諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

48 生体としてのインクルージョン#01 はじめに

2019年10月13日 | インクルージョン
前号の登山口から4時間。八ケ岳(赤岳)が見え始めます。


終戦直後、鶴見俊輔さんは、「言葉のお守り的使用法について」という論文を書いた。
戦時中、戦争ムーブメントを煽るように過剰に告知されたいくつかの言葉の働きを指摘した。


最近では、保育所不足を打開すべく放った「日本死ね」というブログの言葉が思わぬ影響を持った。
座談会でこのことの賛否が議論されている中で、ある作家が感慨に近い感情とともに「それにしても言葉の力だねー」言っていた。

もう少し広げる。
話題の「サピエンス全史」によれば人類の進歩は、共通に信じられる虚構を言葉を介して持つことで同じ方向を向き、飛躍的に交流が進んだという。
一方で、ヘレンケラーはものには個々に名前がついていることをサリバン先生に教わり、そのことでそれまで粗末に扱っていた人形を大切するようになったという。

言葉のもつ不思議な働き。


そんなことを少し気にしながら「インクルージョン」の内実を考えてみたい。


言わずもがな、インクルージョンは障害者の権利条約のキーワードであり、世界基準の用語である。
インクルージョンとそのイメージを代表した口語「私たちを除いて決定しないで(Nothing about us without us!)」は国連の人権意識と相まって、すごいスピードで世界に浸透していき、現在180の国が条約を批准している。
政府が実施しなければならない義務も多い中での広まりが驚きである。


ところが、世界基準の「インクルージョン」は、私たち一般教員にはどうも言葉そのものからくる力が伝わってきにくい。
これまでの日本の学校文化の機微に触れる、というわけにはいっていない(のではないか)。
同じことを、地域での活動でも感じる。多分住民は「聴き慣れない横文字の一つ。」に違いない。


インクルージョンには社会の制度や意識の変革を求めるイメージもある。勇ましい。
ところが、「私たち(障害者)を除かないため」にする傾聴は静かな行為であるし、共に生きるとはいえそれぞれがもつ現実もある。共に生きるとは簡単ではない。
絨毯の色を変えるように地域が変わるはずはない。

インクルージョンが変革を進めるなら、それは制度の問題だけではない。

共に生きるとは心のでもある。

個々の心の向き合い方について慎重な検討が必要である。


そんなある種の違和感もあり、地域支援の実際の中でのインクルージョンについて静かに考えたいと思います。新シリーズ「生体としてのインクルージョン」。

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