〔週刊 本の発見・第176回〕《レイバーネット日本》
◆ ~やさしさはどこから?
『分解の哲学―腐敗と発酵をめぐる思考』(藤原辰史著、青土社、2400円+税)
「書評」を引き受けるとなった時、取り上げたい本として真っ先に頭に浮かんだのは藤原辰史著『分解の哲学―腐敗と発酵をめぐる思考』だった。
藤原辰史という名前をお聞きになったことのある方は多いだろう。本年4月岩波書店から「緊急寄稿」として公開された『パンデミックを生きる指針-歴史研究のアプローチ』の筆者である。多くの方が渇望していた論考ではなかったろうか。
感染症の危機にさらされる中で私たちが真に恐れるべきことは何か、歴史と社会を冷徹に見つめる眼差しを通して警鐘が鳴らされたように思う。その鐘の音を聞かなければ、私たち自身が弱者を追いやる差別者にすらなりかねない。
筆者である藤原辰史さんの名前を知ったのはその時が初めてであったが、碩学の老学者をイメージしていたが、老学者どころか私よりずっと若い方だと後に知った。
実は「書評」の依頼があった日は、たまたま藤原辰史さんの講演を聞いた日でもあった。
心に響く話であったが、中でも、「歴史の中で、感染症の問題はいつも差別を内包し植民地主義と関係している」と言われたことが印象的であった。強者ではなく絶えず弱者の視点に立って思考されているということが伝わってきた。
その折に勧められ購入したのが本著である。なんと、私は読みもしないで「書評」を書くことを決めてしまったわけである。これがそもそもの間違いであったことは後で思い知らされる。
本著は、著者自身がかつて住んでいた東京の公共住宅の「掃除のおじさん」の話から始まる。おじさんは、ゴミから子どもたちのおもちゃを作り出す名人であった。
「本書の目的は、公共住宅の住人たちを魅了し止まなかったおじさんと彼のふるまいを、これまで先人たちが紡いできた思考と行動してきた歴史のなかに置き直し、普遍化することにほかならない」。
筆者が向かうのは、壊れたもの、捨て去られたもの、朽ち果てるもの、死にゆくものに宿る再生の可能性である。「これまで先人たちが紡いできた思考と行動」がこれほどまでに縦横無尽に多岐にわたっていようとは正直思いもしなかった。
『帝国』の著者ネグリとハートの「腐敗」の概念を語るにあたって提供されるのは、夢野久作著『ドグラ・マグラ』、九相図、アリストテレス、マルクスの『資本論』等々。
その一つひとつを理解したとはとても言えず、読みたいと思っただけで書評の対象に選んだことを後悔した。それでも“格闘”することにしたのは、同世代の学者からほとんど感じられない著者が持つ“やさしさの眼差し”の原点を知りたかったためである。
“分解”案内人としての著者が、無尽蔵に繰り広げる「先人たちが紡いできた思考と行動」すなわち「分解の饗宴」者たちは、大量生産・大量消費を是とする時代に育った私はどちらかと言えば避けてきたものたちである。
“成長神話からの脱却”などという通り一遍の言葉では表せない世界、それは「さまざまな存在が死者を食べ尽くす壮大な死の祝祭」において「残酷である、と目を覆ったその手をもう一度振り払い、装置のもたらす残酷さと分解のもたらす徹底さの違いを見極めること」であり、著者のやさしさはそこから来るのかもしれない。
『レイバーネット日本』(2020/10/22)
http://www.labornetjp.org/news/2020/hon176
◆ ~やさしさはどこから?
『分解の哲学―腐敗と発酵をめぐる思考』(藤原辰史著、青土社、2400円+税)
評者:志水博子
「書評」を引き受けるとなった時、取り上げたい本として真っ先に頭に浮かんだのは藤原辰史著『分解の哲学―腐敗と発酵をめぐる思考』だった。
藤原辰史という名前をお聞きになったことのある方は多いだろう。本年4月岩波書店から「緊急寄稿」として公開された『パンデミックを生きる指針-歴史研究のアプローチ』の筆者である。多くの方が渇望していた論考ではなかったろうか。
感染症の危機にさらされる中で私たちが真に恐れるべきことは何か、歴史と社会を冷徹に見つめる眼差しを通して警鐘が鳴らされたように思う。その鐘の音を聞かなければ、私たち自身が弱者を追いやる差別者にすらなりかねない。
筆者である藤原辰史さんの名前を知ったのはその時が初めてであったが、碩学の老学者をイメージしていたが、老学者どころか私よりずっと若い方だと後に知った。
実は「書評」の依頼があった日は、たまたま藤原辰史さんの講演を聞いた日でもあった。
心に響く話であったが、中でも、「歴史の中で、感染症の問題はいつも差別を内包し植民地主義と関係している」と言われたことが印象的であった。強者ではなく絶えず弱者の視点に立って思考されているということが伝わってきた。
その折に勧められ購入したのが本著である。なんと、私は読みもしないで「書評」を書くことを決めてしまったわけである。これがそもそもの間違いであったことは後で思い知らされる。
本著は、著者自身がかつて住んでいた東京の公共住宅の「掃除のおじさん」の話から始まる。おじさんは、ゴミから子どもたちのおもちゃを作り出す名人であった。
「本書の目的は、公共住宅の住人たちを魅了し止まなかったおじさんと彼のふるまいを、これまで先人たちが紡いできた思考と行動してきた歴史のなかに置き直し、普遍化することにほかならない」。
筆者が向かうのは、壊れたもの、捨て去られたもの、朽ち果てるもの、死にゆくものに宿る再生の可能性である。「これまで先人たちが紡いできた思考と行動」がこれほどまでに縦横無尽に多岐にわたっていようとは正直思いもしなかった。
『帝国』の著者ネグリとハートの「腐敗」の概念を語るにあたって提供されるのは、夢野久作著『ドグラ・マグラ』、九相図、アリストテレス、マルクスの『資本論』等々。
その一つひとつを理解したとはとても言えず、読みたいと思っただけで書評の対象に選んだことを後悔した。それでも“格闘”することにしたのは、同世代の学者からほとんど感じられない著者が持つ“やさしさの眼差し”の原点を知りたかったためである。
“分解”案内人としての著者が、無尽蔵に繰り広げる「先人たちが紡いできた思考と行動」すなわち「分解の饗宴」者たちは、大量生産・大量消費を是とする時代に育った私はどちらかと言えば避けてきたものたちである。
“成長神話からの脱却”などという通り一遍の言葉では表せない世界、それは「さまざまな存在が死者を食べ尽くす壮大な死の祝祭」において「残酷である、と目を覆ったその手をもう一度振り払い、装置のもたらす残酷さと分解のもたらす徹底さの違いを見極めること」であり、著者のやさしさはそこから来るのかもしれない。
『レイバーネット日本』(2020/10/22)
http://www.labornetjp.org/news/2020/hon176
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