◆ “この国は「法の支配」している国ではない。” (被処分者の会通信から)
予想されていたこととは言え、判決文を読みながら怒りがこみあげてきた。
猛暑が目本列島を席巻しているさなかの7月19日の正午過ぎ、最高裁南門周辺には原告・支援者など60名近くが集まり、その日の午後の第一小法廷の開廷を待った。
参議院議員会館玄関から左手に見える花崗岩の不格好で巨大な要塞のような、異様な建築物、関わってみるまではそれが最高裁判所であるなどとはつゆ知らなかった、まるであのロンドン塔のような…、その建物に合法的に入るには幾重ものチェックを通過し、常に監視の目を背後に感じながら、緩い階段を昇り、天井のひどく高い、まるで古代ローマの巨大な建築物の内部にいるかのような錯覚を感じさせる場所に移動し、そこで30分以上待たされた後、当該の小法廷に入場した。
そこは、これまでの地裁、高裁での法廷の即物的かつ事務的な雰囲気とはまるで違う、正面のひな壇に5つの大きな空席の椅子ぶ並び、それに対してすべての聴衆が正対するというさながら劇場のような空間であり、その一席に座を占めた私は、あたかもコンサートの開演を待つかのような錯覚にさえおちいった…。
午後1時30分、山口裁判長裁判官が主文を読み上げた。
「原判決を破棄し……」、予想の範囲内とは言え、余りの紋切り型ゆえ、愕然とした。10年にも及ぼうというこの裁判、この苦労はいったい何だったのか…。
その後、参議院議員会館の会議室へ移動し、冷房の効いたその部屋でしばし休憩し、報告集会の始まるのを待っていると、担当から判決文の抜粋のコピーが配られた。
私は、藁をもつかむ思いでそれを読んだ。せめても何か使えるものだ、せめても何かリップサーピスが…、その気持ちは読み進めて行くうちに見事に打ち砕かれた。そして怒りがこみあげてきた。
「任命権者は成績に応じた平等な取扱いをすることが求められると解されるものの〈地方公務員法13条、15条〉[裁判長、お前はそう「解し」ないのか!]、…従前の勤務成績の評価については、基本的に任命権者の裁量に委ねられている・・・」(6頁4行)
このくだりには、私は怒りを禁じることができない。
権力者である任命権者は法を無視して何をしても良いのだ。権力者は法等を無視して、思うがままに裁量権を振るうことができる、とお墨付きを与えているようなものではないのか、この国では権力を持っている者なら何をやっても許される、そういうことではないのか。
「被上告人らに不利益に考慮し、これを他の個別事情のいかんにかかわらず特に重視すべき要素であると評価し、そのような評価に基づいて本件不合格等の判断をすることが…、著しく合理性を欠くものであったとは言えない。」(7頁8行)
何だ、これは。要するに「不起立」する者は特殊な人達で、その人達を差別しても良い、と言っているのだ。
この点に関しては、地裁、高裁とも「不起立」だけを特別扱いするなという「学習指導要領」の解釈を示している。少なくとも、その下級審の解釈に対する反論をする義務は最高裁にはある。
最高裁は法の独占的な解釈が許されるとでも言うのか、何のための三審制なのか。
下級審で出した結論に対しては、それを否定するなら論理的に示す責務があるはずだ。今回最高裁はまったくそれを放棄した。
これがこの国の司法の危機でなくて何であろう。第一小法廷の5人の裁判官は、全員が第二次安倍内閣の成立後に任命された者である。
山口裁判官は、日弁連からの推薦慣行を蹴って無理矢理横から首相によって特に任命された者であり、木澤裁判官は、加計学園の元監事だという。
司法にも行政権力の支配が及ぶようになってくると、事態はかなり深刻である。待ち受けているのはナチス裁判官の事例である。
都教委だけでなく、アベ首相の高笑いが聞こえてくるようだ、
『被処分者の会通信 118号』(2018年7月25日)
原告・青木茂雄
予想されていたこととは言え、判決文を読みながら怒りがこみあげてきた。
猛暑が目本列島を席巻しているさなかの7月19日の正午過ぎ、最高裁南門周辺には原告・支援者など60名近くが集まり、その日の午後の第一小法廷の開廷を待った。
参議院議員会館玄関から左手に見える花崗岩の不格好で巨大な要塞のような、異様な建築物、関わってみるまではそれが最高裁判所であるなどとはつゆ知らなかった、まるであのロンドン塔のような…、その建物に合法的に入るには幾重ものチェックを通過し、常に監視の目を背後に感じながら、緩い階段を昇り、天井のひどく高い、まるで古代ローマの巨大な建築物の内部にいるかのような錯覚を感じさせる場所に移動し、そこで30分以上待たされた後、当該の小法廷に入場した。
そこは、これまでの地裁、高裁での法廷の即物的かつ事務的な雰囲気とはまるで違う、正面のひな壇に5つの大きな空席の椅子ぶ並び、それに対してすべての聴衆が正対するというさながら劇場のような空間であり、その一席に座を占めた私は、あたかもコンサートの開演を待つかのような錯覚にさえおちいった…。
午後1時30分、山口裁判長裁判官が主文を読み上げた。
「原判決を破棄し……」、予想の範囲内とは言え、余りの紋切り型ゆえ、愕然とした。10年にも及ぼうというこの裁判、この苦労はいったい何だったのか…。
その後、参議院議員会館の会議室へ移動し、冷房の効いたその部屋でしばし休憩し、報告集会の始まるのを待っていると、担当から判決文の抜粋のコピーが配られた。
私は、藁をもつかむ思いでそれを読んだ。せめても何か使えるものだ、せめても何かリップサーピスが…、その気持ちは読み進めて行くうちに見事に打ち砕かれた。そして怒りがこみあげてきた。
「任命権者は成績に応じた平等な取扱いをすることが求められると解されるものの〈地方公務員法13条、15条〉[裁判長、お前はそう「解し」ないのか!]、…従前の勤務成績の評価については、基本的に任命権者の裁量に委ねられている・・・」(6頁4行)
このくだりには、私は怒りを禁じることができない。
権力者である任命権者は法を無視して何をしても良いのだ。権力者は法等を無視して、思うがままに裁量権を振るうことができる、とお墨付きを与えているようなものではないのか、この国では権力を持っている者なら何をやっても許される、そういうことではないのか。
「被上告人らに不利益に考慮し、これを他の個別事情のいかんにかかわらず特に重視すべき要素であると評価し、そのような評価に基づいて本件不合格等の判断をすることが…、著しく合理性を欠くものであったとは言えない。」(7頁8行)
何だ、これは。要するに「不起立」する者は特殊な人達で、その人達を差別しても良い、と言っているのだ。
この点に関しては、地裁、高裁とも「不起立」だけを特別扱いするなという「学習指導要領」の解釈を示している。少なくとも、その下級審の解釈に対する反論をする義務は最高裁にはある。
最高裁は法の独占的な解釈が許されるとでも言うのか、何のための三審制なのか。
下級審で出した結論に対しては、それを否定するなら論理的に示す責務があるはずだ。今回最高裁はまったくそれを放棄した。
これがこの国の司法の危機でなくて何であろう。第一小法廷の5人の裁判官は、全員が第二次安倍内閣の成立後に任命された者である。
山口裁判官は、日弁連からの推薦慣行を蹴って無理矢理横から首相によって特に任命された者であり、木澤裁判官は、加計学園の元監事だという。
司法にも行政権力の支配が及ぶようになってくると、事態はかなり深刻である。待ち受けているのはナチス裁判官の事例である。
都教委だけでなく、アベ首相の高笑いが聞こえてくるようだ、
『被処分者の会通信 118号』(2018年7月25日)
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