<板橋高校卒業式> 杜撰きわまりない高裁判決!
☆☆ 偽証を見抜けない高裁判事は辞職せよ! ☆☆
★ 最高裁に『上告趣意書』を提出。 ★
■ 「最高裁に公正な判決を求める署名用紙」ダウンロード ↓ (PDFファイル)
http://www.sirobara.jp/090303fujita-syomei.pdf
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/18/dc3a15ede361ef9c28b1e9f50bd0fe42.jpg)
「メジロ」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
『藤田の日記』(「歌詞」「相似」)
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2009/05/21(木) 歌詞
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同じ曲でも歌詞が違っていたりする。
「国際学連の歌」
・・・学生の 歌声に 若き友よ 手をのべよ
輝く太陽 青空を ふたたび戦火で 乱すな・・・
・・・われら守る 平和の科学 豊かな幸を 民衆に・・・
前者は国際派が、後者は所感派が歌った。
学内、それぞれの部室で歌われたという。
所感派の歌詞は、生産力の視点が強いのであろうか。
しかし犠牲者が多く出たのは所感派である。
歌を聴けば、派閥が分かるというのも妙なものだ。
さらには、1960年頃には、所感派の歌詞が消えて国際派の歌詞だけになったのに対して、民青が違う歌詞で歌ったとか。
歌もセクトに翻弄されて大変だ。
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2009/04/06(月) 相似
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コーヒーを飲みながら前の歩道を見てたら、二人組の親子が次々と通っていった。この市のF高校の入学式がはねたのである。
母と娘が圧倒的に多い。よく似ている。
あの高校一年生の女の子も、あと20年とか30年したら隣を歩く母の姿になるのであろう。未来の自分の姿を携えて歩いていることになる。逆だと過去の自分の姿だ。
なにやら過去と未来の陳列のようで、春の日の午後の惑乱を覚える。
時に父母との三人組もある。
小学校の入学式は何も記憶にないが、それ以降、昔は親がきた記憶はない。
同級生で父親がいない子が大部いた。1941年、真珠湾前後の生まれだから多く父親が戦に倒れたのであろう。
小学校二、三年頃の井の頭公園への遠足の写真はまことにみすぼらしい姿であった。
1945年8月15日以降に生まれた連中は、親が戦渦を生き延びたと言うことにつきる。
間一髪の差でこの世に誕生したことになった者も多いであろう。
人生というのも妙なものだ。
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「メジロ」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
『藤田の日記』(「歌詞」「相似」)
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2009/05/21(木) 歌詞
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同じ曲でも歌詞が違っていたりする。
「国際学連の歌」
・・・学生の 歌声に 若き友よ 手をのべよ
輝く太陽 青空を ふたたび戦火で 乱すな・・・
・・・われら守る 平和の科学 豊かな幸を 民衆に・・・
前者は国際派が、後者は所感派が歌った。
学内、それぞれの部室で歌われたという。
所感派の歌詞は、生産力の視点が強いのであろうか。
しかし犠牲者が多く出たのは所感派である。
歌を聴けば、派閥が分かるというのも妙なものだ。
さらには、1960年頃には、所感派の歌詞が消えて国際派の歌詞だけになったのに対して、民青が違う歌詞で歌ったとか。
歌もセクトに翻弄されて大変だ。
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2009/04/06(月) 相似
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コーヒーを飲みながら前の歩道を見てたら、二人組の親子が次々と通っていった。この市のF高校の入学式がはねたのである。
母と娘が圧倒的に多い。よく似ている。
あの高校一年生の女の子も、あと20年とか30年したら隣を歩く母の姿になるのであろう。未来の自分の姿を携えて歩いていることになる。逆だと過去の自分の姿だ。
なにやら過去と未来の陳列のようで、春の日の午後の惑乱を覚える。
時に父母との三人組もある。
小学校の入学式は何も記憶にないが、それ以降、昔は親がきた記憶はない。
同級生で父親がいない子が大部いた。1941年、真珠湾前後の生まれだから多く父親が戦に倒れたのであろう。
小学校二、三年頃の井の頭公園への遠足の写真はまことにみすぼらしい姿であった。
1945年8月15日以降に生まれた連中は、親が戦渦を生き延びたと言うことにつきる。
間一髪の差でこの世に誕生したことになった者も多いであろう。
人生というのも妙なものだ。
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