◆ 「適応指導」は時代遅れ (東京新聞【時代を読む】)
貴戸理恵(関西学院大准教授)
「自分が自分である」ことが許されず、「指導」の名のもとに無理やり髪を染めさせられる。それが公然と認められることに「いつの時代の話か」とげんなりした。
大阪府立高校の元生徒が校則によって茶色い地毛の黒染めを強要され、不登校になったと訴えた裁判である。
判決では、生徒が不登校になった後で学校名簿に名前を載せなかったなどの行為が違法とされたものの、頭髪を制限する校則や度重なる黒染め指導については「合理性」が認められた。
しかし、「ブラック校則をなくそう!」プロジェクトの調査によれば、十~五十代の二千人のうち生まれつき髪が「黒髪ストレート」ではない人は約40%、生まれつき茶髪で高校で「黒染め指導」を経験した人は約20%いた。
決して少数派とはいえない人たちが、子ども時代に「自分である」ことを否定され、周囲と同じであるよう頭髪を指導されているのだ。
学校という場では、一般社会では到底許されない人権侵害が見過ごされる。
一九八○年代の管理教育批判がそのまま当てはまるような、子どもを権利の主体ではなく、大人に従う従属的な存在とみなす発想が連綿とある。
それを象徴するものの一つが、「適応指導」という言葉である。
教育行政においてこの言葉は、外国人児童の日本社会への「適応指導」、不登校の児童生徒を学校復帰させる「適応指導教室(教育支援センター)」といった具合に今も使われている。
「適応指導」は、二重の意味で一方的である。
まず、適応は「普通」とされる環境になじむために「異質」とされた個人が意識や行動を変化させることを指す。
また、指導は「知っている」とされた側が「知らない」とされた側を教え、導くことをいう。
この言葉の歴史は古く、国会の議事録を検索すると、一九六〇年代から障害者や新卒者・年少労働者などへの「職場適応指導」という言い方がなされている。
その後、帰国子女や外国人の「生活適応指導」、高校中退や不登校などの問題を抱える生徒に対する学校への「適応指導」なども使われるようになった。
そこでは「学校」「職場」「日本社会」といった集団は、当たり前に存在する無条件に良いものであり、変わる必要のないことが前提にされている。
代わりに障害者、外国人、子どもといった存在は「自分である」ことを許されず、集団になじめるよう自らを変えなければならないとされるのだ。
だが、「普通」「成熟」とは、そもそも何か。
グローバル化と価値の多様化が進み、異なる存在との共生が鍵となる現代では、「適応指導」という言葉はあまりにもふさわしくない。
むしろ、新しい時代に「適応」できていないのは、「学校」「職場」「日本社会」の方ではないのだろうか。
個人を集団に同化させようとする「適応指導」的な発想は、そうした用語を公然と使う無自覚さも含めて、根底から見直した方がいい。
冒頭の黒染め強要校則に戻ろう。
「適応しない」「指導もされない」ことを貫き、裁判を闘った原告の姿勢は、個人ではなく、社会を変えようとするものだった。
これを受け止め、人権侵害的な校則やそれが維持される土台を変えていくのは、教育に関わる大人の責任である。
『東京新聞』(2021年2月28日【時代を読む】)
貴戸理恵(関西学院大准教授)
「自分が自分である」ことが許されず、「指導」の名のもとに無理やり髪を染めさせられる。それが公然と認められることに「いつの時代の話か」とげんなりした。
大阪府立高校の元生徒が校則によって茶色い地毛の黒染めを強要され、不登校になったと訴えた裁判である。
判決では、生徒が不登校になった後で学校名簿に名前を載せなかったなどの行為が違法とされたものの、頭髪を制限する校則や度重なる黒染め指導については「合理性」が認められた。
しかし、「ブラック校則をなくそう!」プロジェクトの調査によれば、十~五十代の二千人のうち生まれつき髪が「黒髪ストレート」ではない人は約40%、生まれつき茶髪で高校で「黒染め指導」を経験した人は約20%いた。
決して少数派とはいえない人たちが、子ども時代に「自分である」ことを否定され、周囲と同じであるよう頭髪を指導されているのだ。
学校という場では、一般社会では到底許されない人権侵害が見過ごされる。
一九八○年代の管理教育批判がそのまま当てはまるような、子どもを権利の主体ではなく、大人に従う従属的な存在とみなす発想が連綿とある。
それを象徴するものの一つが、「適応指導」という言葉である。
教育行政においてこの言葉は、外国人児童の日本社会への「適応指導」、不登校の児童生徒を学校復帰させる「適応指導教室(教育支援センター)」といった具合に今も使われている。
「適応指導」は、二重の意味で一方的である。
まず、適応は「普通」とされる環境になじむために「異質」とされた個人が意識や行動を変化させることを指す。
また、指導は「知っている」とされた側が「知らない」とされた側を教え、導くことをいう。
この言葉の歴史は古く、国会の議事録を検索すると、一九六〇年代から障害者や新卒者・年少労働者などへの「職場適応指導」という言い方がなされている。
その後、帰国子女や外国人の「生活適応指導」、高校中退や不登校などの問題を抱える生徒に対する学校への「適応指導」なども使われるようになった。
そこでは「学校」「職場」「日本社会」といった集団は、当たり前に存在する無条件に良いものであり、変わる必要のないことが前提にされている。
代わりに障害者、外国人、子どもといった存在は「自分である」ことを許されず、集団になじめるよう自らを変えなければならないとされるのだ。
だが、「普通」「成熟」とは、そもそも何か。
グローバル化と価値の多様化が進み、異なる存在との共生が鍵となる現代では、「適応指導」という言葉はあまりにもふさわしくない。
むしろ、新しい時代に「適応」できていないのは、「学校」「職場」「日本社会」の方ではないのだろうか。
個人を集団に同化させようとする「適応指導」的な発想は、そうした用語を公然と使う無自覚さも含めて、根底から見直した方がいい。
冒頭の黒染め強要校則に戻ろう。
「適応しない」「指導もされない」ことを貫き、裁判を闘った原告の姿勢は、個人ではなく、社会を変えようとするものだった。
これを受け止め、人権侵害的な校則やそれが維持される土台を変えていくのは、教育に関わる大人の責任である。
『東京新聞』(2021年2月28日【時代を読む】)
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