《『いまこそ』から》
◆ 東京「君が代」裁判五次訴訟原告の一人として
秋田 清
大崎(全)に在籍していた2004年と2006年に、卒業式での国歌斉唱時に起立しなかったとして処分を受けた。そして2013年の12月、取り消された減給処分に変わる再度の戒告処分を受け、今その取り消しを求めている。
二度目の不起立からでも実に16年以上、まさかこんなに長い闘いになるとは思いも寄らなかった。
僕は予防訴訟の原告にはなっていない。話が持ち上がったときには、正直あまりピンと来なかったし、そんな裁判なんか勝てるはずがないと思った。何より当時は都高教や現場の「力」を信じていた。あれほど短い間に変質させられてしまうことになろうとは予想していなかったのだ。
難波判決が出た時は、快哉を叫ぶと同時に自らの不明を恥じたものだった。
多くの人々の力の結集が、「減給以上の処分取り消し」という判決につながったのだと思う。
二度目の処分の翌年、校長から異動先を聞く前に、たまたまその学校にいた知人から電話がかかってきた。「ウチの校長が、『今度国語科に、二回も卒業式で不起立している、筋金入りの活動家が来ることになった、どうしよう』って大騒ぎしているけど、もしかして秋田さんのことじゃない?」。
僕は静かに座っていただけのつもりだが、すっかり「活動家」にされてしまったのである。
こうして戦々恐々(?)という感じで迎えられたこの学校で、結局僕は二回も起立してしまった。
当該学年の担任以外の時は式場に入らなかったが、担任の時は避けられなかった。
大崎高校には僕の思いを理解してくれる仲間も多くいて、都教委の事情聴取に休暇を取って同道してくれたりもした(もちろん同席は認められなかった)が、ここではそこまでの人間関係は築けなかったし、状況も様変わりしていた。
特に入学式では、新学年のスタートに当たり、周囲に迷惑をかけられないという気持ちもあった。
だが、この時起立してしまったことは、僕の心に苦い澱となっていつまでも残った。
2013年、翌年の新担任の話が来た時には、正直もう入学式で起立したくないと思った。だがその場合、また人事委員会審理からの長い闘いを覚悟しなければならない。
思い悩んでいるときに老母の介護問題が浮上し、「渡りに船」とばかりに早期退職を決めたのだ。もうこれからは日の丸も君が代も忘れて、第二の人生を謳歌しようと思った。
そんな時に「再処分」が決まった。処分を受けたことがある人はご存じだろうが、処分説明書には「この処分に不服のあるものは(中略)60日以内に、東京都人事委員会に対して審査請求をすることができる(後略)」という定型文が付いている。つまり黙っていると非を認めたことになるというわけだ。
それでも僕の場合、退職金が減額されることはないから、処分さえ受け入れればそれで終わる。しかしそれでは今までともに闘ってきた仲間を裏切ることにならないか。
悩んだ末、不服申し立てに加わることに決めた。
この時は正直運命を恨んだ。「減給以上の処分のみ取り消しなんて、中途半端な勝ち方をするからこんな目にあう。10・23の違憲違法が取れないなら、全面敗訴の方がいっそスッキリだった」と思った(弁護団の皆さん、支援してくださった皆さん、ゴメンナサイ、でもこれが当時の僕の偽らざる気持ちだったのである)。
この時不服申し立てをしたおかげで、今五次原告の一人として、裁判を闘っている。
このことの意義は、問題を風化させないことだけではない。僕以外の原告の多くは、既にかつての減給処分を上回る実損を被っているし、不当にも職を奪われてしまった仲間もいる。だからこの裁判には何としても勝たなくてはならないのだ。
ご支援のほどよろしくお願いします。
『いまこそ no.26』(2022年7月29日)
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