出身で、「科学的に」教育にアプローチする立場ですが、ティーチングマシーンの「学び」に対して慎重です。私たちの抱く「躊躇」とつながる気がします。
「第4章「機械」で学ぶことはできるのか」も2回に分けて取り上げます。
ベテラン教師の「知恵」や「工夫」を万人のものにしていくためには、すなわち、第三章でいった「知識のわかちあい」、「一貫性のひろがり」をもたらすためには、どうしても、その「知恵」や「工夫」が、どんな人間でもわかる形で明確に記述されていかねばならないであろう。一番「どんな人間でもわかるように」表すのは、それが「機械にだってわかる」ぐらいに明確になっていることがのぞましいことになる。
ここに「教育工学」の根本理念があるという。しかし、すぐにこのことに警戒する。
「教育工学」なるものが、つねに発展し、新たな「機械的原理」を生み出し、より広く、より深く意味での教育的営みの明確化にむかって絶えず成長、発展しているかぎりにおいては、まさに「教育的」であり「人間的」でもあるが、ひとたびそれが固定化し、つねに同じ発想、同じプロセスの中でぐるぐるまわりをはじめ、その枠内に入るものだけを扱っていくようになったとき、それはその「工学」を進めている人間が非人間化し、非道徳化しているのである。
そもそもこの「機械的原理」は「行動主義」の心理学に出発する。
1920年前後にたてつづけに出現したワトソン、ゾーンダイク、スキナー、ガスリー、トールマンらの学習理論は、すべてこのパブロフの条件づけの研究方法と理論化を基本的な典型(パラダイム)においたものといえる。
この人たちは、それまでの「水掛け論になりがちだった」それまでの心理学の限界を破る実証性のある「行動主義」を唱え、それ以降の「ティーチングマシン」の開発の指導者になっていく。
そして、理論の基本は、
そこでスキナーは、学習を効果的に能率的に進めるためには、次のような原則に従うべきであるとした。
まず、学習は、つねに生体の偶発的行動の先行によって行わるべきであるとする。(※ここでネズミが偶然スイッチに触れるとエサが与えられるシステムが紹介される)
次に、「のぞましい行動」に一歩でも近い行動が偶発したならば、直ちに強化を与える(即時強化)べきであるとする。強化が遅れれば、他の種の(のぞましくない)行動が偶発し、それによって、のぞましくない行動が強化されてしまうかもしれないから。人間の場合には、その「強化」通常、「あなたの反応は正しかった」ことを本人に知らせるだけで十分であって、いちいちアメとかチョコレートを差し出す必要がない。
第三に彼の逐次的接近法にてらして、「のぞましい行動にむかって」強化を与えていくべき行動(目標行動)のスケジュールをつくること、すなわち、目標行動の系列化が行われなければならない、とする。
いかにも、パブロフからの派生した行動主義を教育にもちこんだ感がつよいが、学習の原理を誰もが納得し、共有できうる科学主義からすると、それまでの曖昧な教授方法は古めかしく感じたのだろう。
そして、科学的に行動分析を積み上ていくことを通して、冒頭の「ベテラン教師の「知恵」や「工夫」を万人のものにしていくためには、その「知恵」や「工夫」が、どんな人間でもわかる形で明確に記述されていかねばならないどろう。」という筋書きである。
そして、誰でも理解でき、実践できることを目指す行動主義心理学に基づく学習の究極は、「機械にもできる」ことである。佐伯さんのいう「ティーチングマシン」というのはこうした考え方に基づく教育実践ということで考えたい。
元来、理科系出身の佐伯さんが、意外な論を展開していく過程を次回負っていく。