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【僕、国歌歌わないもん】(石原慎太郎)
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東京五輪に 【国旗も国歌も必要ない】(ビートたけし)
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対米従属で「世界征服」を夢想するデマゴギー政治家安倍首相を倒そう!
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▲ 大阪の中学校教員Mさんの闘いの続報です。一部(中略)とさせてもらいました。
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「君が代」起立・斉唱職務命令取り消しの申出(2月22日付)に対する回答の報告
大阪市立学校教諭 M
昨日(2月26日)、学校長より、私の「君が代」起立・斉唱職務命令取り消し申出に対する口頭回答がありました。
昨年同様、「取り消さない」「条例並びに教育長通知に基づいた職務命令なので問題ないと考えています」というものです。
この口頭回答は、大阪市教委事務局と相談のうえでの回答だということでした。
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東京では、先日(2月22日)、卒業式ビラまきに向けて諸団体の交流会を開きました。
今、準備が進んでいます。
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この間何回か、私が戸坂潤の論文などを紹介していたら、先日、千葉の高校教員のKさんから、自分はもう読んだからとして以下の二冊の本が送られてきました。
①『ある戦時下の抵抗 哲学者・戸坂潤と「唯研」の仲間たち』
(著者:岩倉博、花伝社、2015年8月20日初版第一刷)
②『獄中メモは問う 作文教育が罪にされた時代』
(著者:佐竹直子、道新選書、2014年12月6日第一刷・2015年9月10日第四刷)
①を読んでお礼の返事を書いたら、次のような返事が返ってきました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
読んでいただけて、よかったです。
渡部さんが戸坂潤全集から引用した文章が、まるで今書かれているように思えて、彼の生きた時代を知りたくてわたしも読みました。とても今の雰囲気と似ています。
当時の言論弾圧と、現在のメディアへの圧迫、それを受けてのメディアの動きもそっくりです。
今のほうが「闘って」いないように思います。
(中略)
北海道新聞社の「獄中メモ」も北海道綴り方事件の生々しい様子を伝えています。
戦中の弾圧とその後の人生、当時の特高の「転向」など、わたしは歴史の教員ではないので、こういう「記録」もフィールドワークだと思って読んでいます。
(後略)
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②はこれから読もうと思っています。
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メール(61)(2月16日)で、戸坂潤の『道徳の観念』(1936年、『戸坂潤全集』四巻に掲載)という論文を紹介しました。
現在、道徳の「教科化」と言う問題が出ていますので、その論文の<第一章 道徳に関する通俗常識的観念>から、それに関するような部分を紹介します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
常識はまず第一に、道徳というものを社会構造の領域ないし文化領域の一つだと仮定している。
・・・・(中略)・・・・
――教育学者や教育家は、教育というものを何か自分たちの専門の領域だと仮定したうえで、この専門領域の内に世の中の一切のものを抛り込んでしまおうとする。
徳育や修身の専門家(?)が養成されるのも、日本のこの教育専門家の領域からであるが、そうした道徳の専門家の考えは、道徳が生活の特別な一領域でありしたがってまた生活の全領域を含む領域だという<注:文科省の言うあらゆる教科で道徳を、である>、道徳領域説の常識が、漫画になったものだ。
・・・・(中略)・・・・
常識による道徳の考え方の第二の特色は、道徳を善価値だと考えて片づけることだ。
・・・(中略)・・・・
この第二の常識的惰性に直接関係あるものは、いわば徳目道徳主義である。
道徳を善悪問題と決めてしまい、やがて道徳は善だと決め、それから道徳は人間の善性だと決めるから、ではその善性とは何々かと言うことになって、知仁勇とか、仁義礼知信とか、忠孝とか、忠君愛国とか、三従の婦徳とか、という徳目(Virtues)が念入りにかぞえ上げられる。<注:文科省の言う21のキーワードなどである>
で今やこの徳目を覚えることが、これを学習したり暗記したりすることが、そしてこの徳目の活用宜しきを得ることが、道徳となる。
こういう常識による道徳は修身なのだ。
これは徳目の運算なのだから教科書も可能だし試験も可能だ。
道徳的なカテキズム(教義問答書)や倫理カズイスティクが、スコラ論理学のような意味で可能になる。
――で人間の人間的性能は諸徳目の化合物かコロイドか混合物と見立てられる。
だが修身の特色は、この徳目を永久不変な人間性の元素と見立てることだ。
これは道徳内容の(形式だけのではない)固定化を意味する。
この徳目を社会にまで及ぼしたものが、国民道徳や公民道徳なのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今から80年も前に、戸坂潤は「常識的な道徳」を鋭く分析・批判していたことがわかります。
そして、<注>に示したように、同じことが80年後の現在でも起きています。
このことは、いかに戸坂潤が普遍的な世界観・哲学でもって物事をとらえていたかを示しているのではないでしょうか。
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「都教委包囲首都圏ネットワーク」のブログのアドレス
http://houinet.blogspot.jp/
「千葉高教組『日の丸・君が代』対策委員会」のホームページ
http://homepage3.nifty.com/hinokimi/
「ひのきみ全国ネット」のウェブサイト
http://hinokimi.web.fc2.com/
【僕、国歌歌わないもん】(石原慎太郎)
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東京五輪に 【国旗も国歌も必要ない】(ビートたけし)
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対米従属で「世界征服」を夢想するデマゴギー政治家安倍首相を倒そう!
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▲ 大阪の中学校教員Mさんの闘いの続報です。一部(中略)とさせてもらいました。
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「君が代」起立・斉唱職務命令取り消しの申出(2月22日付)に対する回答の報告
大阪市立学校教諭 M
昨日(2月26日)、学校長より、私の「君が代」起立・斉唱職務命令取り消し申出に対する口頭回答がありました。
昨年同様、「取り消さない」「条例並びに教育長通知に基づいた職務命令なので問題ないと考えています」というものです。
この口頭回答は、大阪市教委事務局と相談のうえでの回答だということでした。
(中略)
「教職員に対する保身の奨励、教育の荒廃、子どもの権利侵害」につながっても「君が代」起立・斉唱職務命令を出すのだという教育委員会の姿勢が果たして許されるのかどうか、広く保護者・市民・教職員に問うていきたいと思います。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
東京では、先日(2月22日)、卒業式ビラまきに向けて諸団体の交流会を開きました。
今、準備が進んでいます。
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この間何回か、私が戸坂潤の論文などを紹介していたら、先日、千葉の高校教員のKさんから、自分はもう読んだからとして以下の二冊の本が送られてきました。
①『ある戦時下の抵抗 哲学者・戸坂潤と「唯研」の仲間たち』
(著者:岩倉博、花伝社、2015年8月20日初版第一刷)
②『獄中メモは問う 作文教育が罪にされた時代』
(著者:佐竹直子、道新選書、2014年12月6日第一刷・2015年9月10日第四刷)
①を読んでお礼の返事を書いたら、次のような返事が返ってきました。
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読んでいただけて、よかったです。
渡部さんが戸坂潤全集から引用した文章が、まるで今書かれているように思えて、彼の生きた時代を知りたくてわたしも読みました。とても今の雰囲気と似ています。
当時の言論弾圧と、現在のメディアへの圧迫、それを受けてのメディアの動きもそっくりです。
今のほうが「闘って」いないように思います。
(中略)
北海道新聞社の「獄中メモ」も北海道綴り方事件の生々しい様子を伝えています。
戦中の弾圧とその後の人生、当時の特高の「転向」など、わたしは歴史の教員ではないので、こういう「記録」もフィールドワークだと思って読んでいます。
(後略)
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②はこれから読もうと思っています。
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メール(61)(2月16日)で、戸坂潤の『道徳の観念』(1936年、『戸坂潤全集』四巻に掲載)という論文を紹介しました。
現在、道徳の「教科化」と言う問題が出ていますので、その論文の<第一章 道徳に関する通俗常識的観念>から、それに関するような部分を紹介します。
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常識はまず第一に、道徳というものを社会構造の領域ないし文化領域の一つだと仮定している。
・・・・(中略)・・・・
――教育学者や教育家は、教育というものを何か自分たちの専門の領域だと仮定したうえで、この専門領域の内に世の中の一切のものを抛り込んでしまおうとする。
徳育や修身の専門家(?)が養成されるのも、日本のこの教育専門家の領域からであるが、そうした道徳の専門家の考えは、道徳が生活の特別な一領域でありしたがってまた生活の全領域を含む領域だという<注:文科省の言うあらゆる教科で道徳を、である>、道徳領域説の常識が、漫画になったものだ。
・・・・(中略)・・・・
常識による道徳の考え方の第二の特色は、道徳を善価値だと考えて片づけることだ。
・・・(中略)・・・・
この第二の常識的惰性に直接関係あるものは、いわば徳目道徳主義である。
道徳を善悪問題と決めてしまい、やがて道徳は善だと決め、それから道徳は人間の善性だと決めるから、ではその善性とは何々かと言うことになって、知仁勇とか、仁義礼知信とか、忠孝とか、忠君愛国とか、三従の婦徳とか、という徳目(Virtues)が念入りにかぞえ上げられる。<注:文科省の言う21のキーワードなどである>
で今やこの徳目を覚えることが、これを学習したり暗記したりすることが、そしてこの徳目の活用宜しきを得ることが、道徳となる。
こういう常識による道徳は修身なのだ。
これは徳目の運算なのだから教科書も可能だし試験も可能だ。
道徳的なカテキズム(教義問答書)や倫理カズイスティクが、スコラ論理学のような意味で可能になる。
――で人間の人間的性能は諸徳目の化合物かコロイドか混合物と見立てられる。
だが修身の特色は、この徳目を永久不変な人間性の元素と見立てることだ。
これは道徳内容の(形式だけのではない)固定化を意味する。
この徳目を社会にまで及ぼしたものが、国民道徳や公民道徳なのである。
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今から80年も前に、戸坂潤は「常識的な道徳」を鋭く分析・批判していたことがわかります。
そして、<注>に示したように、同じことが80年後の現在でも起きています。
このことは、いかに戸坂潤が普遍的な世界観・哲学でもって物事をとらえていたかを示しているのではないでしょうか。
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「千葉高教組『日の丸・君が代』対策委員会」のホームページ
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