この径から3.5時間かけて八ケ岳(横岳)につきます。杣添尾根ルート。
登山口は、多くが意外なほどひっそりとしている。
未知の世界の入り口としてはそれがまた良い。
山を登るというのは、自前の筋力を使い、それを応援すべく息を弾ませつつ、移動する単純な動きである。
ところが、その単調なリズムが自然に周囲の環境に自分を溶け込ませる効果があるかもしれない。木々や草、苔、石や倒木、鳥の声、風の音、空と雲の動きに気づいてくる。
山の自然はこの日も「営業中」なのである。
この中にいることがなんだか嬉しい。
次第に体も心も山中にいることに慣れてくる。
本来人間も自然なんだよなぁと、運動中のため余計に?それが真実として感じれるようになる。
自然は厳しいし、その中に入り込んだ以上厳しさを共有するのがルールのような気がして、汗を拭きながら体を押し上げる。そして、自然の一員にしてもらう。
さらに登り続けると、身体は機能的に動くことを思い出す。動力機関と化してくる。定期的に水分補給と行動食を摂る。そしてまた出発。
人間の身体は長距離歩行には向いているという。
振り返ると視界が全くちがっている。向こうの山より高いところまで来ている。体が欲している水が実にうまい。我が動力機関も結構エライ。
そしてこの身体感と、適度な疲労のハイテンション、そして物理的に高地にいる実感とが周囲の自然環境を鮮やかに感じさせる。そこで知り合う登山者も機嫌がいい。
「遠く、高くここまで来た。」
ところが、動力機関にも限界がくる。
海抜2600M前後に森林の限界点がある。この上に高木はない。
森林限界点と関係はないが、体力にも限界点(と感じる)があるものだ。
動かない身体をバテはじめている気持ちが頂上まで押し上げねばならない。限界点以上の山登りは、
できれば避けたい苦痛。
ただそれだけである。山登りのもう一面。
そんな状態だと、次々に頭の中で苦痛を逃れる言葉を吐き始める。
「何でわざわざこんなことしてるんだろう」
「もっとトレーニングしておくとよかった」
完全に弱気だ。
「そういば、あの映画の続き見逃したな」
「アメリカはシェールガスを輸出してるけど、国内の石油元売り業者は黙ってないだろう」
と話題をかえる。
「そもそもこの山は〇〇さんの紹介だ、結構大変じゃないか」
と責任転嫁する。
「とにかく早く終わらないかな」
とシビレをきらす。
「いや、誰かと競争していない、自分と相談してマイペース」
と持ち直す。
他にも、「あー」と叫んだり、ストックで石で遊んだりして気を紛らわす。
弱い自分とこんなところで向き合ってしまう。それだけきつい。まだ、頂上まで2時間と無常の標識。
そして、さらにこれが続いたある時点で真理!に行き着く。
「そうだ、今、山登ってんだ…。山登ろう!。」
腹が据わり、次第に自分を取り戻せることを発見したりする。
足の置き方にも注意が向く、体のバランスも整う。むやみに時計を見ない。苦痛と冷静な自分が同居できている感じ。
こんな時、頂上に着いても、あまり感激はない。
「ちゃんと山登んなきゃな。」
ザックを下してつつ反省する気分がある。
こんな山に限ってまた行きたくなるのはなぜかわからない。
登山口は、多くが意外なほどひっそりとしている。
未知の世界の入り口としてはそれがまた良い。
山を登るというのは、自前の筋力を使い、それを応援すべく息を弾ませつつ、移動する単純な動きである。
ところが、その単調なリズムが自然に周囲の環境に自分を溶け込ませる効果があるかもしれない。木々や草、苔、石や倒木、鳥の声、風の音、空と雲の動きに気づいてくる。
山の自然はこの日も「営業中」なのである。
この中にいることがなんだか嬉しい。
次第に体も心も山中にいることに慣れてくる。
本来人間も自然なんだよなぁと、運動中のため余計に?それが真実として感じれるようになる。
自然は厳しいし、その中に入り込んだ以上厳しさを共有するのがルールのような気がして、汗を拭きながら体を押し上げる。そして、自然の一員にしてもらう。
さらに登り続けると、身体は機能的に動くことを思い出す。動力機関と化してくる。定期的に水分補給と行動食を摂る。そしてまた出発。
人間の身体は長距離歩行には向いているという。
振り返ると視界が全くちがっている。向こうの山より高いところまで来ている。体が欲している水が実にうまい。我が動力機関も結構エライ。
そしてこの身体感と、適度な疲労のハイテンション、そして物理的に高地にいる実感とが周囲の自然環境を鮮やかに感じさせる。そこで知り合う登山者も機嫌がいい。
「遠く、高くここまで来た。」
ところが、動力機関にも限界がくる。
海抜2600M前後に森林の限界点がある。この上に高木はない。
森林限界点と関係はないが、体力にも限界点(と感じる)があるものだ。
動かない身体をバテはじめている気持ちが頂上まで押し上げねばならない。限界点以上の山登りは、
できれば避けたい苦痛。
ただそれだけである。山登りのもう一面。
そんな状態だと、次々に頭の中で苦痛を逃れる言葉を吐き始める。
「何でわざわざこんなことしてるんだろう」
「もっとトレーニングしておくとよかった」
完全に弱気だ。
「そういば、あの映画の続き見逃したな」
「アメリカはシェールガスを輸出してるけど、国内の石油元売り業者は黙ってないだろう」
と話題をかえる。
「そもそもこの山は〇〇さんの紹介だ、結構大変じゃないか」
と責任転嫁する。
「とにかく早く終わらないかな」
とシビレをきらす。
「いや、誰かと競争していない、自分と相談してマイペース」
と持ち直す。
他にも、「あー」と叫んだり、ストックで石で遊んだりして気を紛らわす。
弱い自分とこんなところで向き合ってしまう。それだけきつい。まだ、頂上まで2時間と無常の標識。
そして、さらにこれが続いたある時点で真理!に行き着く。
「そうだ、今、山登ってんだ…。山登ろう!。」
腹が据わり、次第に自分を取り戻せることを発見したりする。
足の置き方にも注意が向く、体のバランスも整う。むやみに時計を見ない。苦痛と冷静な自分が同居できている感じ。
こんな時、頂上に着いても、あまり感激はない。
「ちゃんと山登んなきゃな。」
ザックを下してつつ反省する気分がある。
こんな山に限ってまた行きたくなるのはなぜかわからない。