何回目だろう、4回目か、句会に参加する。
そう見えないと思うけれど、句会に出るのはいつもちょっと緊張する。
それは自分で創ったものを他の人に見てもらう、というところが。
表現というのは「ありのままを」出すこととは違う。
描くイメージや伝えたい何か、醸したい雰囲気があって、それを的確にするには技術が要る。
私にとって俳句は、別にいつだって止められる、やらなくてもいいことだ。
書道はそれでお金を得てしまっているので、お金が要らなければいつだって止めてもいい。
軽い気持ちで習い事を続けて続かない理由として、「イメージと違った」という理由を時々聞くことがあるけれど、それは翼を持たない人間が空を悠々と飛んでいるイメージしかないからということと、それに対する愛情と敬意が足りないからだと思う。
何にも持たずに空など飛ぶことができようか。
言ってしまえば、言葉は最低限には皆喋れる、字も最低限には皆書ける。
既にインフラと化しているものが上手くなりたいと思う時、自分が最低限以上の何も持っていないことを認識しなければならないし、何にも持っていないけれど突っ込んでやってみるということが重要である。
「上手くできないから」止めてしまうというのは、それに対して興味も愛情も欠けている、そう思わざるを得ない。
偉そうなことを言うけれど、私は音楽について「好き」と言えるようになりたいのに、いまいち上手くならないのは、それに対する愛情と敬意が足りないことを思い知ったりもする。
そしてそんなに好きではないのかもしれない。
でも好きと言いたい。
句会の話を書くつもりが随分と逸れてしまった。
俳句について私はド素人なので、主催者である紀本さんの俳句ブログをよく拝見している。
しかしなんだか上手くできないなと思っているのがこの頃で、しかし、考えて見れば隔月くらいで催される句会の締めきり前3日くらいしか創る立場で俳句のことを考えていないのだから当然である。
俳句は、五七五という小さくて奥深い世界。
今の私としては、そこから広く多くのイメージを抱かせる懐の深い句、もしくは情緒的・絵画的なイメージや面白味が鮮烈な句、が良い句のような気がしている。
今回の句会では紀本さんの批評と解説が直接得られてとても参考になった。
上手くなりたいのであれば、筋力トレーニングと同様に日常的にやることと、それを日常的な意識下に食い込ませるくらいしないとだめなのである。
インプットよりもアウトプットに重点を置いた方が良い。
“体得”というのは体を使わないと得られない。
それに、アウトプットしようと思ったら、必然的に十分な量のインプットが付いてくるようにも思う。
まあある域まで達すると意図的にインプットの幅を広げる必要性も出てくるとは思うけれど。
というわけで、ブログを更新する際には一句載せてみようかなと思う。
私の心が俳句の世界に持っていかれているというのとはちょっと違うのだけれど、もちろん俳句を始める前以上の面白味は感じているし、「何か露出する言葉」であったり「作品を作品として独り立ちさせること」であったりをもう少ししてみたい。
書のネタ不足でもあるので、ちょうど良い。
いつまでそこまでの愛情を持続させられるか分からないけれど。
面白いことというのは往々にして面倒くさい。
しかし、面倒を取らないと物事に興じることは難しいのかもしれない。
本屋で「季寄せ」を買う。
ついでに見やすそうだった「書道三体字典」も買う。
次の三句が今回の句会のために作った句。
「月が煙草~」の句は全員の方に得点を入れてもらえてうれしかった。
月が煙草百本吹かせば夜の雨
のうみそがきいろくとけてきんもくせい
女子会は楽しさ盛る盛るサフランライス
句は何の解説もなしに載せていこうかなと思う。
秋茄子と空気人形は素っ頓狂

そう見えないと思うけれど、句会に出るのはいつもちょっと緊張する。
それは自分で創ったものを他の人に見てもらう、というところが。
表現というのは「ありのままを」出すこととは違う。
描くイメージや伝えたい何か、醸したい雰囲気があって、それを的確にするには技術が要る。
私にとって俳句は、別にいつだって止められる、やらなくてもいいことだ。
書道はそれでお金を得てしまっているので、お金が要らなければいつだって止めてもいい。
軽い気持ちで習い事を続けて続かない理由として、「イメージと違った」という理由を時々聞くことがあるけれど、それは翼を持たない人間が空を悠々と飛んでいるイメージしかないからということと、それに対する愛情と敬意が足りないからだと思う。
何にも持たずに空など飛ぶことができようか。
言ってしまえば、言葉は最低限には皆喋れる、字も最低限には皆書ける。
既にインフラと化しているものが上手くなりたいと思う時、自分が最低限以上の何も持っていないことを認識しなければならないし、何にも持っていないけれど突っ込んでやってみるということが重要である。
「上手くできないから」止めてしまうというのは、それに対して興味も愛情も欠けている、そう思わざるを得ない。
偉そうなことを言うけれど、私は音楽について「好き」と言えるようになりたいのに、いまいち上手くならないのは、それに対する愛情と敬意が足りないことを思い知ったりもする。
そしてそんなに好きではないのかもしれない。
でも好きと言いたい。
句会の話を書くつもりが随分と逸れてしまった。
俳句について私はド素人なので、主催者である紀本さんの俳句ブログをよく拝見している。
しかしなんだか上手くできないなと思っているのがこの頃で、しかし、考えて見れば隔月くらいで催される句会の締めきり前3日くらいしか創る立場で俳句のことを考えていないのだから当然である。
俳句は、五七五という小さくて奥深い世界。
今の私としては、そこから広く多くのイメージを抱かせる懐の深い句、もしくは情緒的・絵画的なイメージや面白味が鮮烈な句、が良い句のような気がしている。
今回の句会では紀本さんの批評と解説が直接得られてとても参考になった。
上手くなりたいのであれば、筋力トレーニングと同様に日常的にやることと、それを日常的な意識下に食い込ませるくらいしないとだめなのである。
インプットよりもアウトプットに重点を置いた方が良い。
“体得”というのは体を使わないと得られない。
それに、アウトプットしようと思ったら、必然的に十分な量のインプットが付いてくるようにも思う。
まあある域まで達すると意図的にインプットの幅を広げる必要性も出てくるとは思うけれど。
というわけで、ブログを更新する際には一句載せてみようかなと思う。
私の心が俳句の世界に持っていかれているというのとはちょっと違うのだけれど、もちろん俳句を始める前以上の面白味は感じているし、「何か露出する言葉」であったり「作品を作品として独り立ちさせること」であったりをもう少ししてみたい。
書のネタ不足でもあるので、ちょうど良い。
いつまでそこまでの愛情を持続させられるか分からないけれど。
面白いことというのは往々にして面倒くさい。
しかし、面倒を取らないと物事に興じることは難しいのかもしれない。
本屋で「季寄せ」を買う。
ついでに見やすそうだった「書道三体字典」も買う。
次の三句が今回の句会のために作った句。
「月が煙草~」の句は全員の方に得点を入れてもらえてうれしかった。
月が煙草百本吹かせば夜の雨
のうみそがきいろくとけてきんもくせい
女子会は楽しさ盛る盛るサフランライス
句は何の解説もなしに載せていこうかなと思う。
秋茄子と空気人形は素っ頓狂


「というわけで、ブログを更新する際には一句載せてみようかなと思う。」
そしてその初めの一句。
「秋茄子と空気人形は素っ頓狂」
この句の意味が分かる人は限られている(笑)。
「素っ頓狂」からは「秋茄子」よりも「ボケ茄子」を連想しますけどね。
ほぼその場の即興になりそうですね。
俳句のせいでブログ更新が減ったりして(笑)
気軽に行きたいと思います。
茄子はそのものでなんだかまぬけ感があるなと思ったのと、送ってくださった空気人形の私が素っ頓狂でしたので。
ボケ茄子にするとかなり印象変わりますね。
ボケ茄子と空気人形は素っ頓狂