最近、愛読書ということを聞かなくなった気がする。
文字は誰でもすぐ活字化できるようになったし、SNSの文字は情報伝達の記号となり、その目的に応じた最低限のワードなり短文だ。
読み返すなんてことはほぼない。
友人は大学の時の研究に中原中也を選んだ。
「汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れっちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる…」
きっと中也の詩は今後もずっと彼の心の中にあるだろう。
活字は止まった情報だ。だから余計に時間を経るごとの、あるいは置かれていいる状況での自分が相対的にきわだつ。
愛読書があることは、活字は止まっているゆえに、いつもこちらを見てくれている変わらない友人がいるような感じたりする。
まれに“愛蔵版”なんて書かれた単行本があると嬉しいのは、逆に、文字情報との付き合いとして「対話的に付き合う」ことを忘れがちだからだろう。
なんでも記号化して処理したくなる現在にあって、特別支援教育には「個別教育計画」なんて文章表記の古風な評価システムがある。
たくさんの個別教育計画をみていると、単なる情報伝達にとどまらないものが多い。こういうものを古風に対話的に読むと、その先生の日々子どもに接する質感のようなものを感じる。
若い先生が質感を感じられるよう優れた個別教育計画を愛読?できる機会がもっとあっていい。