isseyと愉快な仲間達

日々謝罪と反省なり。

25年目

2020年01月17日 21時21分57秒 | 主義・思想
どうも、こんばんわ。
久しぶりに言いたい事を書きます。
阪神淡路大震災の話です。

皆さんは1995年1月17日をどのように過ごしましたか?
同年1月15日が日曜日で16日が振替休日でした。
その翌日17日(火)に震災は起こりました。

私は兵庫県の阪神地区在住だったので、当時の事はよく覚えてます。
全地球規模の利益を代表するメンバーの1人なので詳細な年齢などは言えませんが、当時私は学生でした。
読者の中には、震災当時は学生だった人、社会人だった人、性別が今とは違った人、まだ生まれてない人もいると思います。

地震でテレビが倒れ、その影響でブラウン管が壊れて画像が悪くなったテレビで中継を見ました。
AC(公共広告機構)の当時の「エーシー!」という甲高い決め台詞のCMが不快でした。

ガスと水道が止まり、断続的に続く余震に怯えていました。
家に懐中電灯が無く、駅前の小さな電器屋に懐中電灯を買いに行ったのを覚えてます。

3週間ほどして学校が一時的に再開し、友達と会って安否確認をして生きてる喜びを分かち合いました。
幸いにして身近な人に死者はいなかったと思います。

当時の震災が後の自分に影響を及ぼしたのか、元々そうなのか分かりませんが、私は懐中電灯が好きです。
仕事の時でも常に(小さいのを)持ち歩き、寝る時は枕の上に置いています。
流石に靴を履いて寝るのはムリですが、懐中電灯くらい常備しておくべきだと考えています。
家には懐中電灯が数本、ランタンが2~3個置いていますので、2018年9月の台風で停電した時は何とか過ごせました。

日頃の備えは大切ですね。
阪神淡路大震災には無かった概念ですが、東日本大震災で「帰宅困難者」なんて言葉も出ました。
阪神淡路大震災が防災のすべての盲点だった訳ではなく、備えても備えても次々と我々の予想を超えた災難が襲ってきます。
それでも災難を乗り越えて次はもっと良い方にと努力を積み重ねる事でしか災害は防げないのでしょう。

震災から四半世紀が経ちました。
この25年間で色んなモノが様変わりしましたね。

豆電球が発光ダイオード(LED)に変わりました。
電車の切符がICカードに変わりました。
ごく一部の人しか使えなかった携帯電話が誰もが持つスマートフォンになりました。
自動車の燃費が少し向上し、郵政省が一応民営化になりました。
年賀状は削減されたのに、お中元・お歳暮は残ってます。
電動の自転車が発明されたのに、ツチノコはまだ発見されていません。
学校のイジメにデジタルが導入され、陰湿さが増しました。

皆さんは災害に備えて何か準備はしてますか?
自宅にヘルメットはありますか?
非常食の用意は出来てますか?
会社から自宅まで徒歩で帰宅するには何分位掛かるか把握してますか?
その途中にコンビニが何か所あり、公民館が何か所あるか知ってますか?
数時間点灯する懐中電灯は持ってますか?
スマホの予備のバッテリーはありますか?
小さいラジオを常備してますか?
3日分の水はカバンに入ってますか?

なんて事を言ったらキリが無いですね。
自分なりに取捨選択して工夫して持ち歩くのが良いと思います。
大阪北部地震の時は道路が物凄く渋滞しました。
パンクしにくい自転車とかあったらいいなと思いましたが、私はカブを買いました。
オフロードバイクも考えましたが、瓦礫の上を走るには若さと長い訓練がいると思い諦めました。

長々と書きましたが、災害に備えて今できる事をやりましょう。
災害弱者にならないよう日々健康増進に努めるのも防災の一部だと思います。

冗談ですが、避難所に相撲部が大挙してやってきたら、何か自分たちの食料が減りそうな気がしますね。
実際はそんな事はないと思います。
彼らは力持ちなので、一緒になって協力してくれる筈です。


ダラダラとした駄文ですみませんでした。