《【wedge 特集】日本の教育が危ない 子どもたちに「問い」を立てる力を①》
★ 詰め込み型暗記教育の転換期
国に求められる〝指導力〟
広田照幸(日本大学文理学部教授)
明治国家誕生以来続いてきた「詰め込み型暗記教育」の転換が叫ばれている。実現には、新たな教育技術が必要だが、教員には、学び直す余裕がない……。聞き手/構成・編集部(大城慶吾)
詰め込み型暗記教育から脱却しようとする動きは1990年代から今日に至るまで一貫した流れである。
私自身、小中学校時代の基礎学力の習得は学びの土台として必要不可欠であるという立場であるが、2007年の学校教育法改正で「思考力、判断力、表現力」を養うことが明示されたことは画期的なことであり、この方向性は決して間違っていないと思う。
それにしても、日本ではなぜ、これほどまでに詰め込み型暗記教育が行われてきたのか。端的に言えば、明治国家の誕生以来、西洋社会に追いついていくため、外から与えられた知識を短期間のうちに詰め込むことが必要だったからだ。
そして、多くの日本人は立身出世を夢見て切磋琢磨し、さまざまな試験を受験することになった。『記憶術のススメ近代日本と立身出世』(岩井洋著、青弓社)という本には、明治時代に人々の間で「記憶術」が大流行した様子が描かれており、現代にも通じる面が見られる。
日本型教育は戦前・戦後・高度成長期を経て、バブル崩壊に至るまで一定の役割を果たしてきた。
特に高度成長期には、学校が基礎的なことを、詰め込んで教育し、就職後は企業内教育で人を育てる仕組みが強まった。また、当時は、人並みの努力をしていれば、どこかに「着地」できる社会でもあった。
だが、バブル崩壊以降、大卒でも、正社員になることや安定した雇用があることも保障されない時代になった。
★ 「現場で工夫を」ではインパール作戦と同じ
流動的な時代だからこそ、一人ひとりが自分でものを考え、学び、行動し、新たなことを創り出す能力が必要になっている。そうした教育を行うためには、教員自身にもその能力が備わっていることが大前提である。
「覚えさせる」教育と「考えさせる」教育は、まったく別の教育技術が必要だからだ。
しかし、現状、教員にはそれらを学び直す「余裕」がまったくない。何よりも、仕事の絶対量が多すぎる。
私は、22年10~11月の公立小・中学校教員の在校等時間の内訳をもとに仕事の削減シミュレーションを行った。その結果、校務や会議、集団指導・学校行事等を半減しても、法定労働時間に収まらないことが明らかになった。
個性を重視する原則が導入されたり、学校週5日制が始まったときに思いきった教員の増員が必要だったが、中央の教育行政の怠慢でそうならなかった。
明治以来150年以上続けてきた教育観・学習観から転換して、新しい教育をやれというのに、教員がこんな状況では実現は困難だ。
まずは国が思いきって教員数を増やして、個々の教員の持ちコマ数を減らすことで、時間的余裕をつくり出すことが必要だ。それ抜きに、「現場で何とか工夫しろ」では、弾薬も食料もないのにインドまで攻めていけ、というインパール作戦のようなものではないか。
昭和までの教育から脱却した教育を実現するには、教員定数の大幅増が最も有効な処方箋だ。教員側にも発想の転換が必要だが、国には条件整備に向けた指導力を発揮してほしい。
※ 広田照幸 Teruyuki Hirota 日本大学文理学部教授
1959年生まれ。前・日本教育学会会長。著書に『陸軍将校の教育社会史』(ちくま学芸文庫、第19回サントリー学芸賞)、『教育改革のやめ方』(岩波書店)など。近著に『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』(ちくまプリマー新書)。専門は教育社会学。
『Wedge』(2023年11月号)
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