諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

205 保育の歩(ほ) #1 プロローグ

2023年05月14日 | 保育の歩
間ノ岳から北岳へ 🈟 夏、野呂川源流部、両股小屋から出発!

養老孟司さんの子ども観を端的に表している文章がある。

子どもが生まれてくると改めてわかることがあります。子どもは何かの目的を持って生まれてきたわけではないのです。自分の一生もそうで、何らかの目的のために生きてきたわけではない。我々は働きアリでも働きバチでもない。一人ひとりの人生はなんだかわからない、理由などよくわからない一生です。子どもだって将来どうなるかわかるはずがありません。そういう当たり前のことが、都市の中で暮らしているとわからなくなる。そしてすべてを現在化してしまうのです。
私が言いたいのは、全てが予定の中に組み込まれていったときに、一体誰が割を食うのかと言うことです。それはもう間違いなく子どもなのです。なぜなら、子どもというのは何にも持っていないからです。知識もない、経験もない、お金もない、力もない体力もない。何もない。それでは、子どもが持っている財産とは何か。それこそが、一切何も決まっていない未来、漠然とした未来なのです。
その子どもにとって未来が良くなるか悪くなるか、それはわかりません。ともかく、彼らが持っているのは、何も決まっていないと言う、まさにそのことなのです。私はそれを「かけがえのない未来」と呼びます。だから、予定を決めれば決めるほど、子どもの財産である未来は確実に減ってしまうのです。私たちは、先のことを決めなければ、一切動かないと言う困った癖がついてしまいました。


そして、財産である”何も決まっていない未来”に対し大人はどうあるべきか、
 
(前略)田んぼも同じだと私は思います。お百姓さんにとって、いい稲を作るのは、もちろん大きな目的です。雑草が生えたら抜いて、畦が壊れたら修理して……、と様々な仕事をやっています。
では、それらすべてを稲を実らせる目的でやっているかというと、私はそうでないと思う。当面そうしないと気がすまない、何か落ち着かないからやっている。そんなふうに細かく手入れしていくと、最終的には外国人がびっくりするような、きれいな景色ができてくる。お百姓さんたちは、何も美しい景色を作ろうと思って手入れをしているのではないと思います。
植木屋さんそうです。何かカチャカチャ切っていますが、あれはめちゃくちゃに切っているわけではない。切ってはながめて眺めては切っています。だからといって、あるはっきりした目的があるわけではない。要するに、何かきちんと手入れをしていると、いつの間にか出来上がってくるものがある。それが手入れの感覚です。

この事はそのまま子育てについても言えることだと思います。子どもを育てるというのは、こういう感覚ではないかと思います。自然に手入れをしていく。我々の体は、自分が作ったものではないから「自然」です。一方で思うように作り直したいというのは、体での感覚とは決定的に違う。手入れと言うのは、もともとあったものを認めておいて、それに何か人間の手を加えていくと言うことです。私は子育てがまさに典型的な例だと思います。
その子どもの扱い方がわからくなくなってきたのは、日常生活の中にこの手入れの感覚がなくなってきたからではないか。それが里山にも出ているし、自然にも出ているわけで出ているわけで、日本全体の傾向です。その傾向が、乱暴に言えば都市化と結びついているのです。都市化とは何かといえば、それは何でもかんでも頭で考えて物事を思うようにしようとすることです。顔の整形手術とどこが違うのでしょうか。

                      『かけがえのないもの』新潮文庫

予定調和を期待するシステムの中で、つい子どもの行く末も固定的に考え、教育もそれに向けて目的的に機能させる。そうする仕組みに慣れている。そのいうことが問題だという。

人生の長い時間、それと最初に対峙するする子ども時代の感性が一生を左右するなんて自伝や文学はたくさんある。
自己肯定感!といわなくても、自分ストーリーの感触の源泉はこの時期にあることを養老さんは実感している。
大人に与えられた目標達成するための子ども時代から離れて、予定調和から解放された白紙に思い切りクレヨンで何かを描くような時間、それを実現する「教育」ってどんなものだろう。
子どもの「何も決まっていない未来」、それをサポートする「お手入れの感覚」って意図的に、あるいは組織的にできうるのだろうか。例えば学校教育の原則、目標設定、適切な方法、評価、という連鎖から逸脱ということでもあるだろう。

そのこと。そのことを発見できうる世界を見渡してみると、保育の世界というのはどうだろう。
保育は学校のように教えることを目的にしない。評価と言ってもテストなどではない。
では、保護し育むという言葉どおりだとしたらその様相はどんなものだろう。
たとえそれがどんなものであっても、子どもたちの健やかな成長を期していることに間違いないのである。

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