(写真)上高地。たしかに別天地。
かつてランニング大会に出たことがある。
はじめて出た大会は10キロ走。タイムは約70分。完走できたことが励みになり、週2回程度走るように頑張った。そして翌年は55分!。
若いわけでもないが、肉体は変えられる実感がよかった。血液検査の結果も良好、走ることが生活のリズムにもなった。
一方で、昨今のランニング大会のデータ提供はすごい。
正確なタイムと着順、さらに年代別の成績もその場でプリントアウトされ何だか模擬テストの結果のように渡される。
ところが、それが良し悪しだ。
完走を喜んだ時の順位は最後尾から10%以内であり、練習の成果を出した!時も中間の選手より100人分遅いというデータである。
「やや弱い平凡なランナー。」それが1年の練習の成果だ。
さっきまでの充足感から離れて、「みんな速いんだなぁ」と思うと「自分が走ることが間違っているのかな」と一瞬考えてしまう。
野球場は大リーガーと同じ規格になりつつある。
100mも飛ばないからホームランが打てない。ホームランだけが野球じゃないけどホームランがあり得ないと野球に感じられない。
だからと言って両翼60mの球場を作ると、面白さが増すかもしれないが、亜流だよと揶揄される。
子どものころ三角ベースで盛り上がていたのに。
ずっとピアノを習っていたが、どうもオクターブ指が届かないとやめてしまう。
人間の側に尺度をあわせて、鍵盤の幅を少し狭くしてピアノを作ればモーツァルトもリストも弾けたかもしれない。
学校教育には偏差値という尺度がある。
この数値が普及することで「亜流の学校」が出現してしまう。学校なんて多様な価値が存在するのに一本の数直線上にならべてしまう。
必然的に「最後尾から10%」に相当する学校ができる。
そこに在籍している生徒は、「自分が学ぶことが間違っているのかな」と感じて無理はない。
また大きなフライを打ってもホームランに見られにくい。「せいぜい60m」。本当は120m飛んでいるかもしれないのに。
かつてランニング大会に出たことがある。
はじめて出た大会は10キロ走。タイムは約70分。完走できたことが励みになり、週2回程度走るように頑張った。そして翌年は55分!。
若いわけでもないが、肉体は変えられる実感がよかった。血液検査の結果も良好、走ることが生活のリズムにもなった。
一方で、昨今のランニング大会のデータ提供はすごい。
正確なタイムと着順、さらに年代別の成績もその場でプリントアウトされ何だか模擬テストの結果のように渡される。
ところが、それが良し悪しだ。
完走を喜んだ時の順位は最後尾から10%以内であり、練習の成果を出した!時も中間の選手より100人分遅いというデータである。
「やや弱い平凡なランナー。」それが1年の練習の成果だ。
さっきまでの充足感から離れて、「みんな速いんだなぁ」と思うと「自分が走ることが間違っているのかな」と一瞬考えてしまう。
野球場は大リーガーと同じ規格になりつつある。
100mも飛ばないからホームランが打てない。ホームランだけが野球じゃないけどホームランがあり得ないと野球に感じられない。
だからと言って両翼60mの球場を作ると、面白さが増すかもしれないが、亜流だよと揶揄される。
子どものころ三角ベースで盛り上がていたのに。
ずっとピアノを習っていたが、どうもオクターブ指が届かないとやめてしまう。
人間の側に尺度をあわせて、鍵盤の幅を少し狭くしてピアノを作ればモーツァルトもリストも弾けたかもしれない。
学校教育には偏差値という尺度がある。
この数値が普及することで「亜流の学校」が出現してしまう。学校なんて多様な価値が存在するのに一本の数直線上にならべてしまう。
必然的に「最後尾から10%」に相当する学校ができる。
そこに在籍している生徒は、「自分が学ぶことが間違っているのかな」と感じて無理はない。
また大きなフライを打ってもホームランに見られにくい。「せいぜい60m」。本当は120m飛んでいるかもしれないのに。