=代理人弁論要旨=
◎ 「公権力行使の権限の限界を踰越すること」
10・23通達をめぐる様々な訴訟は,教員の思想良心,信仰の自由の問題として争われてきました。もちろん,それは重要な側面です。
しかし,それだけではこぼれ落ちてしまう,別の重要な側面があります。「公権力行使の権限の限界を踰越する問題」として控訴理由書で論じました。
この主張は,教員の歴史観・世界観・教育観あるいは「日の丸」や「君が代」に対する評価とは無関係です。
仮に「日の丸」や「君が代」に否定的評価をもたず,敬意表明をすることになんの抵抗も感じない教員との関係であっても、起立斉唱を学校で強制することは公権力行使の権限の限界を超えているという主張です。
権限行使の限界を画するものは2つです。
1つは個人と国家とが向き合う場面であるという本件事件の特異性です。もう1つは,生徒の精神的自由,そして教員の職責です。
以下は後者に絞って述べます。
卒業式の国歌斉唱時に立っている生徒たちのなかにも,じつは立つことに耐えがたい思いを抱く生徒たちがいます。外国にルーツをもつ生徒たち,あるいは信仰をもつ生徒たちなどです。
その生徒たちに弁護士が会うことは不可能です。でも卒業して何年もたってから様々なツテをたどって面談できることが稀にあります。その中で陳述書を書いてくれる人はさらに稀です。そのひとりが甲第231号証の陳述書を書いた女性です。こう述べました。
生徒に抵抗感がなければ問題がないというわけではありません。国家シンポルに敬意を表するかどうかは,個人と国家との関係をどのように考えるかの問題です。価値観の多様性を前提に,まさに個人が自律的に思考し判断すべき事柄です。
自律的に判断するということは,常識とされ権威とされるものを「疑う自由」をもっということです。
教員が懲戒処分の脅しで起立斉唱を強制され全員が起立して生徒に対して率先垂範をする。それは,この「常識と権威を疑う自由」を真っ向から否定することです。すべての生徒に「ショートカット」を成立させ,生徒の自律的判断を損なうことになるのです。
教員というものは自分の自由と権利だけを考えるのではありません。その前にまず,生徒たちの自由と権利を考えるものです。もちろん自分はどうでもよいというわけではありません。でも,まず生徒のことを考えて行動するのでなければ教員の職責は果たせません。そういう職責なのです。
その職貴を果たそうとすると懲戒処分の脅威に直面する。教員は,精神的自由を制約される側だけではなく,生徒たちの精神的自由を制約し,その自律的判断を阻害する側にも身を置きます。
そのことが懲戒処分で強制されるのです。生徒たちの気持ちに寄り添うために起立斉唱すまいと決意しても,懲戒処分の脅しによって阻まれてしまいます。以上がこの事件の,教員の権利とは別の,重要な側面です。
教員の権利とは無関係だからと切り捨てられてきました。しかし,生徒に対する起立斉唱の率先垂範を教員に強制する,そういう権限を行政機関が有するとは思われません。
南九州税理士会事件1996年3月19日最高裁判決(判タ914号62頁,地裁は判タ584号76頁)は,「会員には,様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって,……(中略)……協力義務にも,おのずから限界がある」と判示しました。
上告人自身の思想,信条は問題にせず,全会員の思想・信条との関係で強制に限界を画したのです。
同様に,卒業式に参加する生徒たちの精神的自由、そして教員の職責との関係で、強制には「自ずから限界がある」というべきです。
原審ではそもそも理解されなかったこの問題を,控訴審ではぜひ裁判所に真摯にお考えいただきたいと思います。
◎ 「公権力行使の権限の限界を踰越すること」
控訴人ら訴訟代理人
弁護士 白井剣
弁護士 白井剣
10・23通達をめぐる様々な訴訟は,教員の思想良心,信仰の自由の問題として争われてきました。もちろん,それは重要な側面です。
しかし,それだけではこぼれ落ちてしまう,別の重要な側面があります。「公権力行使の権限の限界を踰越する問題」として控訴理由書で論じました。
この主張は,教員の歴史観・世界観・教育観あるいは「日の丸」や「君が代」に対する評価とは無関係です。
仮に「日の丸」や「君が代」に否定的評価をもたず,敬意表明をすることになんの抵抗も感じない教員との関係であっても、起立斉唱を学校で強制することは公権力行使の権限の限界を超えているという主張です。
権限行使の限界を画するものは2つです。
1つは個人と国家とが向き合う場面であるという本件事件の特異性です。もう1つは,生徒の精神的自由,そして教員の職責です。
以下は後者に絞って述べます。
卒業式の国歌斉唱時に立っている生徒たちのなかにも,じつは立つことに耐えがたい思いを抱く生徒たちがいます。外国にルーツをもつ生徒たち,あるいは信仰をもつ生徒たちなどです。
その生徒たちに弁護士が会うことは不可能です。でも卒業して何年もたってから様々なツテをたどって面談できることが稀にあります。その中で陳述書を書いてくれる人はさらに稀です。そのひとりが甲第231号証の陳述書を書いた女性です。こう述べました。
「植民地時代に辛酸を嘗めた二人の祖父と二人の祖母の思い,そして父や母の思いを考えると,『君が代』を歌えと言われることは,私にとっては身を切られるように辛いことでした。もちろん,立つことにも躊躇しました。正直な気持ちをいえば,けっして立ちたくはありませんでした。でも,周りの生徒は皆立っていました。なぜ立たないのかと間われたときに,理路整然と答えられるだけのしっかりした考えや知識が自分にはないと思いました。仲の良かった朝鮮学校出身の5人の友だちは皆立っていました。そのひとりが自分の隣にいました。それを見たとき,立たざるをえないと思いました」こういう思いをもった都立高校生は現にいます。だれがそうなのかは担任にもわかりません。知ろうとすれば思想調査になってしまいます。でも確実に存在するのです。
生徒に抵抗感がなければ問題がないというわけではありません。国家シンポルに敬意を表するかどうかは,個人と国家との関係をどのように考えるかの問題です。価値観の多様性を前提に,まさに個人が自律的に思考し判断すべき事柄です。
自律的に判断するということは,常識とされ権威とされるものを「疑う自由」をもっということです。
教員が懲戒処分の脅しで起立斉唱を強制され全員が起立して生徒に対して率先垂範をする。それは,この「常識と権威を疑う自由」を真っ向から否定することです。すべての生徒に「ショートカット」を成立させ,生徒の自律的判断を損なうことになるのです。
教員というものは自分の自由と権利だけを考えるのではありません。その前にまず,生徒たちの自由と権利を考えるものです。もちろん自分はどうでもよいというわけではありません。でも,まず生徒のことを考えて行動するのでなければ教員の職責は果たせません。そういう職責なのです。
その職貴を果たそうとすると懲戒処分の脅威に直面する。教員は,精神的自由を制約される側だけではなく,生徒たちの精神的自由を制約し,その自律的判断を阻害する側にも身を置きます。
そのことが懲戒処分で強制されるのです。生徒たちの気持ちに寄り添うために起立斉唱すまいと決意しても,懲戒処分の脅しによって阻まれてしまいます。以上がこの事件の,教員の権利とは別の,重要な側面です。
教員の権利とは無関係だからと切り捨てられてきました。しかし,生徒に対する起立斉唱の率先垂範を教員に強制する,そういう権限を行政機関が有するとは思われません。
南九州税理士会事件1996年3月19日最高裁判決(判タ914号62頁,地裁は判タ584号76頁)は,「会員には,様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって,……(中略)……協力義務にも,おのずから限界がある」と判示しました。
上告人自身の思想,信条は問題にせず,全会員の思想・信条との関係で強制に限界を画したのです。
同様に,卒業式に参加する生徒たちの精神的自由、そして教員の職責との関係で、強制には「自ずから限界がある」というべきです。
原審ではそもそも理解されなかったこの問題を,控訴審ではぜひ裁判所に真摯にお考えいただきたいと思います。
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