パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

不時着ではなく墜落:回転翼=プロペラが2つ共、着陸モードではなく飛行モード

2016年12月19日 | 平和憲法
  たんぽぽ舎です。【TMM:No2960】2016年12月17日(土)地震と原発事故情報
 ◆ オスプレイ墜落事故の現場(名護市安部=あぶ)からの報告
千葉和夫(たんぽぽ舎会員)

 私は12月14日4時間、12月15日8時間と合わせて12時間ほど抗議活動と監視活動を展開しました
 オスプレイの墜落事故と原発の事故とはまるで同じ構図である。すなわち政府は「安全だ」と地元、国民に説明しあたかも事故等起こり得ないとの世論を作っていた。
 しかし現実に墜落事故は起きた。すると、一転して事故を軽く見せようと「不時着水」などと説明している。
 ◎  12月13日夜、私は墜落事故が起きた時、辺野古にいた
 次の日14日、早朝5時高江に向かう時、安部(あぶ)の村を車で通過した。ものすごい警察車両と米軍の車両が入り混じってまるで戦場のようだった。私たちの車もストップさせられ10数分停められた。明らかに現場は大混乱してた。
 高江の抗議集会を急遽、安部に移すことになり12時30分ころ安部に戻った。
 安部の海岸に激突したオスプレイは、時速500km(最大565km)つまり秒速140mで飛行する。安部の集落から墜落現場近くまで歩いてみたが300m位である、あと2~3秒早く落ちていたら(飛行向きによっては2~3秒遅く)、村は大きな被害にあっていたと思う。
 浜で会った村人は「村の上空を飛んで行きすぐに落ちた。スゴく怖かった」と話していた。
 一部報道では「着水、不時着」と言っているが、現場を見た印象ではまさに墜落である。
 約3m×2m×0.5mの破片が100m以上離れた所に飛んでいて米兵が5人で運んでいた。素人の判断だけれども壊れかけた回転翼=プロペラが2つ共、着陸モードではなく飛行モードになっている。
 つまり、機体の前方を向いている。着陸を試みたとは思えない!
 現場の状況、破片の回収状況からとても「不時着水」などと言えない。まさに大本営発表そのものだ。
 私が浜に到着したのは14日、13時前まだ機体の破片の回収は始まっていなかった。この時、私から10mの浜に墜落現場に行ったウエットスーツを着た米兵が2名ゴムボートで戻って来た。水際に立って、現場方向にむかって直立不動の姿勢で10数秒頭をたれ小さな敬礼をして去って行ったのが印象的だった。また、同機所属の普天間基地では星条旗が半旗になっているという情報がある。
 ◎ 私が墜落にもまして驚くことは次の2点である。
 1、沖縄米軍トップの四軍調整官は「パイロットは住宅や住民に被害をあたえなかった。感謝されるべきだ」と言ったことだ。まるで占領軍まる出しだ。
 それならば日本政府は「フライトレコーダーをすぐに渡してもらい」事故解析すべきだ。それが出来なければ、せめて日米共同で事故解析作業を進めるべきだ。
 それが独立国の当然の権利だと思う。いつものように“人為ミス”=機体に欠陥はない。で終わってしまう。
 2、次の日15日午前7時過ぎ安部の浜に到着、8時ごろ米軍が海岸、砂浜に50m(海岸線に沿い)×100m(陸側に向かい)規制ラインを敷いた。それを沖縄県警、機動隊約20名があたかも「米兵の指導」を受けるようなかたちで行なっていた。
 さらに、両側に黄色の幅8cmほどのテープで規制ラインを敷いた。直後から20~30分に一度、ゴムボートで米兵が機体の破片を運び規制ライン内に積み上げた。
 それと前後して辺野古ブルー(カヌーチーム)6隻+私たちのサポート船2隻が監視活動を開始した。11時30分ごろ現場に向かっていたカヌーチームが帰って来て、規制ゾーンの反対側に上陸した。
 (米軍のボートが見えないことを確認して)そこに昼食のおにぎりと水を届けようと2名の女性が砂浜を横断した。真ん中ぐらいまで行くと機動隊員が数名、猛然と走り寄り押さえつけ、大きく砂浜に投げ飛ばした。2人とも大きく飛び仰向けに転がった。
 そもそも、この浜に誰の指示、命令で規制区域を設置したのかも定かでない。
 新聞によると名護署は「一時的に残骸を浜に置くことは把握しているが米軍の規制線が張られていることは確認していない」とのコメントだった。
 そんなところで機動隊が米軍の指図で警護するのは?が何個もつくのではないか。

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