《再雇用拒否撤回2次訴訟第11回口頭弁論(2012/2/16)陳述》<2>
◎ 第2章 憲法19条論
1 原告代理人の河村からは、憲法19条(思想良心の自由)に関し、被告の主張に対する反論部分を説明します。当方書面の9頁以降です。
2 まず、10.23通達及びそれに基づく一連の仕組みは、思想良心の自由を制限するものであったことについて、事実経過をまとめてあります。
①都教委が、卒業式等の前に内心の自由の説明が行われていることを問題視していたこと、
②日の丸について三脚方式ではダメで壇上正面に掲げなければならないと繰り返し指導していたこと、
③都教委の近藤指導部長が「まずは形から入り、形に心を入れればよい」などと発言していたこと、
④都教委は各学校の校長らに対して綿密かつ極めて具体的な「指導」を行い、不起立者に関する処分など事後の方針を末端まで徹底していたこと、
などを示しています。
3 16頁からは、かかる事実を踏まえて被告の主張に反論しています。
被告は、憲法19条の保障範囲について、いわゆる信条説に立った上で、「外部的行為を制約することによって、人格の核心を形成する世界観、人生観を持つこと自体を禁止することはないから、思想・良心の自由を制約するものではない」などと言います。
しかし憲法19条は、①特定思想の強制禁止、②思想推知の禁止、③不利益取扱の禁止という3つの内容を有しており、それは公権力と特定思想とを分離するという客観的な原則として機能しています。
従って、内心の自由の侵害が問題となっている場面で議論される被告の外部的行為論は、かかる客観的な原則とは無関係であり、被告の議論は完全に的外れです(当方書面16頁以下)。
また、本件では単に10.23通達のみが問題となっているのではなく、一連の仕組みが問題であると指摘しており、このような「一連の仕組み」全体を見れば、日の丸に向かって起立し君が代を斉唱するという行為が思想良心の核心にかかわる行為であることは明らかです(当方書面17頁以下)。
4 20頁からは、思想良心の自由であっても一定の制約が可能だとする被告の主張に対する反論です。
例えば、被告は地方公務員法30条を根拠に思想良心の制約であったとしても許されるなどと主張していますが、憲法よりも下位の法規範である地方公務員法を根拠に憲法上の人権が制約できるという、まったく逆立ちした議論なのです。
5 24頁からは、10.23通達に対する一連の最高裁判決に対する批判です。
昨年、最高裁は立て続けに10.23通達に関する判断を示し、多数意見はいずれも10.23通達は憲法19条に違反しないとの判断を示しています。
しかし、最高裁の判断は誤っていますし、本件に適用されるべきでもありません。
(1)最高裁の論理は3段階です。
まず、①一般的・客観的に見れば、起立して国歌斉唱することは、教職員の歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつくものではないとして、起立斉唱を憲法19条の直接の保護から切り離します。
次いで、②そうはいっても、起立斉唱は敬意の表明という要素があるので思想良心にとって間接的な制約にはなる、と言います。
最後に、③思想良心の間接制約に過ぎないのだから、違憲審査基準は必要性合理性の基準という緩やかな基準を用い、10.23通達は合憲という結論を導きます。
(2)しかし、「一般的・客観的」に憲法19条による保護を受けるか否かが判断できるという最高裁の立場は原理的に誤っています。
憲法は個人の尊厳(憲法13条)を頂点とする人権保障の体系であり、思想良心の多様性そのものを保護するという人権保障の考え方からすれば、一般的には合憲合法であるとされる公権力の行使が、特定の個人の思想良心との関係では違憲違法とされることを、憲法は当然に予定しています。
フライドチキンを食べることは、「一般的」に見れば、歴史観・世界観と不可分に結びつく行為とは考えられないでしょうが、菜食主義者に取ってみれば、フライドチキンを食べることはその者の歴史観・世界観と不可分に結びつく行為なのです。
このことは、剣道の授業を拒否した学生を公立高校が退学処分にすることは違法であると判断した最高裁判例によっても明らかです。
このように、公権力の行使が人権を侵害するかどうかは、人権の享有主体である行為者の側からスポットライトを当てて判断しなければなりません。それなのに、「一般的」な判断が可能と考えることは、結局は単なる多数決による結論の押し付けでしかなく、憲法解釈の方法として根本的に誤っています。
「一般的」に判断するという最高裁の立場の誤りは明白ですし、「一般的」判断でしかないものをあたかも「客観的」判断であると断言することも誤りであることは明らかです。
(3)事実経過で詳論したとおり、不起立不斉唱が思想良心の問題そのものであることは、被告も当然分かっています。都教委は、一連の仕組みにおいて、何度も「内心の自由」に関する説明を行うことが「不適切」だと繰り返しています。
起立斉唱をする/しない、という事柄が内心の自由の問題であり、思想良心の問題であることは客観的に明らかであるからこそ、神経質なまでに内心の自由に関する説明を禁じたのです。
(4)最高裁は、儀礼的所作だから思想良心の問題とは結びつかないといいますが、何故、儀礼的所作だから思想良心の問題と結びつかないかの説明は一切なされていません。
最高裁は、愛媛玉串料訴訟における判決において、玉串料の奉納に儀礼的な意味合いがあることを認めつつも政教分離原則に反し違憲であると判断しています。儀礼的所作であろうがなかろうが、違憲の行為は違憲なのです。
(5)間接制約の事例だから緩やかな違憲審査基準でよいとする立場に対しては、強く批判をしなければなりません。
仮に間接制約の事案だとしても、精神的自由権を制約する以上は厳格な違憲審査基準を採用しなければならないはずです。憲法学説の大半、日弁連等の法律家団体のほぼ全てが最高裁判決を支持しないのは、かかる最高裁の態度が人権保障の最後の砦としての最高裁の役割を完全に見失っているからです。
(6)最高裁判決は、以上のとおり誤っていることは明らかですが、それに加えて、本件では単に10.23通達のみを取り上げて憲法19条に反するという主張をしている訳ではないことに留意を願いたいと思います。
事実経過の部分に詳細に記載したとおり、本件の原告らは、いわゆる「一連の仕組み」そのものが憲法19条に違反すると主張しているのであって、10.23通達のみについての判断である最高裁判決の結論は、本件には当てはまらないのです。
(7)以上から、最高裁の判断は誤っており、本件において「一連の仕組み」が憲法19条に反し違憲であることは明らかです。
◎ 第2章 憲法19条論
代理人弁護士 河村健夫
1 原告代理人の河村からは、憲法19条(思想良心の自由)に関し、被告の主張に対する反論部分を説明します。当方書面の9頁以降です。
2 まず、10.23通達及びそれに基づく一連の仕組みは、思想良心の自由を制限するものであったことについて、事実経過をまとめてあります。
①都教委が、卒業式等の前に内心の自由の説明が行われていることを問題視していたこと、
②日の丸について三脚方式ではダメで壇上正面に掲げなければならないと繰り返し指導していたこと、
③都教委の近藤指導部長が「まずは形から入り、形に心を入れればよい」などと発言していたこと、
④都教委は各学校の校長らに対して綿密かつ極めて具体的な「指導」を行い、不起立者に関する処分など事後の方針を末端まで徹底していたこと、
などを示しています。
3 16頁からは、かかる事実を踏まえて被告の主張に反論しています。
被告は、憲法19条の保障範囲について、いわゆる信条説に立った上で、「外部的行為を制約することによって、人格の核心を形成する世界観、人生観を持つこと自体を禁止することはないから、思想・良心の自由を制約するものではない」などと言います。
しかし憲法19条は、①特定思想の強制禁止、②思想推知の禁止、③不利益取扱の禁止という3つの内容を有しており、それは公権力と特定思想とを分離するという客観的な原則として機能しています。
従って、内心の自由の侵害が問題となっている場面で議論される被告の外部的行為論は、かかる客観的な原則とは無関係であり、被告の議論は完全に的外れです(当方書面16頁以下)。
また、本件では単に10.23通達のみが問題となっているのではなく、一連の仕組みが問題であると指摘しており、このような「一連の仕組み」全体を見れば、日の丸に向かって起立し君が代を斉唱するという行為が思想良心の核心にかかわる行為であることは明らかです(当方書面17頁以下)。
4 20頁からは、思想良心の自由であっても一定の制約が可能だとする被告の主張に対する反論です。
例えば、被告は地方公務員法30条を根拠に思想良心の制約であったとしても許されるなどと主張していますが、憲法よりも下位の法規範である地方公務員法を根拠に憲法上の人権が制約できるという、まったく逆立ちした議論なのです。
5 24頁からは、10.23通達に対する一連の最高裁判決に対する批判です。
昨年、最高裁は立て続けに10.23通達に関する判断を示し、多数意見はいずれも10.23通達は憲法19条に違反しないとの判断を示しています。
しかし、最高裁の判断は誤っていますし、本件に適用されるべきでもありません。
(1)最高裁の論理は3段階です。
まず、①一般的・客観的に見れば、起立して国歌斉唱することは、教職員の歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつくものではないとして、起立斉唱を憲法19条の直接の保護から切り離します。
次いで、②そうはいっても、起立斉唱は敬意の表明という要素があるので思想良心にとって間接的な制約にはなる、と言います。
最後に、③思想良心の間接制約に過ぎないのだから、違憲審査基準は必要性合理性の基準という緩やかな基準を用い、10.23通達は合憲という結論を導きます。
(2)しかし、「一般的・客観的」に憲法19条による保護を受けるか否かが判断できるという最高裁の立場は原理的に誤っています。
憲法は個人の尊厳(憲法13条)を頂点とする人権保障の体系であり、思想良心の多様性そのものを保護するという人権保障の考え方からすれば、一般的には合憲合法であるとされる公権力の行使が、特定の個人の思想良心との関係では違憲違法とされることを、憲法は当然に予定しています。
フライドチキンを食べることは、「一般的」に見れば、歴史観・世界観と不可分に結びつく行為とは考えられないでしょうが、菜食主義者に取ってみれば、フライドチキンを食べることはその者の歴史観・世界観と不可分に結びつく行為なのです。
このことは、剣道の授業を拒否した学生を公立高校が退学処分にすることは違法であると判断した最高裁判例によっても明らかです。
このように、公権力の行使が人権を侵害するかどうかは、人権の享有主体である行為者の側からスポットライトを当てて判断しなければなりません。それなのに、「一般的」な判断が可能と考えることは、結局は単なる多数決による結論の押し付けでしかなく、憲法解釈の方法として根本的に誤っています。
「一般的」に判断するという最高裁の立場の誤りは明白ですし、「一般的」判断でしかないものをあたかも「客観的」判断であると断言することも誤りであることは明らかです。
(3)事実経過で詳論したとおり、不起立不斉唱が思想良心の問題そのものであることは、被告も当然分かっています。都教委は、一連の仕組みにおいて、何度も「内心の自由」に関する説明を行うことが「不適切」だと繰り返しています。
起立斉唱をする/しない、という事柄が内心の自由の問題であり、思想良心の問題であることは客観的に明らかであるからこそ、神経質なまでに内心の自由に関する説明を禁じたのです。
(4)最高裁は、儀礼的所作だから思想良心の問題とは結びつかないといいますが、何故、儀礼的所作だから思想良心の問題と結びつかないかの説明は一切なされていません。
最高裁は、愛媛玉串料訴訟における判決において、玉串料の奉納に儀礼的な意味合いがあることを認めつつも政教分離原則に反し違憲であると判断しています。儀礼的所作であろうがなかろうが、違憲の行為は違憲なのです。
(5)間接制約の事例だから緩やかな違憲審査基準でよいとする立場に対しては、強く批判をしなければなりません。
仮に間接制約の事案だとしても、精神的自由権を制約する以上は厳格な違憲審査基準を採用しなければならないはずです。憲法学説の大半、日弁連等の法律家団体のほぼ全てが最高裁判決を支持しないのは、かかる最高裁の態度が人権保障の最後の砦としての最高裁の役割を完全に見失っているからです。
(6)最高裁判決は、以上のとおり誤っていることは明らかですが、それに加えて、本件では単に10.23通達のみを取り上げて憲法19条に反するという主張をしている訳ではないことに留意を願いたいと思います。
事実経過の部分に詳細に記載したとおり、本件の原告らは、いわゆる「一連の仕組み」そのものが憲法19条に違反すると主張しているのであって、10.23通達のみについての判断である最高裁判決の結論は、本件には当てはまらないのです。
(7)以上から、最高裁の判断は誤っており、本件において「一連の仕組み」が憲法19条に反し違憲であることは明らかです。
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