(写真)ここにも
漱石の「坊ちゃん」の生まれた年代を類推すると概ね1880年(明治13年?)ごろであろう。
坊ちゃんは典型的な明治人である印象を受ける。
和装の書生スタイルで道後温泉の上湯に通うというと、遠いその世界の人に感じる。
東京には陸蒸気なり鉄道馬車が文明開化のシンボルのように人目を引いている一方で、随所に江戸時代とさほど変わらない事々がたくさん残っていただろう。そんな時代に坊ちゃんは幼少期を送ったことになる。
ところが、坊ちゃんの全生涯を想像すると、そんなセピア色の枠に閉じ込められないことがわかる。
坊ちゃん(世代)を年表にしてみる。
22歳(1902年)大学卒業 松山へ赴任
24歳 (1904年)日露戦争
32歳 (1912年)大正元年
43歳 (1923年)関東大震災
57歳 (1937年)日中戦争
65歳(1945年)ポツダム受諾
78歳(1958年)東京タワー完成
84歳(1964年)東京オリンピック
明治の江戸っ子気質の青年は、松山の中学校を辞して東京に戻ってくるところで小説は終わるのだが、その後は漱石も想像できなかったであろう変化の激しい時代を生き抜くことになる。
セピア色の明治の写真館の時代から、想像を超えた天災と戦災の時代を経て、オリンピックのあのカラー映像の時代まで坊ちゃんは生きていた。アベベ選手を沿道から応援する群衆の中に一瞬小さく映る老人、それが坊ちゃんかもしれない。そして90歳まで生きたとすると大阪万博で太陽の塔を見上げていたもしれないのだ。
もちろんあり得ないことだが、二階から飛び降りて腰を抜かしていた少年の尋常小学校の先生が、もしこの激しい状況の変化を予知でたとしたら少年坊ちゃんに何を伝えるべきなのだろう。
先の読めない時代の教育ってどんなことなのだろう。
東京タワーが完成した時、老境の坊ちゃんが「清にも見せたかった」と思ったかどうか、そんなことすら見当がつかない。