《子どもと教科書全国ネット21ニュース》
◆ 高校新科目「歴史総合」を批判する
-歴史教育・世界史教育を変質させてはならない-
◆ 「歴史教育の大きな転換」
次期学習指導要領で、高校の必修科目として「歴史総合」が新設される。中教審答申は、新科目「歴史総合」について「世界史必修を見直し、世界とその中における我が国を広く相互的な視野から捉えて、現代的な諸課題の形成に関わる近現代の歴史を考察する科目」としている。
毎日新聞は、社説(2016年12月25日付)で「歴史総合」を「近現代史を中心に内外の歴史と現在を重層的に学ぶ」科目だとし、解説記事の中で日本史が専門の大阪府立高校校長が「現場では日本史専門でも地理を教えることもある。新科目への抵抗感はない」とコメントしている。
読売新聞では、「歴史教育の大きな転換になるが、日本史と世界史のどちらの教員が教えるのかなど課題も多い」との解説がなされている(「毎日」「読売」の解説記事は12月22日付)。
はたして、「歴史総合」の新設で、どのような「歴史教育の大きな転換」となるのであろうか。学校現場には「新科目への抵抗感はない」のだろうか。
◆ 「我が国の歴史に対する愛情」の育成
周知のように中教審答申は、次期学習指導要領の柱を「何を学ぶか」(学習内容)から「何ができるようになるか」(資質・能力)に転換させた。「歴史総合」については、どのような「資質・能力」を求めているのであろうか。
中教審答申の内容を検討してきた教育課程企画特別部会の「論点整理」(2015年8月〉では、「特にこれからの時代に求められる」のは「グローバル化する中で世界と向き合おうことが求められている我が国においては、日本人としての美徳やよさ備えつつグロ一バルな視野で活躍するために必要な資質・能力の育成」だとした。
そして、新科目「歴史総合」について「我が国の伝統と向かい合いながら、自国のこととグローバルなことが影響しあったりつながったりする歴史の諸相を、近現代を中心学ぶ」科目と位置づけている。
こうした議論を経て、中教審答申は「育成を目指す資質・能力」が何であるかを規定し、その「育成」のために高校社会科(地理歴史科、公民科)では科目構成や教育内容を見直し、「歴史総合」「公共」などの新科目を創設した。
その「育成を目指す資質・能力」については、答申の別添資料で詳細に整理されている。「歴史総合」では、「学びに向かう力・人間性等能力」として「多面的・多角的な考察や深い理解を通して涵養される日本国民としての自覚、我が国の歴史に対する愛情」をあげている。グローバル化する中で「日本国民として自覚」「我が国の歴史に対する愛情」をもつ人材をいかに育成するのか、ここにこそ「歴史総合」という科目を新設する狙いがある。
◆ 「近代化」「大衆化」「グローバル化」で描く近現代史
「歴史総合」の最大の問題は、その近現代の歴史の構想のものにある。
「近代化」「大衆化」「グローバル」の3つのキーワードを使って、どのような近現代の歴史を描くというのだろうか。中教審答申には、次のような内容が示されている。
18世紀後半から現在までを「近代化と私たち」として「産業社会と国民国家の形成を背景として人々の生活や社会の在り方が変化したこと」を、19世紀後半から現在までを「大衆化と私たち」として「大衆の社会参加の拡大を背景として人々の生活や社会、国際関係の在り方が変化したこと」を、20世紀後半から現在までを「グローバル化と私たち」として「グローバル化する国際社会を背景として人々の生活や社会、国際関係の在り方が変化したこと」を扱う、という構成である。
別添資料には「単元例」や「考察を深める問いの事例」が示されている。
「近代化と私たち」では「日本・世界はどのように結びついたか」などを問い、「社会の近代化は何をもたらしたか」を「まとめ」とする。これでは「近代化」を達成した「我が国の歴史」がいかに優れていたのかという「近代化論」となってしまう。
「大衆化と私たち」では「なぜ戦争がすべての人々を巻き込むものになったか」などを問うが、帝国主義から二つの世界大戦の時代を「大衆化」のみで描くことには無理がある。また、戦後の世界を「グローバル化と私たち」で描くことも、例えば中東の歴史を単なる「地域紛争」として扱っていいのだろうか。
このように「歴史総合」が描こうとする近現代史は、私たちがこれまで追究してきた近現代史像とは大きく異なっている。
帝国主義の成立と植民地支配、二つの世界大戦とアジア・アフリカ諸国の独立、戦後世界の形成という基本的な流れを理解してこそ、歴史の変化や発展を捉えることができる。
そして、ファシズムと民主主義、日本の侵略と植民地支配などの歴史認識にかかわることや、「自国史と世界史」「東アジアの中の日本」といった視点からの近現代史学習がもっと重視されなければならない。「歴史総合」は、こうした歴史教育の到達点に立つことなく、歴史学の学問体系とほど遠いものになっている。
◆ 歴史教育のゆたかな財産の継承を
「歴史総合」の新設によって、戦後歴史教育、とりわけ世界史教育は大きな転換を迎える。
世界史を学ぶ生徒は激減する。例えば1年か2年で必修科目「歴史総合」となれば、3年での選択科目は「日本史探究」となるであろう。
大学受験を意識しない、ごく普通の生徒が世界史を学ぶ機会は圧倒的に少なくなる。世界史教育を終焉させてはならない。
「歴史総合」を誰が担当するのかも学校現場では深刻な問題である。「新科目への抵抗感はない」などというのは、現場・実情を知らないものの戯言に近い。
中教審答申は、「新しい科目の趣旨に沿った教材の開発や教員の養成・研修」や「特定の事柄を強調しすぎたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりする」ことなどの「偏った取扱い」にも言及している。
私たち学校現場が望むのは教材研究や授業づくりの時間が保障され、教師の専門性や教育の自由が大切にされることである。
戦後の歴史教育はさまざまな優れた実践生み出し、歴史教育と歴史学の在り方を論じてきた。今後、「歴史総合」のカリキュラムをどうするのかの論議がなされてくるが、戦後の歴史教育が創りだしてきたゆたかな財産を継承するためにも、新科目「歴史総合」への批判的検討がもっとなされる必要がある。
(かわいみきお)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 113号』(2017.4)
◆ 高校新科目「歴史総合」を批判する
-歴史教育・世界史教育を変質させてはならない-
河合美喜夫(歴史教育者協議会会員)
◆ 「歴史教育の大きな転換」
次期学習指導要領で、高校の必修科目として「歴史総合」が新設される。中教審答申は、新科目「歴史総合」について「世界史必修を見直し、世界とその中における我が国を広く相互的な視野から捉えて、現代的な諸課題の形成に関わる近現代の歴史を考察する科目」としている。
毎日新聞は、社説(2016年12月25日付)で「歴史総合」を「近現代史を中心に内外の歴史と現在を重層的に学ぶ」科目だとし、解説記事の中で日本史が専門の大阪府立高校校長が「現場では日本史専門でも地理を教えることもある。新科目への抵抗感はない」とコメントしている。
読売新聞では、「歴史教育の大きな転換になるが、日本史と世界史のどちらの教員が教えるのかなど課題も多い」との解説がなされている(「毎日」「読売」の解説記事は12月22日付)。
はたして、「歴史総合」の新設で、どのような「歴史教育の大きな転換」となるのであろうか。学校現場には「新科目への抵抗感はない」のだろうか。
◆ 「我が国の歴史に対する愛情」の育成
周知のように中教審答申は、次期学習指導要領の柱を「何を学ぶか」(学習内容)から「何ができるようになるか」(資質・能力)に転換させた。「歴史総合」については、どのような「資質・能力」を求めているのであろうか。
中教審答申の内容を検討してきた教育課程企画特別部会の「論点整理」(2015年8月〉では、「特にこれからの時代に求められる」のは「グローバル化する中で世界と向き合おうことが求められている我が国においては、日本人としての美徳やよさ備えつつグロ一バルな視野で活躍するために必要な資質・能力の育成」だとした。
そして、新科目「歴史総合」について「我が国の伝統と向かい合いながら、自国のこととグローバルなことが影響しあったりつながったりする歴史の諸相を、近現代を中心学ぶ」科目と位置づけている。
こうした議論を経て、中教審答申は「育成を目指す資質・能力」が何であるかを規定し、その「育成」のために高校社会科(地理歴史科、公民科)では科目構成や教育内容を見直し、「歴史総合」「公共」などの新科目を創設した。
その「育成を目指す資質・能力」については、答申の別添資料で詳細に整理されている。「歴史総合」では、「学びに向かう力・人間性等能力」として「多面的・多角的な考察や深い理解を通して涵養される日本国民としての自覚、我が国の歴史に対する愛情」をあげている。グローバル化する中で「日本国民として自覚」「我が国の歴史に対する愛情」をもつ人材をいかに育成するのか、ここにこそ「歴史総合」という科目を新設する狙いがある。
◆ 「近代化」「大衆化」「グローバル化」で描く近現代史
「歴史総合」の最大の問題は、その近現代の歴史の構想のものにある。
「近代化」「大衆化」「グローバル」の3つのキーワードを使って、どのような近現代の歴史を描くというのだろうか。中教審答申には、次のような内容が示されている。
18世紀後半から現在までを「近代化と私たち」として「産業社会と国民国家の形成を背景として人々の生活や社会の在り方が変化したこと」を、19世紀後半から現在までを「大衆化と私たち」として「大衆の社会参加の拡大を背景として人々の生活や社会、国際関係の在り方が変化したこと」を、20世紀後半から現在までを「グローバル化と私たち」として「グローバル化する国際社会を背景として人々の生活や社会、国際関係の在り方が変化したこと」を扱う、という構成である。
別添資料には「単元例」や「考察を深める問いの事例」が示されている。
「近代化と私たち」では「日本・世界はどのように結びついたか」などを問い、「社会の近代化は何をもたらしたか」を「まとめ」とする。これでは「近代化」を達成した「我が国の歴史」がいかに優れていたのかという「近代化論」となってしまう。
「大衆化と私たち」では「なぜ戦争がすべての人々を巻き込むものになったか」などを問うが、帝国主義から二つの世界大戦の時代を「大衆化」のみで描くことには無理がある。また、戦後の世界を「グローバル化と私たち」で描くことも、例えば中東の歴史を単なる「地域紛争」として扱っていいのだろうか。
このように「歴史総合」が描こうとする近現代史は、私たちがこれまで追究してきた近現代史像とは大きく異なっている。
帝国主義の成立と植民地支配、二つの世界大戦とアジア・アフリカ諸国の独立、戦後世界の形成という基本的な流れを理解してこそ、歴史の変化や発展を捉えることができる。
そして、ファシズムと民主主義、日本の侵略と植民地支配などの歴史認識にかかわることや、「自国史と世界史」「東アジアの中の日本」といった視点からの近現代史学習がもっと重視されなければならない。「歴史総合」は、こうした歴史教育の到達点に立つことなく、歴史学の学問体系とほど遠いものになっている。
◆ 歴史教育のゆたかな財産の継承を
「歴史総合」の新設によって、戦後歴史教育、とりわけ世界史教育は大きな転換を迎える。
世界史を学ぶ生徒は激減する。例えば1年か2年で必修科目「歴史総合」となれば、3年での選択科目は「日本史探究」となるであろう。
大学受験を意識しない、ごく普通の生徒が世界史を学ぶ機会は圧倒的に少なくなる。世界史教育を終焉させてはならない。
「歴史総合」を誰が担当するのかも学校現場では深刻な問題である。「新科目への抵抗感はない」などというのは、現場・実情を知らないものの戯言に近い。
中教審答申は、「新しい科目の趣旨に沿った教材の開発や教員の養成・研修」や「特定の事柄を強調しすぎたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりする」ことなどの「偏った取扱い」にも言及している。
私たち学校現場が望むのは教材研究や授業づくりの時間が保障され、教師の専門性や教育の自由が大切にされることである。
戦後の歴史教育はさまざまな優れた実践生み出し、歴史教育と歴史学の在り方を論じてきた。今後、「歴史総合」のカリキュラムをどうするのかの論議がなされてくるが、戦後の歴史教育が創りだしてきたゆたかな財産を継承するためにも、新科目「歴史総合」への批判的検討がもっとなされる必要がある。
(かわいみきお)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 113号』(2017.4)
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