《『リベルテ』から》
◆ 『ルポ「日の丸・君が代」強制』の取材を通して感じたこと、学んだこと
記念講演 講師 永尾俊彦さん
◆ 日の丸・君が代強制の取材者になるまで
高校は小山台でした。入学後すぐ、2・3年生の先輩がいきなり昼休みに教室に入ってきて、団長という人がおもむろに教卓の前に立って「おめえら、運動会なめてんじゃねえぞ」とかすごむんです。一年生ですからみんなビビっちゃって、緊張して、女生徒なんかは泣き出しちゃう人もいるんですね。団長が「わかったな」と言ったら「オス」と言えって。
そういう非常に野蛮な学校に入ってしまいまして。私としてはそういう運動会の在り方に対して非常に反発をして、そんなものはファシズムだ全体主義的だと、仲間と批判をしてたんですね。
ところが、皆が一斉に何かやるということが快感であるというようなところがあって、一方では反発しながら、他方では憧れたりカッコいいと思ったりして、結局、その運動会、最終的には自ら立候補して補佐と呼ばれているリーダーの一人になっちゃった。
友達を裏切って補佐になったというのが今も恥ずかしくって、高校の同窓会にも一回も行ったことないんです。
部活というのが、先輩のいうことには絶対服従。そういう関係の中にいると先輩に尽くすのが、快感になるみたいな、倒錯した気持ちが出てきちやうんです。
戦争で部下が上官のために死ぬとか、武士が主君のために犠牲になるっていうのを美化するっていうのが、明治からの忠君愛国ってことにつながっていくんじゃないかなって思います。
大学卒業して新聞記者になるんですが、事件、事故に追われて厭になってやめちゃいまして、自分がやりたいテーマ、自然環境破壊とか、公害の問題とかを扱ってきました。
環境破壊の現場などでも地元の有力者に絶対逆らえないとか、農業土木の世界なんかも上意下達の掟に逆らうと天下りできなくなるとか、ファシズム的な、全体主義的なものがあるということを感じておりました。
そんな私に、2008年に、日の丸・君が代の取材の依頼があって、それ以来取材を続けて今日に至るわけです。
◆ 日の丸・君が代強制問題とは何か
学習指導要領が国旗掲揚、国歌斉唱を指導する、と89年度に改定され、それから2018年度までの30年間に996人も全国の教職員の方が戒告、減給、停職などの懲戒処分を受けている、法律上の処分ではない訓告なんかも含めると2257人もの方が処分されている。
これ戦後最大の思想弾圧事件と言っても過言ではないと思うんです。
当然生徒や保護者も立ちたくない人、歌いたくない人がいるわけで、そういう人たちの人権も弾圧されていると。そしてこういう弾圧を、はね返すことができなかったゆえに、日本学術会議の問題も起きたんじやないかなと考えています。
◆ なぜ戦後最大の思想弾圧事件になったのか
歴代政権と文科省は日の丸・君が代をてこに教育を支配してきたという歴史があります。
1958年に学習指導要領が法的拘束力を持つようにされた。
山崎政人さんという元毎日新聞の記者が、「自民党にとって望ましい人づくりを推進するために国の手に教育をがっちり握り、子どもたちに何を教えるかを厳しく統制しようとする政策意図をはっきりと示している」と書いています。
前川喜平さんは、日教組つぶしのために日の丸・君が代が使われたと、証言されていました。
◆ 財界も支持している
財界は戦後直後からいろんな提言を文部省、国に対して行っていまして、日の丸・君が代のことも何回も触れているようです。
やはり日の丸・君が代の強制というのは単なる復古主義ではなくて、金儲けにもつながっているんだと、とどのつまりは戦争ですよね、君が代強制と金儲けと戦争は三位一体ではないかなと感じております。
◆ 戦後教育の長く続く根本的対立点
取材させていただいた先生方が共通におっしゃっていたことが、自分の頭で考える人を育てるのか、国家や企業の役に立つ人材を育てるのかっていう対立点でした。
渡辺厚子さんは、自分が主役という意識を引き出すのが教師だと。そして三歩下がって産婆役、と。ところが、加藤良雄さんの言葉ですけど、今の都教委がしているのは自分の頭で考えるなということだと。大能清子さんは、都教委の目的は命令に従順な人間、つまり空気を読むとか付度ができる人間を作ることになってると。
その象徴が今回の総選挙の低投票率ですね、特に18歳19歳が低かった、そこから見て自民党のあるいは文科省の教育政策は彼らにとってはかなり成功しているんじやないかと感じます。
漱石の「三四郎」で、三四郎が「日露戦争に勝って一等国の仲間入りをしたから日本もだんだん発展していくでしょう」と言つたときに、広田先生は「滅びるね」と答えたという有名なくだりがありますね。
「滅びるね」って、漱石の慧眼だろうと思うんですけど、本当にまた滅びるんじゃないかなという気がしています。何によってかっていうと、教育によってと言えるんじゃないかと思うんです。
幣原喜重郎国務大臣が敗戦の1年後に「今回の敗戦を招いた原因は煎じ詰めますれば要するに教育の誤りによるもの」と断言しているんです。
教育によって国が間違ったというようなことが事実としてある。にもかかわらず今また同じ轍を踏もうとしている、と感じています。
◆ 日の丸・君が代を強制する側
蒋介石が1939年に「日本民衆に告ぐる書」の中で、板垣征四郎とか石原莞爾、東条英機ら強硬派が「天皇の龍袍(着物)の袖に隠れてやりたい放題やっている」と書いています。
現代の強硬派というのが、東京では石原慎太郎氏であり、大阪では橋下徹さんなんかじゃないかなと思うんです。
日の丸・君が代を使って教員の評価制度とか不適格教員の排除システム、それと鍋蓋からピラミッド型に職員の組織を変えていくという手法によって、これも渡辺厚子さんの指摘ですけど、教員の意識も無意識に従属的無責任になっちゃうんだと。子どもを支配して当然の意識にすると。
10・23通達と同じ年に七生養護学校の事件が起こっています。10・23通達が子どもたちの心を支配することだとすると、七生養護は体の支配というところに行くんじゃないかと。身も心も支配したいという異様な欲望が都教委にはあると感じています。
◆ 天皇制=儀式=同調圧力
そのために利用されているのが天皇制、これは結局「儀式」ということであり、同調圧力が使われると。
子どもたちは入学式で同調圧力で迎えられて、卒業式で同調圧力によって送り出されていく。
これは冷めて見ると、非常に滑稽な面がありまして、日の丸というのは単なる布ですよね。その布に、校長も来賓もペコペコ頭を下げている。
◆ 日の丸・君が代を強制する側の精神性
石原慎太郎さんとか橋下徹さん、松井一郎さん、小池百合子さん、安倍晋三さんは、従軍慰安婦なんかの戦争犯罪を認めないですね。被害者の身になることができなくって反省ができない。幼稚であって、品格が無くて、卑怯であると感じます。
それに対して、田中聡史さんは、我々の親世代が侵略した国々の方に対して、どう償うかということを考えなきゃいけないと。こういう態度こそ世界で尊敬されるのではないかと思うんです。
天皇制というのは、例えば叙勲制度で人間を価値づけして差別を作り出していると大阪の黒田伊彦さんは指摘されていました。
岡田明さんはクリスチャンなんですが、明治政府はキリスト教にヒントを得て、学校を天皇教の伝道の場にしていったんだと指摘されています。
◆ なぜ多くの人の関心をひかないのか
最高裁の判決が出て決着がついていると思われているのかなと。また、単なるマナーだと思わされているんじやないかということですね。
大阪の志水博子さんは、嫌なことは嫌だといっていいんだと言っていたのに、自分が起立斉唱してしまえば生徒に言ってきたことがウソになると考えたわけですね。
ところが「ウチのお母さんは嫌な客にも頭を下げる」と生徒は言ったそうなんです。教師の側の思いが全然理解されない。むしろ自分の偏った思想に生徒を利用していると非難すると。
マスコミが報道しないからですけれども、本当に残念でなりません。日の丸・君が代そのものにじゃなくて強制に反対しているということが理解されていないんじゃないかということもありますね。
◆ 国民の意識を呪縛する機能を果たしている国家神道と天皇制
神戸高専でエホバの証人の生徒が剣道の授業を拒否したために退学処分にされたことについて、最高裁は神戸高専が代替措置をとることが出来たのに取らなかったことを重視して、退学処分は裁量権の逸脱濫用で違法だと、判決を下しました。
ところが、日の丸・君が代の問題では代替措置ではなく間接制約説という怪しげな理論を立てている。
裁判官も日本人なら日の丸・君が代尊重するなんて当たり前でしょ、という意識にとらわれているというのが大阪の遠藤弁護士の見方でありまして、戦前の国家神道が今も意識の上では色濃く残っていると。地裁とか高裁の上には日の丸が翻っているのがその証左であると。
◆ どこに希望があるか
朝日新聞の世論調査で、不起立不斉唱の教師の処分に納得できないという人が65%いる。私としては意外だったんですけれど。
客観違憲論という、いわゆる立憲主義的アプローチ、主権者である国民に国家の側が敬意の表明を求めることはできないという論理はまだ判断されていません。
今まで確かに最高裁の判決が出ていますが、いずれも小法廷の判決なので、大法廷を開かせて、判例変更ができる可能性はあるんじゃないかと思います。
アメリカの最高裁で「政府は社会が不愉快だとかまたは賛同できないとか思うだけである考えの表現を禁止することはできない。国旗冒涜を処罰することは国旗を尊重させている、および尊重に値するようにさせている、まさにその自由それ自体を弱めることになる」という判決があって、この論理は素晴らしいと思ってもいます。
また、希望という点では、セアート勧告が出て対話する機会を設けうというようなことを言つていますね。
◆ 裁判で闘う意義
いろいろな形での提訴がなければ、都教委の「悪」はなかったことにされてしまうということですね。また、数々の証言が判決に反映されています。
生徒に与える影響というのも、希望といえるんじゃないかなと思いますね。根津公子さんの停職出勤を見ていた生徒が大学生になって、あの時根津さんがやってたことはこういうことだったのかとわかって、シールズに参加したというように。
◆ 最後に
今日いらっしゃってる皆さんの、きっと教え子の胸の中に、皆さんの行為は深く刻まれているんじゃないかなと思います。
私なんかは、ほんとにもし先生方の立場だったら、なんか適当な理屈つけて起立斉唱しちゃうんじやないかと思うんです。
それくらい過酷な処分、というか定年後も付きまとう。いないかのように透明人間にされていくという、取材していて本当に切ないと言いますか、どんなに苦しいだろうかなということを感じるわけです。
しかしながらそれが伝わってない、多くの人にわかってもらってないという、本当に残念だと思うんですけど、しかし素晴らしい教員の方たちに出会えて私としても取材者冥利に尽きると言いますか、何とか記録に残して見届けていきたいと思っています。
最後に、皆さんに最大限の敬意を表して終わりたいと思います。どうもありがとうございました。
『東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース リベルテ 第65号』(2022年2月24日)
◆ 『ルポ「日の丸・君が代」強制』の取材を通して感じたこと、学んだこと
記念講演 講師 永尾俊彦さん
◆ 日の丸・君が代強制の取材者になるまで
高校は小山台でした。入学後すぐ、2・3年生の先輩がいきなり昼休みに教室に入ってきて、団長という人がおもむろに教卓の前に立って「おめえら、運動会なめてんじゃねえぞ」とかすごむんです。一年生ですからみんなビビっちゃって、緊張して、女生徒なんかは泣き出しちゃう人もいるんですね。団長が「わかったな」と言ったら「オス」と言えって。
そういう非常に野蛮な学校に入ってしまいまして。私としてはそういう運動会の在り方に対して非常に反発をして、そんなものはファシズムだ全体主義的だと、仲間と批判をしてたんですね。
ところが、皆が一斉に何かやるということが快感であるというようなところがあって、一方では反発しながら、他方では憧れたりカッコいいと思ったりして、結局、その運動会、最終的には自ら立候補して補佐と呼ばれているリーダーの一人になっちゃった。
友達を裏切って補佐になったというのが今も恥ずかしくって、高校の同窓会にも一回も行ったことないんです。
部活というのが、先輩のいうことには絶対服従。そういう関係の中にいると先輩に尽くすのが、快感になるみたいな、倒錯した気持ちが出てきちやうんです。
戦争で部下が上官のために死ぬとか、武士が主君のために犠牲になるっていうのを美化するっていうのが、明治からの忠君愛国ってことにつながっていくんじゃないかなって思います。
大学卒業して新聞記者になるんですが、事件、事故に追われて厭になってやめちゃいまして、自分がやりたいテーマ、自然環境破壊とか、公害の問題とかを扱ってきました。
環境破壊の現場などでも地元の有力者に絶対逆らえないとか、農業土木の世界なんかも上意下達の掟に逆らうと天下りできなくなるとか、ファシズム的な、全体主義的なものがあるということを感じておりました。
そんな私に、2008年に、日の丸・君が代の取材の依頼があって、それ以来取材を続けて今日に至るわけです。
◆ 日の丸・君が代強制問題とは何か
学習指導要領が国旗掲揚、国歌斉唱を指導する、と89年度に改定され、それから2018年度までの30年間に996人も全国の教職員の方が戒告、減給、停職などの懲戒処分を受けている、法律上の処分ではない訓告なんかも含めると2257人もの方が処分されている。
これ戦後最大の思想弾圧事件と言っても過言ではないと思うんです。
当然生徒や保護者も立ちたくない人、歌いたくない人がいるわけで、そういう人たちの人権も弾圧されていると。そしてこういう弾圧を、はね返すことができなかったゆえに、日本学術会議の問題も起きたんじやないかなと考えています。
◆ なぜ戦後最大の思想弾圧事件になったのか
歴代政権と文科省は日の丸・君が代をてこに教育を支配してきたという歴史があります。
1958年に学習指導要領が法的拘束力を持つようにされた。
山崎政人さんという元毎日新聞の記者が、「自民党にとって望ましい人づくりを推進するために国の手に教育をがっちり握り、子どもたちに何を教えるかを厳しく統制しようとする政策意図をはっきりと示している」と書いています。
前川喜平さんは、日教組つぶしのために日の丸・君が代が使われたと、証言されていました。
◆ 財界も支持している
財界は戦後直後からいろんな提言を文部省、国に対して行っていまして、日の丸・君が代のことも何回も触れているようです。
やはり日の丸・君が代の強制というのは単なる復古主義ではなくて、金儲けにもつながっているんだと、とどのつまりは戦争ですよね、君が代強制と金儲けと戦争は三位一体ではないかなと感じております。
◆ 戦後教育の長く続く根本的対立点
取材させていただいた先生方が共通におっしゃっていたことが、自分の頭で考える人を育てるのか、国家や企業の役に立つ人材を育てるのかっていう対立点でした。
渡辺厚子さんは、自分が主役という意識を引き出すのが教師だと。そして三歩下がって産婆役、と。ところが、加藤良雄さんの言葉ですけど、今の都教委がしているのは自分の頭で考えるなということだと。大能清子さんは、都教委の目的は命令に従順な人間、つまり空気を読むとか付度ができる人間を作ることになってると。
その象徴が今回の総選挙の低投票率ですね、特に18歳19歳が低かった、そこから見て自民党のあるいは文科省の教育政策は彼らにとってはかなり成功しているんじやないかと感じます。
漱石の「三四郎」で、三四郎が「日露戦争に勝って一等国の仲間入りをしたから日本もだんだん発展していくでしょう」と言つたときに、広田先生は「滅びるね」と答えたという有名なくだりがありますね。
「滅びるね」って、漱石の慧眼だろうと思うんですけど、本当にまた滅びるんじゃないかなという気がしています。何によってかっていうと、教育によってと言えるんじゃないかと思うんです。
幣原喜重郎国務大臣が敗戦の1年後に「今回の敗戦を招いた原因は煎じ詰めますれば要するに教育の誤りによるもの」と断言しているんです。
教育によって国が間違ったというようなことが事実としてある。にもかかわらず今また同じ轍を踏もうとしている、と感じています。
◆ 日の丸・君が代を強制する側
蒋介石が1939年に「日本民衆に告ぐる書」の中で、板垣征四郎とか石原莞爾、東条英機ら強硬派が「天皇の龍袍(着物)の袖に隠れてやりたい放題やっている」と書いています。
現代の強硬派というのが、東京では石原慎太郎氏であり、大阪では橋下徹さんなんかじゃないかなと思うんです。
日の丸・君が代を使って教員の評価制度とか不適格教員の排除システム、それと鍋蓋からピラミッド型に職員の組織を変えていくという手法によって、これも渡辺厚子さんの指摘ですけど、教員の意識も無意識に従属的無責任になっちゃうんだと。子どもを支配して当然の意識にすると。
10・23通達と同じ年に七生養護学校の事件が起こっています。10・23通達が子どもたちの心を支配することだとすると、七生養護は体の支配というところに行くんじゃないかと。身も心も支配したいという異様な欲望が都教委にはあると感じています。
◆ 天皇制=儀式=同調圧力
そのために利用されているのが天皇制、これは結局「儀式」ということであり、同調圧力が使われると。
子どもたちは入学式で同調圧力で迎えられて、卒業式で同調圧力によって送り出されていく。
これは冷めて見ると、非常に滑稽な面がありまして、日の丸というのは単なる布ですよね。その布に、校長も来賓もペコペコ頭を下げている。
◆ 日の丸・君が代を強制する側の精神性
石原慎太郎さんとか橋下徹さん、松井一郎さん、小池百合子さん、安倍晋三さんは、従軍慰安婦なんかの戦争犯罪を認めないですね。被害者の身になることができなくって反省ができない。幼稚であって、品格が無くて、卑怯であると感じます。
それに対して、田中聡史さんは、我々の親世代が侵略した国々の方に対して、どう償うかということを考えなきゃいけないと。こういう態度こそ世界で尊敬されるのではないかと思うんです。
天皇制というのは、例えば叙勲制度で人間を価値づけして差別を作り出していると大阪の黒田伊彦さんは指摘されていました。
岡田明さんはクリスチャンなんですが、明治政府はキリスト教にヒントを得て、学校を天皇教の伝道の場にしていったんだと指摘されています。
◆ なぜ多くの人の関心をひかないのか
最高裁の判決が出て決着がついていると思われているのかなと。また、単なるマナーだと思わされているんじやないかということですね。
大阪の志水博子さんは、嫌なことは嫌だといっていいんだと言っていたのに、自分が起立斉唱してしまえば生徒に言ってきたことがウソになると考えたわけですね。
ところが「ウチのお母さんは嫌な客にも頭を下げる」と生徒は言ったそうなんです。教師の側の思いが全然理解されない。むしろ自分の偏った思想に生徒を利用していると非難すると。
マスコミが報道しないからですけれども、本当に残念でなりません。日の丸・君が代そのものにじゃなくて強制に反対しているということが理解されていないんじゃないかということもありますね。
◆ 国民の意識を呪縛する機能を果たしている国家神道と天皇制
神戸高専でエホバの証人の生徒が剣道の授業を拒否したために退学処分にされたことについて、最高裁は神戸高専が代替措置をとることが出来たのに取らなかったことを重視して、退学処分は裁量権の逸脱濫用で違法だと、判決を下しました。
ところが、日の丸・君が代の問題では代替措置ではなく間接制約説という怪しげな理論を立てている。
裁判官も日本人なら日の丸・君が代尊重するなんて当たり前でしょ、という意識にとらわれているというのが大阪の遠藤弁護士の見方でありまして、戦前の国家神道が今も意識の上では色濃く残っていると。地裁とか高裁の上には日の丸が翻っているのがその証左であると。
◆ どこに希望があるか
朝日新聞の世論調査で、不起立不斉唱の教師の処分に納得できないという人が65%いる。私としては意外だったんですけれど。
客観違憲論という、いわゆる立憲主義的アプローチ、主権者である国民に国家の側が敬意の表明を求めることはできないという論理はまだ判断されていません。
今まで確かに最高裁の判決が出ていますが、いずれも小法廷の判決なので、大法廷を開かせて、判例変更ができる可能性はあるんじゃないかと思います。
アメリカの最高裁で「政府は社会が不愉快だとかまたは賛同できないとか思うだけである考えの表現を禁止することはできない。国旗冒涜を処罰することは国旗を尊重させている、および尊重に値するようにさせている、まさにその自由それ自体を弱めることになる」という判決があって、この論理は素晴らしいと思ってもいます。
また、希望という点では、セアート勧告が出て対話する機会を設けうというようなことを言つていますね。
◆ 裁判で闘う意義
いろいろな形での提訴がなければ、都教委の「悪」はなかったことにされてしまうということですね。また、数々の証言が判決に反映されています。
生徒に与える影響というのも、希望といえるんじゃないかなと思いますね。根津公子さんの停職出勤を見ていた生徒が大学生になって、あの時根津さんがやってたことはこういうことだったのかとわかって、シールズに参加したというように。
◆ 最後に
今日いらっしゃってる皆さんの、きっと教え子の胸の中に、皆さんの行為は深く刻まれているんじゃないかなと思います。
私なんかは、ほんとにもし先生方の立場だったら、なんか適当な理屈つけて起立斉唱しちゃうんじやないかと思うんです。
それくらい過酷な処分、というか定年後も付きまとう。いないかのように透明人間にされていくという、取材していて本当に切ないと言いますか、どんなに苦しいだろうかなということを感じるわけです。
しかしながらそれが伝わってない、多くの人にわかってもらってないという、本当に残念だと思うんですけど、しかし素晴らしい教員の方たちに出会えて私としても取材者冥利に尽きると言いますか、何とか記録に残して見届けていきたいと思っています。
最後に、皆さんに最大限の敬意を表して終わりたいと思います。どうもありがとうございました。
『東京・教育の自由裁判をすすめる会ニュース リベルテ 第65号』(2022年2月24日)
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