保育園でこんなゲームがある。
椅子取りゲームの要領で、ある椅子に座った人はウサギの真似をする、次の椅子はライオン、
その次はお巡りさん、バレリーナ、お母さん……となり、子どもたちはそれぞれを工夫しながらその役を演じていく。
そして最後の椅子には「じぶん」とある…。しばらく考える子ども。……やりようが分からない。
ここがこのゲームのミソなのだが、ライオンもお母さんもできても、「じぶん」はできない。自分ってどうやるのか。自分というのは自分だけで“こうだ”と決められない。
理屈っぽくなって恐縮だが、人というのは、誰かの中あって、なんらかのキャラクターをイメージでき、そこで振舞ってみて人格的な居場所を得ていく、のである。
こうしたメカニズムだからこそ、一昨日の主幹会議での私のキャラと、同世代の同僚と他愛もない話をするキャラと、若手のグループのメンバーに指示を出すキャラとは(期待されるものが異なるため)微妙に違う。 さらにプライベートもいれると、かなり多くの私がそれなりのキャラをもち、それぞれのキャラにふさわしい振舞いをしている。その総体(全体)が自分なのであろう。
だとするとよいキャラを子どもにかぶせてあげることで、良好な自分観を得、自己肯定感を得ながら成長していくことができると言える。
そしてどんなキャラとして迎え入れるかは、先生たちの子どもを見立てるセンスによると言っていいだろう。個々の子どもについてそれぞれのセンスを持ち寄っていろいろ彼のことを話してみる。そのことが、心地よい自分が感じられる人格的な居場所をつくるのだろう。
文字表記をするための話し合う教育計画の作成過程で明るい子ども観が共有されることを、計画本体より大事だと子どもたちは思っている。
さて、ゲームのつづき。「じぶん」ができなくて困っている子をもちろんそのままにしておかない。
その様子をこちら側で見ている子に、この子の良いところを発言してもらうのである。「これが君だよ」と。
「子どもの側の教育計画」了。