★ 立川、葛飾に続く「言論表現の自由」圧殺を許すな! ★
最高裁は「表現そのものを処罰すること」の憲法適合性を判断せよ!
■□■ 第7回最高裁要請行動11月2日(火)9:45最高裁東門集合 ■□■
◎ 板橋高校卒業式事件・顛末記<16>
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「シマリス」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
3月13日(土)、都教委指導部高等学校教育指導課・課長賀澤は、板橋署に赴いた。
このように人の動きが把握できるのは、情報公開によって出張記録簿を入手できるからである。
もちろん、本人が記入しなければわからないが。
賀澤は、教育長の法的措置構想の確認に板橋署に赴いたと思われる。
都教委よ、自ら判断されよ。 いちいち警察に赴いて相談ないし指示されるとはみっともないではないか。
石原が警視庁を配下に置き、その配下に都教委がいる構造となったと判断する。
本来、教育の場は警察と距離を置いてきた。 戦後のポポロ事件などが好例である。
それが段々と、何かあればすぐ警察を頼むと言った状況が生まれた。
学校の中に警察が入っても、何とも思わない風潮がでてきた。
学校の運営の協議の場に、警察の代表が派遣されてきたりする。
治安・逮捕感覚と教育の場の説得、指導感覚・理念は、まったく対極のものではなかったのか。
学校が次第に留置場、刑務所のようなところに変質しつつある。
規則に規則を重ね、違反が累積する者は放逐し、違反者は校内に指導と称して監禁し、絶対的な服従を要求する。
「もう二度といたしません、申し訳ありませんでした」というような文を、何百回とノート一冊に書かせるなど、これは拷問であろう。
昔、J高校にいた時、校則違反の生徒が、陽の当らぬ狭いところに押し込まれて、誰とも話すことを禁じられ一日、ただひたすらに勉強させられていた。
それをたまたま見た教育実習生が、蒼い顔をして言いに来た。
「あんなことさせてて、いいんですか。 ひどい」
まっとうな感覚であったのだ。
昔、T高校にいた時、ひとりの生徒が校長の指導に逆らった。 ことはそんな悪質なことではなく些細なことであった。
校長は、権威を傷つけられたと感じたのであろう厳しい処分を望んだ。
学年もその癖のある子がいなくなった方がいいと判断した。
長期の自宅謹慎に置いて、瑕疵を見つけ放校を狙った。
自宅に電話した時に電話に出ないと、自宅で勉強せずに遊び歩いている、つまり反省の態度に欠けるというのである。
無罪を主張したら、反省の念がないと見做される被告と何か雰囲気は似ている。
当局の目論見どおりに、一切の抵抗なく従えということである。
私は、校長と談判した。
その学年の授業はなく、どんな子なのか名前だけ聞かされるだけである。
やがての水曜日、退学が会議の議題にのぼるであろう。 何もわけわからずに、賛否の挙手は無理である。
「校長、そんなに悪い子ですか」
「そうだ」
「それじゃあ、私、本人に会って来ますよ」
「どうぞ」
というわけだ。
私は、もうひとり私と親しい教員の車に乗って、早稲田界隈に出かけて行った。
ひどい、実にひどいボロアパートである。 住民は、彼の一家しかなく、すべては廃屋の風情で、二階の奥に住んでいた。
戦後、我が家も築何十年かの大きなボロアパートの角の一室に住んでいた。
おお、俺の昔と同じだあ、妙な感慨があった。
小学生であった私は、放課後、「おまんち、どこだあ」とついてくる同級生をまいて帰った。
台風のときは道に面した土壁がどさっと落ちて、町の人が何人か集まって、指差してこっちを見ていた。
それが、座っている部屋の中から見えた。
だが事情ははるかに異なっていた。 親は、「なんとかなりませんでしょうか」と極めて低姿勢。
対して私、「いや、今日は私はどんな生徒であるか見に来ただけですから」と冷たく言い放つ。
しばし本人と話したが、さしてその他もろもろの子と変わらない普通の子に覚えた。
話し込んでいるうちに、私はショックを受けた。 小さな油虫の群れが徘徊している。
次々と現れては、私の方に向かってきては、横を通り抜けたりする。
情けないことに私は完全に意識が油虫のみに集中し出した。
うちもボロであったが、こんなことはなかった。 私は、そうそうに親の丁寧なお辞儀を背に受けて退散した。
水曜日がやってきた。 職員会議の日である。
私は、「会って来た」と発言を始めた。
学年担任団の一部から、猛然たる攻撃が開始された。
「担任、学年にも相談なしに、何でそういうことをするのか」と言うのである。
確かにそうではあるが、話をしていた玄関横の校長室から すぐに出かけたに過ぎない。
含むところは何にもなかったから気楽に考えて行動しただけであった。 まして、校長が「どうぞ」と言った。
校長は、担任数名の猛然たる発言に恐れをなしたのであろう。
「私は、どうぞなどと言ってない」と高言した。
がたがたごたごたした後、結果として退学賛成派は少数となり、彼はその後無事に卒業した。
「あんな、油虫がいる部屋に一日中監禁されるのはとても耐えられない」という私の話が効果あったように思う。
学校が、説得や指導の場でなく、絶対的服従に反逆する者を放逐する場に変質してきている。
昔、事件を起こした生徒のことで警察と話していた時には、「学校も大変でしょうが、退学にはしないでください、学校を追い出された連中は街で悪さするから」と言っていたが、今どうなっているのであろうか。
昨近の現場の教員の話を聞くと、学校がまさに「放逐の場」になっていると、そう思わざるをえない。
以前、両国高校を監獄高校と揶揄していた卒業生がいたが、都立高校の全般が監獄化しているような気がする。 杞憂であろうか。
都教委が校長を縛り、校長が教職員を縛り、教職員が生徒を縛る、縛りの3重構造である。
私の年の離れたかっての同僚は今も現役であるが、行く先々で校長から忌避され毎年のように転勤させられていた。
秋に、校長から「戦力外通告」というのをされるという。 ようするに来年あんたは不要だという通告である。
都立高校は、戦争でもやっているのか。
「それじゃ、受け取る側が拒否するんじゃないか」と聞くと、それがそうではないという。
校長にも、A~FかGか聞き洩らしたが、段階があって下の階が文句なく引き受ける構造になっているという。
となると、最低ランクの学校はいかなる事態になるのであろうか。
かって私は、北海道の釧路の近くの定時制高校に7年いたが、札幌とか函館とかの組合活動家がミサイルのように釧根地区へ飛ばされてきた。 通称、ミサイル人事と言った時代であった。
函館から飛ばされてきた男に、「希望地区は、どう書いたんだ」と聞いた。
彼は、「札幌以南だ」と答えた。
確かに、「白糠」は、緯度からいって札幌以南だ。
「なんだ、希望どおりじゃないか」と言って笑いあったことがある。
冗談だが、希望地区を緯度で区分けするとは、さすが北海道である。
結果、釧根支部は強くなってストに果敢に突入した。 今はどうなっているのであろうか。
毎年のように飛ばされる友人は、都立高校見学ツアーみたいなもんだと冗談を言っていたが。
昔々、愛媛県の組合が潰された時には、狙われた組合員は1年ごとに島から島へと飛ばされた。
2,3年いると、そこで仲間を作るからだという。 そんなに島があったのであろうか。
北千住近くの都立青井にいた時、横浜の方から飛ばされてきた教員がいた。
教員の勤務評定に反対して提出書類、自己申告書を出さなかったからである。
その間、実に多くの学校があるというのに。通勤手当の過大は、税金の浪費であろうに。
H高校の教員は、毎日夜遅くまで働き献身的に仕事をしていた。
ある日、女性校長に一言、つまらないことを言って不快にさせた。
結果、業績評価は「C」となって、給料が他の者より減額された。
私は昔彼と昵懇であったので、電話した。 「そんなことを気にするとは、お前には思想がないのだ」と。
彼は、「そうかもしれない」と答えた。 酷なことを言った。
「D」評価が付くと、場合によっては研修所に送られ、やがて退職に追い込まれるのだという。
社会全般の監獄化の進行なのであろう。
※ 顛末記の過去ログは、
顛末記(15) http://wind.ap.teacup.com/people/4393.html
顛末記(14) http://wind.ap.teacup.com/people/4367.html
顛末記(13) http://wind.ap.teacup.com/people/4323.html
顛末記(10)(11)(12)は欠番。
顛末記(9) http://wind.ap.teacup.com/people/4160.html
顛末記(8) http://wind.ap.teacup.com/people/4095.html
顛末記(7) http://wind.ap.teacup.com/people/4071.html
顛末記(6) http://wind.ap.teacup.com/people/4049.html
顛末記(5) http://wind.ap.teacup.com/people/4030.html
顛末記(4) http://wind.ap.teacup.com/people/4011.html
顛末記(3) http://wind.ap.teacup.com/people/3892.html
顛末記(2) http://wind.ap.teacup.com/people/3872.html
顛末記(1) http://wind.ap.teacup.com/people/3853.html
30回くらいの連載になる予定です。
最高裁は「表現そのものを処罰すること」の憲法適合性を判断せよ!
■□■ 第7回最高裁要請行動11月2日(火)9:45最高裁東門集合 ■□■
◎ 板橋高校卒業式事件・顛末記<16>
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「シマリス」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
3月13日(土)、都教委指導部高等学校教育指導課・課長賀澤は、板橋署に赴いた。
このように人の動きが把握できるのは、情報公開によって出張記録簿を入手できるからである。
もちろん、本人が記入しなければわからないが。
賀澤は、教育長の法的措置構想の確認に板橋署に赴いたと思われる。
都教委よ、自ら判断されよ。 いちいち警察に赴いて相談ないし指示されるとはみっともないではないか。
石原が警視庁を配下に置き、その配下に都教委がいる構造となったと判断する。
本来、教育の場は警察と距離を置いてきた。 戦後のポポロ事件などが好例である。
それが段々と、何かあればすぐ警察を頼むと言った状況が生まれた。
学校の中に警察が入っても、何とも思わない風潮がでてきた。
学校の運営の協議の場に、警察の代表が派遣されてきたりする。
治安・逮捕感覚と教育の場の説得、指導感覚・理念は、まったく対極のものではなかったのか。
学校が次第に留置場、刑務所のようなところに変質しつつある。
規則に規則を重ね、違反が累積する者は放逐し、違反者は校内に指導と称して監禁し、絶対的な服従を要求する。
「もう二度といたしません、申し訳ありませんでした」というような文を、何百回とノート一冊に書かせるなど、これは拷問であろう。
昔、J高校にいた時、校則違反の生徒が、陽の当らぬ狭いところに押し込まれて、誰とも話すことを禁じられ一日、ただひたすらに勉強させられていた。
それをたまたま見た教育実習生が、蒼い顔をして言いに来た。
「あんなことさせてて、いいんですか。 ひどい」
まっとうな感覚であったのだ。
昔、T高校にいた時、ひとりの生徒が校長の指導に逆らった。 ことはそんな悪質なことではなく些細なことであった。
校長は、権威を傷つけられたと感じたのであろう厳しい処分を望んだ。
学年もその癖のある子がいなくなった方がいいと判断した。
長期の自宅謹慎に置いて、瑕疵を見つけ放校を狙った。
自宅に電話した時に電話に出ないと、自宅で勉強せずに遊び歩いている、つまり反省の態度に欠けるというのである。
無罪を主張したら、反省の念がないと見做される被告と何か雰囲気は似ている。
当局の目論見どおりに、一切の抵抗なく従えということである。
私は、校長と談判した。
その学年の授業はなく、どんな子なのか名前だけ聞かされるだけである。
やがての水曜日、退学が会議の議題にのぼるであろう。 何もわけわからずに、賛否の挙手は無理である。
「校長、そんなに悪い子ですか」
「そうだ」
「それじゃあ、私、本人に会って来ますよ」
「どうぞ」
というわけだ。
私は、もうひとり私と親しい教員の車に乗って、早稲田界隈に出かけて行った。
ひどい、実にひどいボロアパートである。 住民は、彼の一家しかなく、すべては廃屋の風情で、二階の奥に住んでいた。
戦後、我が家も築何十年かの大きなボロアパートの角の一室に住んでいた。
おお、俺の昔と同じだあ、妙な感慨があった。
小学生であった私は、放課後、「おまんち、どこだあ」とついてくる同級生をまいて帰った。
台風のときは道に面した土壁がどさっと落ちて、町の人が何人か集まって、指差してこっちを見ていた。
それが、座っている部屋の中から見えた。
だが事情ははるかに異なっていた。 親は、「なんとかなりませんでしょうか」と極めて低姿勢。
対して私、「いや、今日は私はどんな生徒であるか見に来ただけですから」と冷たく言い放つ。
しばし本人と話したが、さしてその他もろもろの子と変わらない普通の子に覚えた。
話し込んでいるうちに、私はショックを受けた。 小さな油虫の群れが徘徊している。
次々と現れては、私の方に向かってきては、横を通り抜けたりする。
情けないことに私は完全に意識が油虫のみに集中し出した。
うちもボロであったが、こんなことはなかった。 私は、そうそうに親の丁寧なお辞儀を背に受けて退散した。
水曜日がやってきた。 職員会議の日である。
私は、「会って来た」と発言を始めた。
学年担任団の一部から、猛然たる攻撃が開始された。
「担任、学年にも相談なしに、何でそういうことをするのか」と言うのである。
確かにそうではあるが、話をしていた玄関横の校長室から すぐに出かけたに過ぎない。
含むところは何にもなかったから気楽に考えて行動しただけであった。 まして、校長が「どうぞ」と言った。
校長は、担任数名の猛然たる発言に恐れをなしたのであろう。
「私は、どうぞなどと言ってない」と高言した。
がたがたごたごたした後、結果として退学賛成派は少数となり、彼はその後無事に卒業した。
「あんな、油虫がいる部屋に一日中監禁されるのはとても耐えられない」という私の話が効果あったように思う。
学校が、説得や指導の場でなく、絶対的服従に反逆する者を放逐する場に変質してきている。
昔、事件を起こした生徒のことで警察と話していた時には、「学校も大変でしょうが、退学にはしないでください、学校を追い出された連中は街で悪さするから」と言っていたが、今どうなっているのであろうか。
昨近の現場の教員の話を聞くと、学校がまさに「放逐の場」になっていると、そう思わざるをえない。
以前、両国高校を監獄高校と揶揄していた卒業生がいたが、都立高校の全般が監獄化しているような気がする。 杞憂であろうか。
都教委が校長を縛り、校長が教職員を縛り、教職員が生徒を縛る、縛りの3重構造である。
私の年の離れたかっての同僚は今も現役であるが、行く先々で校長から忌避され毎年のように転勤させられていた。
秋に、校長から「戦力外通告」というのをされるという。 ようするに来年あんたは不要だという通告である。
都立高校は、戦争でもやっているのか。
「それじゃ、受け取る側が拒否するんじゃないか」と聞くと、それがそうではないという。
校長にも、A~FかGか聞き洩らしたが、段階があって下の階が文句なく引き受ける構造になっているという。
となると、最低ランクの学校はいかなる事態になるのであろうか。
かって私は、北海道の釧路の近くの定時制高校に7年いたが、札幌とか函館とかの組合活動家がミサイルのように釧根地区へ飛ばされてきた。 通称、ミサイル人事と言った時代であった。
函館から飛ばされてきた男に、「希望地区は、どう書いたんだ」と聞いた。
彼は、「札幌以南だ」と答えた。
確かに、「白糠」は、緯度からいって札幌以南だ。
「なんだ、希望どおりじゃないか」と言って笑いあったことがある。
冗談だが、希望地区を緯度で区分けするとは、さすが北海道である。
結果、釧根支部は強くなってストに果敢に突入した。 今はどうなっているのであろうか。
毎年のように飛ばされる友人は、都立高校見学ツアーみたいなもんだと冗談を言っていたが。
昔々、愛媛県の組合が潰された時には、狙われた組合員は1年ごとに島から島へと飛ばされた。
2,3年いると、そこで仲間を作るからだという。 そんなに島があったのであろうか。
北千住近くの都立青井にいた時、横浜の方から飛ばされてきた教員がいた。
教員の勤務評定に反対して提出書類、自己申告書を出さなかったからである。
その間、実に多くの学校があるというのに。通勤手当の過大は、税金の浪費であろうに。
H高校の教員は、毎日夜遅くまで働き献身的に仕事をしていた。
ある日、女性校長に一言、つまらないことを言って不快にさせた。
結果、業績評価は「C」となって、給料が他の者より減額された。
私は昔彼と昵懇であったので、電話した。 「そんなことを気にするとは、お前には思想がないのだ」と。
彼は、「そうかもしれない」と答えた。 酷なことを言った。
「D」評価が付くと、場合によっては研修所に送られ、やがて退職に追い込まれるのだという。
社会全般の監獄化の進行なのであろう。
※ 顛末記の過去ログは、
顛末記(15) http://wind.ap.teacup.com/people/4393.html
顛末記(14) http://wind.ap.teacup.com/people/4367.html
顛末記(13) http://wind.ap.teacup.com/people/4323.html
顛末記(10)(11)(12)は欠番。
顛末記(9) http://wind.ap.teacup.com/people/4160.html
顛末記(8) http://wind.ap.teacup.com/people/4095.html
顛末記(7) http://wind.ap.teacup.com/people/4071.html
顛末記(6) http://wind.ap.teacup.com/people/4049.html
顛末記(5) http://wind.ap.teacup.com/people/4030.html
顛末記(4) http://wind.ap.teacup.com/people/4011.html
顛末記(3) http://wind.ap.teacup.com/people/3892.html
顛末記(2) http://wind.ap.teacup.com/people/3872.html
顛末記(1) http://wind.ap.teacup.com/people/3853.html
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