つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

忠告

2015-07-06 12:34:52 | 日記
私は食べ物に優しくされるのが好きだ。

クレープのしっとりした皮とか、羽二重餅とか、セブンイレブンのクリーム大福とか、まい泉のカツサンドとか。
そういう感触としての絶妙なそれらは、しばしば私を魅了してきた。
唇に乗りかかってくるような柔らかい感触が好き、というのは共通するのかもしれないけれど、「これでなくてはダメ」という絶妙なラインをこれらは満たす。

とあるところで、ミルクせんべいをいただいて、感触的な意味でない、衝撃的といってもいいほどの優しさに触れた。
その優しさの正体は、甘さ、なのだけれど、とてもとてもほんのりな甘さなのだ。
軽すぎるせんべい生地全体にまんべんなく薄く染みわたっている、舌全体で味わわないと感じられないようなほのかな甘さ。
ほんの少しの砂糖の甘さ、というよりは、ミルクそのものの甘さを思わせるような。

甘さ、という点では、さっくりとしたクッキーにまぶしてある粉糖もとても優しいと感じる。
しかしそれは感触や質感の上に、ダイレクトに脳に届く甘さにおけるエンドルフィンの分泌、のようなことの意味合いが強い。

ちなみに今私が言っているそれらは全て「美味しい」けれど、でも「優しい」と「美味しい」は別物である。
私の中の、幼き少女が目をきらきらさせて「わぁ」と言っている、と言ったら余計に分かりづらいだろうか。

私が食べたのは、「さとうのミルクせんべい」だったわけだけれど、他のもそんな感じがするのだろうか。
気が向いたら試してみようと思う。


時々、人の欲深い顔を見ることがある。
そしてその顔を見ると、私は少しドキッとするというか、興奮する。

それは、所謂意味の「欲深さ」ではないかもしれない。
例えば、何かを知りたいとか、分かりたいとか、そんなものも欲の一種だとして。

自分が自分のために自分本位で、自分を満たそうとして、それが満たされかけています、というときの顔。
何の疑念なく何かを狙っていて、恍惚としているときの顔。
それは悪魔的であり、無色透明のクリスタルのような輝きも放っている。

自分が、盲目的なタイプであることだけはいつでも忘れてはならない。
バランスは難しいし、いつだって何かを決めないといけないのだけれど、まずもって決めてかかってはいけない。

自覚的であれ、当事者であれ。
というマーシーの言葉は、私は本当に長らく、事あるごとにとても大事にしている。


私は「絆」という言葉にとても違和感がある。


洗濯機の音の向こうに遠雷あり




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