つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

担当

2015-03-20 17:29:38 | 日記
遅く起きて、春菊を茹でる。
同じタイミングでシンクで布巾を漂白していた。

春菊が茹だった鍋をシンクでざるに上げると、春菊の茹で汁で漂白している布巾がきれいな薄緑に染まった。
いい色、と思ったけれど水をかけると薄緑は抜けていった。

書道用紙を、自分で染色している人がいる。
何かの葉っぱを煮だして浸けて、乾かすのだそうだ。

それでしわしわにならないのかとか、墨の滲みはどうなるのかとか、色々と気になる。
そして、至極面倒な部類のことであるのだけれど、とても興味がある。
しかし、相当なきっかけがないと取り掛からないだろうなとも思う。


「四月は君の嘘」を借りたので読む。
「ジョジョの奇妙な冒険」の第七部は10巻で読み止しになっている。
私にはあのマンガは、言っていることは気になるのだけれど、いかんせん絵が難しいのである。
男子漫画どころか漫画初心者なので、あまりにファンタジックな世界や、芸術的な絵だと、入ってくる情報が多すぎてショートしてしまう。

「四月は君の嘘」は絵的にも内容的にもとても読みやすい。
中学生のバイオリニストとピアニストの話だが、音楽のこと、というか音楽を表現とすること、について知りたい私には読み進めやすい。
そして、幾度か泣かされそうになる。

音楽を表現とすることを描きつつも、本質は「自分は何者なのか」に尽きる。
「バイオリニスト」でも「ピアニスト」でも「音楽家」でも「演奏家」でもなくて、ただの「私」であるということ。
音楽は表現の一手法である。

「自分を見失う」というようなことが時々聞かれるが、私は長らく「自分を見失う」という言葉の意味が分からずにいた。
自分は自分であるのに、それを見失うというのはどういうことなのか、また、見失っていることもまた自分なのだと思っていた。
要はそれについて考えること、直視することが嫌だったのだと思う。

しかしながら、いつ何時も「自分を見失っているのかもしれない」と体で分かるようになったように思っている。
それもまた、見失っていることもまた自分なのだ、というその地点で思考を止めることももちろん可能なのだけれど、それはまあしたくなくて、よく言われるところの“本当の自分”に出会いたいのだ。

と、電車で隣に座っているおじさんが夕刊フジを読んでいて、脳科学者の中野信子さんのコラムが載っているのを目にした。
「通念を超えた奇跡」という見出しに思わず食い入っておじさんの新聞をみてしまったのだが、あいにくページをめくられてしまったので、夕刊フジを買った。

空海の話と人間性の一貫性について書かれていた。


イメージを我が物にする沈丁花




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