☆ <資料紹介>辺野古埋め立て土には朝鮮半島、米国の兵の遺骨も混入!
皆さま 髙嶋伸欣です
添付資料は、本日(11日)の『東京新聞』夕刊の「社会時評」です。「今の日本の裁判所には法律はあっても正義はない」と指摘したのも、『東京新聞』夕刊の文化欄でした。
最高裁が日米安保体制という”戦後日本の国体”護持から抜け出せない今、その枠の内外から揺さぶりの動きを創り出す要素がここにあると、この「時評」は提起しています。
辺野古埋め立てのために政府が採取を予定している本島南部の土砂には、沖縄県民の遺骨だけでなく、全国から派遣されていた日本兵の遺骨さらには朝鮮半島出身の兵士・軍属の遺骨が含まれていることは、明らかです。
*「本土」出身兵士の都道府県別犠牲者数の概況は「平和の礎」刻銘者数の都道府県別人数表から推定できます
今、関東大震災時の朝鮮人虐殺問題への関心の高まりによって、その背景としての植民地支配による人権侵害と今に続く差別についての視野拡大をもたらしているように思えます。
そうした視野の中にこの件を含めた議論と行動を「本土」社会はするべきだ、と提起しているようにこの記事は読めます。
さらに、「時評」では米兵の遺骨が含まれていることを、日本政府が国会で認めたことを指摘しています。米国政府は、朝鮮戦争で行方不明兵士の遺骨の捜索と発見後の引き取りについては、米朝間の軍事的・政治的緊張関係下においても全く別枠の事案として北朝鮮に接触し、所要経費の負担等についても融通をきかせて遺骨の返還を最優先とする取り組みを今も続けています。
それほど米兵の遺骨について尊重の姿勢を堅持している米国政府や米国社会は、この辺野古埋め立てで米兵の遺骨が踏みにじられることになるのを、「我関せず」というこれまでの姿勢で維持するか、疑問です。
本日は9月11日。米国での同時多発テロにより世界貿易センタービルなどで犠牲になった人々の遺骨が含まれている土砂を人々が踏み歩く場所の埋め立てに”活用”するなどという発想がもしあったら、人びとは許さないだろうと想像されます。
米国の9月11日はこれからです。
この「時評」の指摘を、米国の人々にも是非かみしめてもらい、日米安保体制に従属一本やりの日本で、米兵の尊厳が汚されようとしている事実に目を向け、声を挙げる状況を、生み出すときは今、と思えます。
以上 意味の深い「社会時評」記事の紹介です。ご参考までに。転送・拡散は自由です
*別途、傍線などのない記事紙面を教材用などに必要な場合は、髙嶋宛に個人メールでご請求下さい。添付で送信いたします。
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【『東京新聞』社会時評】
☆ 問われる沖縄への無関心
安田菜津紀(やすだ・なつき=フォトジャーナリスト)
☆ 「不条理」押しつけているのは
「不条理のそばを黙って通り過ぎるわけにはいかない」-沖縄で長年、戦没者の遺骨収集を続けできた具志堅隆松さんがよく口にする言葉だ。
こと沖縄は、歴史を振り返ってみても、現代社会においても、度重なる「不条理」を背負わされてきた地だ。それを押しつけているのは、ほかならぬ「国」側だ。そして名護市辺野古の新基地建設を巡り、県はいよいよ、厳しい立場に追いやられている。
国側は大浦湾の軟弱地盤に対応するため、設計変更が必要だと主張している。その変更申請を、県は不承認として、基地建設そのものに歯止めをかけようと試みてきた。その後、国土交通相が爆の不承認を取り消した裁決や、承認するよう県に求めた「是正の指示」の違法性について、県が起こした二つの訴訟はいずれも県側の敗訴となった。
そもそもこの軟弱地盤のために、基地建設に長期間かかることは国も認めているところであり、設計変更の承認を得た場合、埋め立て工事を終え、基地として提供されるまでの期間を約12年としている。
他方、多額の税金を投入したとしても、「マヨネーズ並み」とさえいわれる軟弱地盤の上に、基地が完成するかどうかということ自体、疑問視もされている。住民投票や選挙を通し、この基地建設には何度も、「NO」という民意が示されてきた。そうした民意よりも、国側が結論ありきで、上から「分からせよう」という姿勢で臨んできたこと自体が大いに問題だろう。
仮に設計変更が進められた場合、沖縄戦で多くの方が犠牲になった本島南部の土砂も投入される見通しだ。私も度々、遺骨収集の現場を訪れているが、ガマの中で、壕の中で、あるいはその外からも、新たに遺骨は見つかっている。
「戦没者の血が染み込んだ土砂を、新たな基地を造ることに使うこと自体、戦死者への冒涜(ぽうとく)だと思うんです」と、貝志堅さんは憤る。
そもそも、過剰な基地負担を沖縄に強いてきた構造自体に問題があるが、遺骨の問題ひとつをとっても、これは沖縄県だけの問題ではない。
激しい地上戦により、推計で約9万4千人の住民を犠牲にしたごとの不条理がまず問われるべきだが、派兵された日本軍の遣族は全国にいる。
当時、植民地支配下だった朝鮮半島出身者も犠牲となった。
かつ、2021年6月3日の参院外交防衛委員会で、政府側は「沖縄戦のことを踏まえれば、(米兵の遺骨が残っている)可能性は否定できない」という見解を示している。
今年8月15日の全国戦没者追悼式で岸田文雄首相は、「国の責務としてこ遺骨の収集を集中的に実施」すると明言していた。
ところが8月下旬の沖縄訪問では、首里城の視察やバスケットボールW杯の観戦はしたものの、知事との会談もなければ、基地の視察も行わなかった。
既視感がある。東京電力福島第1原発の「ALPS処理水」を海洋放出する際にも、岸田首相は原発の視察はもたものの、福島の漁業者ら最もあおりを受けることになる人々に会おうとはしなかった。
あんなにも自慢げに掲げていた「聞く力」はどこにいったのか。それとも、「聞く相手」を恣意(しい)的に選別することをいとわないのだろうか。
「この問題を知ってほしい」と、具志堅さんは沖縄県庁前などで度々ハンガーストライキを行ってきた。
訪ねてきた遺族の中には、家族で海に逃げるとき、泳げなかった父と別れ、そのまま離れ離れになってしまったことを話してくれた人もいた。
「(本島南部には)父の遺骨が眠っているかもしれない。泳げなかった父親を、辺野古の海に沈めるのはやめてほしい」と泣きながら具志堅さんに語っていたという。
いまだにトラウマ(心的外傷)を抱え、南部に足を踏み入れることもできないという声さえある。
沖縄に不条理を押しつけてきたのは「国」だが、こうした国の姿勢は、社会の無関心に下支えされてきたのではないか。
今、改めて沖縄に突きつけられた何重もの非人道的な状況を、社会としてただ見過すだけでいいのかということ自体が問われている。
『東京新聞』(2023年9月11日【社会時評】)
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