◆ 東京「君が代」裁判4次訴訟最高裁決定を受けて (リベルテ55号から)
1 2019年3月28日付けで、最高裁判所第一小法廷(池上政幸裁判長)は、東京「君が代」裁判4次訴訟について、一審原告側の上告棄却、上告申立不受理決定、一審被告側の上告受理申立てに対する不受理決定を出しました。
この決定によって、2014年3月17目の提訴以来、5年にわたった裁判は、戒告処分の取消しを得るには至らず、減給以上の処分7名8件の懲戒処分の取消しを得て終了することになりました。
今回、都教委側の上告受理申立に対する不受理決定がされたことにより、一審原告田中聡史さん4回目・5回目の不起立に対する減給処分を取り消した地裁判決が確定することになります。
地裁判決それを是認した高裁判決ともに、不起立の回数が減給処分の相当性を基礎づける具体的な事情には当たらないとの判断を示したもので、回数のみを理由とした処分の加重を否定しており、減給以上の処分による国歌の起立斉唱の強制を続けてきた都教委の暴走に一定の歯止めをかける司法判断であると思います。
2 一方で地裁判決も高裁判決も、争点に対する判断内容は2016年1月16日最高裁判決の多数意見の判断に沿ったものにとどまり、最高裁の結論に漫然と従った結論ありきの判断であったと思います。
高裁判決に対して、一審原告は、真正面から10・23通達発出の必要性を支える立法事実がないことを明らかにし、思想良心の自由と緊張関係に立つ職務命令の違憲性を主張して上告してきました。
特に、一連の最高裁判決では、根拠が示されることなく卒業式等における国歌の起立斉唱行為についで「一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的所作としての性質を有する」としていることを強く批判し、一連の最高裁判決が、憲法19条及び20条2項の解釈を誤ったものであることを明らかにしてきました。
さらに、これまでに判断が示されていない10・、23通達、職務命令、懲戒処分が教師の教育の自由を侵害するものであること、また、教育基本法16条が禁じる「不当な支配」に該当するものであることを主張して上告してきました。
教育が「教師と生徒との人格的接触が不可欠の人間的な営み」であるならば、そこに、人間性を無視した義務付けをもちこむ、上意下達の支配を持ち込むことが許されるのか、少なくとも、子どもと一番身近に接している教職員に対し、あたかもロボットのように一挙手一投足まで指示命令すること、これが教育の本質とはかけ離れたことであって、具体的命令として発令できる内容には限界があることを明らかにもしてきました。
しかしながら、今回の上告棄却決定は、最高裁はこれらの争点について何らめ判断を示すものではありませんでした。
このような最高裁の態度は、憲法の番人たる責務を自ら放棄したもので強い非難に値するものです。
3 今回の判決は、回数による処分の加重を否定した点は一歩前進したと評価できるものではあります。しかし、一方で、戒告処分の取消を否定したこれまでの一連の最高裁判決が示した結論を固定化するものとなってしまったと言わざるを得ません。
何か妙案があるわけでも、ウルトラCがあるわけではありません。今後も、粘り強く、一連の最高裁判決の論理が誤っていることを論じて、起立斉唱の強制が教育の本質からかけ離れたものであって、どうしても起立できない人に対して戒告処分という不利益を科すこと自体が許されないことを訴え、最高裁判決の変更を求め続けていくことが必要であると考えています。
『東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース(リベルテ) 55号』(2019年4月27日)
東京「君が代」裁判4次訴訟弁護団 弁護士 平松真二郎
1 2019年3月28日付けで、最高裁判所第一小法廷(池上政幸裁判長)は、東京「君が代」裁判4次訴訟について、一審原告側の上告棄却、上告申立不受理決定、一審被告側の上告受理申立てに対する不受理決定を出しました。
この決定によって、2014年3月17目の提訴以来、5年にわたった裁判は、戒告処分の取消しを得るには至らず、減給以上の処分7名8件の懲戒処分の取消しを得て終了することになりました。
今回、都教委側の上告受理申立に対する不受理決定がされたことにより、一審原告田中聡史さん4回目・5回目の不起立に対する減給処分を取り消した地裁判決が確定することになります。
地裁判決それを是認した高裁判決ともに、不起立の回数が減給処分の相当性を基礎づける具体的な事情には当たらないとの判断を示したもので、回数のみを理由とした処分の加重を否定しており、減給以上の処分による国歌の起立斉唱の強制を続けてきた都教委の暴走に一定の歯止めをかける司法判断であると思います。
2 一方で地裁判決も高裁判決も、争点に対する判断内容は2016年1月16日最高裁判決の多数意見の判断に沿ったものにとどまり、最高裁の結論に漫然と従った結論ありきの判断であったと思います。
高裁判決に対して、一審原告は、真正面から10・23通達発出の必要性を支える立法事実がないことを明らかにし、思想良心の自由と緊張関係に立つ職務命令の違憲性を主張して上告してきました。
特に、一連の最高裁判決では、根拠が示されることなく卒業式等における国歌の起立斉唱行為についで「一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的所作としての性質を有する」としていることを強く批判し、一連の最高裁判決が、憲法19条及び20条2項の解釈を誤ったものであることを明らかにしてきました。
さらに、これまでに判断が示されていない10・、23通達、職務命令、懲戒処分が教師の教育の自由を侵害するものであること、また、教育基本法16条が禁じる「不当な支配」に該当するものであることを主張して上告してきました。
教育が「教師と生徒との人格的接触が不可欠の人間的な営み」であるならば、そこに、人間性を無視した義務付けをもちこむ、上意下達の支配を持ち込むことが許されるのか、少なくとも、子どもと一番身近に接している教職員に対し、あたかもロボットのように一挙手一投足まで指示命令すること、これが教育の本質とはかけ離れたことであって、具体的命令として発令できる内容には限界があることを明らかにもしてきました。
しかしながら、今回の上告棄却決定は、最高裁はこれらの争点について何らめ判断を示すものではありませんでした。
このような最高裁の態度は、憲法の番人たる責務を自ら放棄したもので強い非難に値するものです。
3 今回の判決は、回数による処分の加重を否定した点は一歩前進したと評価できるものではあります。しかし、一方で、戒告処分の取消を否定したこれまでの一連の最高裁判決が示した結論を固定化するものとなってしまったと言わざるを得ません。
何か妙案があるわけでも、ウルトラCがあるわけではありません。今後も、粘り強く、一連の最高裁判決の論理が誤っていることを論じて、起立斉唱の強制が教育の本質からかけ離れたものであって、どうしても起立できない人に対して戒告処分という不利益を科すこと自体が許されないことを訴え、最高裁判決の変更を求め続けていくことが必要であると考えています。
『東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース(リベルテ) 55号』(2019年4月27日)
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