☆ 第1 はじめに-岐路に立つ日本の教育
2 教育統制と教育の自由
(2) 思想良心の自由に関わる教育統制
教育基本法の改正や新学習指導要領、地方自治体の条例や教育委員会の通達などを通じ、国旗・国歌など個人の価値観に深く関わる内容の目標や規範が掲げられ、子どもの内心の自由を侵害することが強く懸念されている。
とりわけ、子どもの教育を支える教師に対し、思想良心に関わる職務命令、処分や各種調査などを通じて統制が強められている。
東京都では、入学式・卒業式等の学校行事等において教職員及び児童・生徒に対して、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することが強制され、不起立の教職員に厳しい懲戒処分がなされている。
大阪府では、条例により、教職員に対して行事における国歌斉唱時の起立斉唱が義務付けられるとともに、起立を命ずる職務命令に3回違反すると分限免職処分にされる可能性がある。
北海道では、教職員に対し、組合や政治活動などに関する調査が行われた。
(3) 子どもの成長と教育の自由
教育に政治や行政が不当に介入し、教育の現場を一定の価値観によって統制しようとするとき、社会全体が危険な方向に傾くことは、戦前の悲惨な歴史が教えるところである。
戦後の憲法は、多様な価値観を持つ市民に思想良心の自由を始めとする精神的自由権を保障し、自由な議論と相互理解を通じて合意を形成する立憲民主主義社会を理念とする。
教育は、子どもが一人の個人、また市民として成長発達し、自ら考え、自律的に行動する力を育むことを通して、自主的な人格を形成することを目指すものであり、国家や政治に都合のよい一方的な観念を教え込むものであってはならない。そのためには、子どもの自主性を育む教師に対して、教育の専門性に根ざした教育の自由、及び思想良心の自由を始めとする精神的自由がとりわけ尊重されるべきである。
教師に対する思想良心に関わる統制を許せば、教育現場は萎縮し、子どもの人権や内心の自由を尊重しようとする教師が真っ先に教育現場で抑圧されかねない。日本の教育はいま、危険な曲がり角にある。
第2 教育への介入と教員統制の危険
1 子どもの学習権と教育の自由
(1) 子どもの学習権の保障と教育の自由
子どもは生まれながらに、その尊厳を尊重され、人格と能力を最大限に発達させるために必要な学習をする権利を有している(憲法13条、26条、子どもの権利条約6条、29条1項)。
子どもは一人ひとり異なった個性や発達段階、ニーズの下にあり、それぞれの条件や環境も様々である。教師が、障がいを持つ子どもを含む、様々な背景を持つ子どもたち一人ひとりの存在を肯定し、その尊厳を尊重することを通じて、子どもは生きる基盤となる自己肯定感を育むとともに、その人格を成長させ、その個性と発達段階に応じて学習権を充足させていくことができる。
このため、教師は、子どもの多様な個性、発達段階やニーズを受け入れてこれに誠実に応えていくことが必要であり、これは子どもと教師との直接の人間的ふれあいを通じて行われるものである(子どもの権利条約12条)。
そして、教師がこのように子どもの個性と発達に応じ、最善の教育活動を展開し、またより良い教育を探求するため、教師には、教育の専門性に基づく一定の教育の自由が保障されなければならない(憲法23条、26条、1976年5月21日最高裁判所大法廷判決(以下「旭川学力テスト最高裁判決」という。)、ユネスコ「教員の地位に関する勧告」)。
教育は人間の内面的価値に対する文化的な営みであり、多数決原理が支配する政治的影響によって支配されるべきでなく、教育内容に対する時の政府や行政の介入はできるだけ抑制的であることが要請される。とりわけ、個人の基本的自由と人格の独立を尊重している憲法の下では、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような介入、特に一方的な観念を教え込むことを強制するようなことは、憲法上の要請からも許されない(旭川学力テスト最高裁判決)。
3 教育内容への介入
教育の内容に対し、政治や行政による介入などを通じた統制も強められている。
例えば、人権教育に関し、性教育やジェンダーの実質的平等に関する教育に対する妨害が強められ、2003年、東京の養護学校では、都議会議員らが性教育の授業を批判し、教育委員会により性教育の教材が持ち去られ、教師に厳重注意処分がなされるなどの教育への不当な介入が行われた。
こうした教育への介入によって、教育現場は萎縮し、教師としての専門性に基づき、子どものニーズに応じ、子どもの人権や自主性・自律性を尊重しながら教育をする自由が損なわれている。
4 教師への管理の強化
さらに、学力テストの成績公表や学校選択制等により、学校間の競争が激化する中、教師は、業績評価、成績の結果や職階制などによって管理され、上からの評価を気にせざるを得ず、子どもとの豊かな人間関係を育み、それぞれの子どもに向き合い、子ども自身の課題や困難に応えながら教育をする条件や時間を失いつつある。
学校教育においては、教師が自主的な研鑽と相互の協力によって、子どもの発達課題を受け止め、教育内容を向上させていくべきものである。しかし、こうした管理統制や職階制による上下の階層化が進められ、学校間・教師間の競争が煽られる中で、教師の間の信頼や横のつながりも損なわれ、教師が協力して子どもの心を受け止める教育をすることも困難な状況に置かれている。
地方自治体及び教育委員会は、教育内容への介入、教師の業績評価、懲戒・分限処分、各種調査その他において、教育の自由又は教師の精神的自由を侵害し、教育内容に不当に介入して教育現場を萎縮させることのないようにすべきである。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/2012/2012_1.html
2 教育統制と教育の自由
(2) 思想良心の自由に関わる教育統制
教育基本法の改正や新学習指導要領、地方自治体の条例や教育委員会の通達などを通じ、国旗・国歌など個人の価値観に深く関わる内容の目標や規範が掲げられ、子どもの内心の自由を侵害することが強く懸念されている。
とりわけ、子どもの教育を支える教師に対し、思想良心に関わる職務命令、処分や各種調査などを通じて統制が強められている。
東京都では、入学式・卒業式等の学校行事等において教職員及び児童・生徒に対して、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することが強制され、不起立の教職員に厳しい懲戒処分がなされている。
大阪府では、条例により、教職員に対して行事における国歌斉唱時の起立斉唱が義務付けられるとともに、起立を命ずる職務命令に3回違反すると分限免職処分にされる可能性がある。
北海道では、教職員に対し、組合や政治活動などに関する調査が行われた。
(3) 子どもの成長と教育の自由
教育に政治や行政が不当に介入し、教育の現場を一定の価値観によって統制しようとするとき、社会全体が危険な方向に傾くことは、戦前の悲惨な歴史が教えるところである。
戦後の憲法は、多様な価値観を持つ市民に思想良心の自由を始めとする精神的自由権を保障し、自由な議論と相互理解を通じて合意を形成する立憲民主主義社会を理念とする。
教育は、子どもが一人の個人、また市民として成長発達し、自ら考え、自律的に行動する力を育むことを通して、自主的な人格を形成することを目指すものであり、国家や政治に都合のよい一方的な観念を教え込むものであってはならない。そのためには、子どもの自主性を育む教師に対して、教育の専門性に根ざした教育の自由、及び思想良心の自由を始めとする精神的自由がとりわけ尊重されるべきである。
教師に対する思想良心に関わる統制を許せば、教育現場は萎縮し、子どもの人権や内心の自由を尊重しようとする教師が真っ先に教育現場で抑圧されかねない。日本の教育はいま、危険な曲がり角にある。
第2 教育への介入と教員統制の危険
1 子どもの学習権と教育の自由
(1) 子どもの学習権の保障と教育の自由
子どもは生まれながらに、その尊厳を尊重され、人格と能力を最大限に発達させるために必要な学習をする権利を有している(憲法13条、26条、子どもの権利条約6条、29条1項)。
子どもは一人ひとり異なった個性や発達段階、ニーズの下にあり、それぞれの条件や環境も様々である。教師が、障がいを持つ子どもを含む、様々な背景を持つ子どもたち一人ひとりの存在を肯定し、その尊厳を尊重することを通じて、子どもは生きる基盤となる自己肯定感を育むとともに、その人格を成長させ、その個性と発達段階に応じて学習権を充足させていくことができる。
このため、教師は、子どもの多様な個性、発達段階やニーズを受け入れてこれに誠実に応えていくことが必要であり、これは子どもと教師との直接の人間的ふれあいを通じて行われるものである(子どもの権利条約12条)。
そして、教師がこのように子どもの個性と発達に応じ、最善の教育活動を展開し、またより良い教育を探求するため、教師には、教育の専門性に基づく一定の教育の自由が保障されなければならない(憲法23条、26条、1976年5月21日最高裁判所大法廷判決(以下「旭川学力テスト最高裁判決」という。)、ユネスコ「教員の地位に関する勧告」)。
教育は人間の内面的価値に対する文化的な営みであり、多数決原理が支配する政治的影響によって支配されるべきでなく、教育内容に対する時の政府や行政の介入はできるだけ抑制的であることが要請される。とりわけ、個人の基本的自由と人格の独立を尊重している憲法の下では、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような介入、特に一方的な観念を教え込むことを強制するようなことは、憲法上の要請からも許されない(旭川学力テスト最高裁判決)。
3 教育内容への介入
教育の内容に対し、政治や行政による介入などを通じた統制も強められている。
例えば、人権教育に関し、性教育やジェンダーの実質的平等に関する教育に対する妨害が強められ、2003年、東京の養護学校では、都議会議員らが性教育の授業を批判し、教育委員会により性教育の教材が持ち去られ、教師に厳重注意処分がなされるなどの教育への不当な介入が行われた。
こうした教育への介入によって、教育現場は萎縮し、教師としての専門性に基づき、子どものニーズに応じ、子どもの人権や自主性・自律性を尊重しながら教育をする自由が損なわれている。
4 教師への管理の強化
さらに、学力テストの成績公表や学校選択制等により、学校間の競争が激化する中、教師は、業績評価、成績の結果や職階制などによって管理され、上からの評価を気にせざるを得ず、子どもとの豊かな人間関係を育み、それぞれの子どもに向き合い、子ども自身の課題や困難に応えながら教育をする条件や時間を失いつつある。
学校教育においては、教師が自主的な研鑽と相互の協力によって、子どもの発達課題を受け止め、教育内容を向上させていくべきものである。しかし、こうした管理統制や職階制による上下の階層化が進められ、学校間・教師間の競争が煽られる中で、教師の間の信頼や横のつながりも損なわれ、教師が協力して子どもの心を受け止める教育をすることも困難な状況に置かれている。
地方自治体及び教育委員会は、教育内容への介入、教師の業績評価、懲戒・分限処分、各種調査その他において、教育の自由又は教師の精神的自由を侵害し、教育内容に不当に介入して教育現場を萎縮させることのないようにすべきである。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/2012/2012_1.html
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