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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

石原慎太郎「天罰」発言 澤藤弁護士怒りの第27弾

2011年04月11日 | 暴走する都教委
 ▼ 「日の丸・君が代」強制にこだわる
弁護士 澤藤統一郎 (2011年4月9日)

 言葉には、その使われ方による歴史の手垢がついている。その手垢ゆえに嫌いな言葉は少なくない。「滅私奉公」は最たるもの。震災被害を天罰といった人物は、自身を表現する言葉としてマスコミの取材に「滅私奉公」を挙げている(7日付「毎日」)。嫌いな人物と嫌いな言葉、このマッチングに妙な納得感をおぼえる。
 「滅私奉公」は、強者が弱者に押しつけた徳目として薄汚く手垢にまみれている。古くは、奉公の「公」とは主君であり、藩であり、商家の旦那でもあった。要するに政治的・経済的支配への積極的な従順を美徳化したスローガンであった。
 明治期以後の「公」は疑いもなく「天皇」を意味した。「天皇が君臨する国家」でもあって、臣民訓育の道具として意識的に利用された。最悪の汚れた歴史。
 近代憲法は、個人の尊厳を確認するところから出発している。一人一人生身の個人が、完全に等しく尊い。その個人が、各人の権利の調和を図りつつ、最大限に権利を伸長する手段として便宜国家を作り運営する。国家そのものに価値はなく、「個人に奉仕する」限りでの存在意義である。「滅私奉公」とは、まったく相容れない。
 憲法の最大の関心事は、国民が作り与えた国家の権力が、国民個人の権利を侵害することのないように抑制することにある。憲法典とは、至高の人権を、必要悪としての国家から防御するためのシステムなのである。
 したがって、個人と国家のスタンスをどうとるかという問題は、憲法にとっての最重要事項である。国旗・国歌が国家の象徴である以上、国旗・国歌とどう向き合うかについては、国家の関与や強制が介入する余地はない。国民の信託によって成立した国家が、国民に国旗国歌を押しつけるなどは背理なのだ。
 ましてや、「日の丸・君が代」である。侵略戦争や排外主義、差別、思想弾圧等々の負の遺産と深く結びついているこの旗と歌を、教育の場において職務命令で強制し、不起立者を懲戒するなどはもってのほかというべきである。
 人権に配慮のない「天罰」発言、国家主義にもとづく「日の丸・君が代」強制、そして「滅私奉公」の旧時代のイデオロギーは、不気味な糸でつながっている。
『NPJ 石原慎太郎「震災は天罰」発言』
http://www.news-pj.net/npj/sawafuji/index.html

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