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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

アベを倒そう!(94)<戸坂潤の『道徳の観念』第二章から>

2016年04月08日 | 日の丸・君が代関連ニュース
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 これまで教科外活動だった小・中学校の「道徳」が、▲ 「特別の教科 道徳」として格上げされ、小学校では2015~2017年度の移行措置を経て、2018年度から完全実施されます。
 (中学校では2015~2018年度の移行措置を経て、2019年度から完全実施)
 そして「道徳」の「検定教科書」が導入される事になります。
 これは、戦前の「修身科」と「修身書」の実質的な復活です。
 こうなると、出版社はそれに関する本を売ろうとし、似非学者や御用学者たちは「道徳」をいろいろ語るようになります。
 ところで、私は、「アベを倒そう!」(61)(2016年2月16日)で、戸坂潤の『道徳の観念』(1936年)という論文(四章からなる)の<第一章 道徳に関する通俗的常識的観念>を紹介しました。
 そこには、
 「常識が道徳を好むのは、常識が科学を恐れるからである。科学の代わりに道徳を、これが現下におけるブルジョアジーのないしファッショの、デマゴギーの秘密だ。」
 と書いてありました。この指摘は今でも十分通用すると思います。

 そこで、今回は<第二章 道徳に関する倫理学的観念>からいくつかの引用文を紹介したいと思います。
 少し長くなりますが、ご容赦ください。

 戸坂は冒頭次のように「道徳」と「倫理」の関係を説明します。
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 道徳に関する理論ないし科学が、普通、倫理学というものだと考えられている。
 なるほど倫理学(Ethis)を言葉通りに取るなら、一切の道徳問題は倫理学の対象であると言っていい。
 なぜならこの言葉は性格(-ethos:-はeの上です)と習慣(ethos)とから来たものであって、社会生活を営む人間の比較的外部的な生活規定であるところの習慣風俗の問題と、その比較的内部的な生活規定である性格性情の問題とは、われわれの道徳問題の一切を含むと考えられるだろうかだ。
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 そうして彼は、西洋の古代から近代までの「倫理」に関する論を批判的に紹介し、次のようなことを述べています。
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 古代における倫理思想がそうだったように、近代における倫理思想の自覚もまた、一般思想の激しい動揺、すなわち社会機構の著しい変革によって促された。
 すでに述べたように、道徳は社会秩序の分泌物のようなもので、したがってその反映である道徳意識ないし倫理観念は、社会秩序の上部構造的な表現にほかならないが、社会秩序が比較的安定を得ている場合には、その道徳ないし道徳意識は、自分内になんらの抵抗も矛盾も感じないので、倫理思想はことさら自覚される縁もなければその必要もない。
 倫理が問題として自覚され、倫理学などが発生するのは、一般に社会変動とそれに基づく思想的動揺とに照応してのことなのだ。
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 そうして彼は、「近代倫理学はイギリスのブルジョア倫理学として発生しまた発展した」と述べ、ホッブスの倫理学を紹介した後、次のように述べます。
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 ブルジョア倫理学の観念的代表者はほかならぬI・カントである。
 もっともカント哲学は必ずしも純粋なブルジョアジーの哲学ではなくて、それのプロシャ的啓蒙君主的変容に相当するものであるが、しかしカント哲学の新鮮味はヨーロッパ・イギリス・ブルジョアジーの生活意識を積極的に吸収したところに存する。
 彼の世界市民の理想はこれを最もよく言い表しているだろう。
 ・・・だがカントの特色は、そうした国家・法律・政治等々の理論とは比較的独立に、「実践理性」の領域を、「道徳」(Sitte)の領域を、取り出しうると考えたところにあるのである。・・・カントは主として、道徳の世界を自然界・経済界がら峻別した。・・・だからまた、カントによる倫理学の独立は、きわめて体系的な根拠をもっていることを忘れてはならない。
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 かくて倫理学とは、自由や人格を、そしてこの根本概念に基づいて道徳律や善悪の標準やを、研究するところの、一つの独立な封鎖された学問のこととなる。
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 戸坂はこの後、(ヘーゲルは次章で扱うので除き)フィヒテ、シェリング、「生命の倫理学」などを批判し、さらに、日本の倫理学に触れて、次のように述べています。
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 きわめて最近では、倫理学を人間学ないし、「人間の学」と見なすことも行われるが(たとえば和辻哲郎博士)、こうした人間学は要するに社会を倫理に解消する代わりに、これを人間に解消するためのもので、明らかにこの点で従来のブルジョア観念論倫理学の代用物としての機能をもつ、それが改めて今時、倫理学と見立てられるのはもっともだと言わねばなるまい。
 ―倫理思想を歴史的に導いてこなければならぬと言って、東洋倫理や日本倫理学を説く者が、今日の国粋反動復古時代に多かりそうなことは、誰しも思いつくことだ。
 西晋一郎博士によれば、「東洋倫理」は科学や学問ではなくて教えであり教学であるという。
 この教学主義の体系が今日の日本における典型的な半封建的ファシズム・イデオロギーの帰着点であり、特色ある観念論組織のもっともなるものであることは論外としても、この種の歴史的(?)な倫理学が、実はなんらの歴史学的認識に立つものでもないことは、一目瞭然たるものであろう。
 古代支那の習俗と支那訳印度仏教教理との結合が、二十世紀の資本主義強国日本の生活意識だというのであるから(その他、日本の師範学校教師式倫理学の大群については、ここに語る必要はあるまい)。
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 そうして戸坂は、次のように結論付けています。
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・・道徳は非歴史的で超階級的で、普遍的で形式的であり、真に社会的な何ものでもない。・・このおかげで道徳は、今日の観念論の権威と神秘との聖殿にほかならぬものとなっている。
・・・道徳とは、多くの場合(一二の例外は別として)、道徳律や修身的徳目のことでしかなく、善悪の標準のことでしかなかったのだ。
・・・道徳は倫理学によって、まったく卑俗な矮小な憐れむべき無力なガラクタとなる。・・
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 <日時>2016年4月30日(土)18:30~21:00
 <場所>阿佐ヶ谷地域区民センター、第五集会室
 <内容>・卒業式ビラまきの特徴と教訓について
      ・今後の運動の発展について
 <資料代>300円

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