■行事迫間チラシ配布について
昨年立ち上げたばかりの有志の会では、小石川の行事週間に、会の活動を紹介し署名をお願いするチラシを配布しました。
行事週間は9月でしたが、その夏には小石川の中学で使用する歴史教科書として扶桑社版のものが採択されたこと、そのような教科書が採択されたことの意味を私達がどのように捉えているかを、現役の高校生や保護者に伝えたいという願いから決定した行動でした。
会員の皆さんのご協力で行った配布でしたが、チラシを直接手から手へ渡す時に確かな手ごたえを感じることができました。
今年も同じように、校内でチラシ配布をしたいと考えていましたが、都立高校に対する管理・統制が強化される一方であるという状況に加えて、さらに今年は中学生を迎えて初めての行事週間ということで都教委の管理と監視は昨年以上に厳しくなることが予想されました。
そのような中では、校内での配布が、都教委による管理をさらに強める口実に使われる可能性も予想されました。これは避けなければならない、と世話人会では考えました。
何とか少しでも小石川らしさを失わないように、と努力されているはずの現場の教職員の方たちの妨げになるようなことは、有志の会として望むことではないからです。
そのようなわけで、今年は、学校の中には立ち入らず、校門の外でチラシ配布を行うことになりました。
以下は、それぞれの担当者からの報告です。(複数の方が報告してくれた日もあります。1行空けてご紹介します。)
17日(日)芸能祭
二人は正門外に左右に別れ、一人は交差点寄りの入口前で、それぞれ配布しました。遠慮しながら敷地内で行うより、むしろさっぱりしていて、全然不自由は感じませんでした。
受け取り拒否は100枚中、男女各2~3名。来訪者(保護者やその連れ)に意外に受け取ってもらえたわけです。
「有難うございます」と言ってくれた方も数名おり、嬉しい驚き!最後近く、8人ほとのグループでみえた内のお一人が話しかけて来ました。
「小石川有志が教科書反対運動をしているとは聞いていたが、連絡方法がわからなかった。教科書作りに携わっていたので関心があります」とのこと。この方、勉強会に出てくれるそうで、一同大いに喜びあいました。
ビラも完配したので、心も軽く帰途についた次第です。サインはV!!!
18日(月)芸能祭
途中、小雨が降ったりしましたが、作日より少々時間がかかって配布終了。私の印象では良く受け取ってくれた方だと思います。
保護者も「教科書問題をやっている方ですか!ご苦労様です。」と言ってくださったカもいました。でも、小学生連れのご夫婦の中には、身体を避けて通り過ぎる人もいて、残念な気分も受けました。
チラシ配布の後少しの時間、芸能祭を覗きました。
校内はここ数年と同じ様な熱気に濡れ、二日目、最後を飾った体操部のダンスは、拍手がなりやまないほどでした。
娘の話では、3年生のクラスで出場したコーラスは、歌声がこんなに感動的かと思うほど感動的だったそうです。
21日(木)体育祭
芸能祭で既に受け取った人もいて「前にもらいました」と言って断る人もありました。
12時35分から「応援合戦」が始まったので、1時頃には出入りする人が途絶えてしまいました。
前日とは打って変わって「ピーカン」の晴天でしたので、「1年分の日焼け」をしそうな暑さの中で3人で配布しました。配った後「応援合戦」を見学しました。
可愛らしい中学生もちらほら見える中、「青春」を感じさせる演技が繰り広げられていました。
懐かしさがこみ上げてきました。昨年と違って、EFGHは高校2年3年だけになってしましました。
校庭に並ぶ生徒の数もABCDとは人数が明らかに違っています。体育祭委員も苦労をして、4組に分ける方法で今回は乗り切ったようです。EFGHが見られるのも、来年までですね。
応援合戦も騎馬戦も、大ムカデも例年通り行われましたが、来年はどうなるのでしょう。
23日(土)創作展
20日体育祭での226枚配布に引き続いて、23日の創作展では残りの174枚を配布(1時間半くらいで)。合計400枚をすべて手渡してきました。
体育祭は来校者のほとんどが在校生の保護者でしたが、創作展では小学生連れのお父さん、お母さんがとても多かったのにはピックリ!中学受験への関心が非常に高いことに驚きました。
少し風が強かったのですが、爽やかな秋風で気持ちの良い午後でした。無視や拒否はほとんどなく、快く受け取ってもらったことを感謝を持って報告します。
午前中は紫友会館で、同窓会のミニ創作展手伝い、昔からの卒業写真、戦前の校舎模型、私達が通った建替え前の校舎のイラスト等が展示されました。
そんな方違も、小石川を愛する気持ちは一緒。多くの方々に、私達の運動も理解していただきたいと思いました。
校内は、ポスター、呼び込み、ここ数年とは大きな変化は感じませんでしたが、校内のリニューアル工事がまだ終わっていないので、普段より少し暗い感じは受けました。
クラス全員で夏休みを通して(受験勉強そっちのけは、昔と一緒)準備した、劇の発表に全力を傾けています。
中等1年生は、展示による研究発表。その後、同じクラスの保護者と懇談で出た話。
わが子は、毎日楽しく学校が一番好きと言って(勉強はともかく)過ごした、この3年間は貴重だっとの感想が出ました。
24日(日)創作展
小学生を連れたお母さんに手渡ししたのですが、「私は子供たちに、日本人としての誇りをもってもらいたいと思っている」との話が始まり、「日本人は民度が低い。「知能が低い」と言い、最後、「私は受け付けない」と言って立ち去っていきました。
1時集合で2時には200枚の配布が終わりましたが、今回は昨年とは学校の雰囲気も、子供連れの保護者の方々に対しても、ずいぶんと違和感を感じました。明確に受け取りを拒否する方が相当数いました。
卒業生です、と言ってやっと受け取ってもらえたり、舌打ちしながらこんなことやってんだ!すれ違いざまに言われたりして…
配布し終わっても、むなしい気持ちでへこんでしまいました。
■読者からの手紙
1947年「都立五中」修了の大先輩清水正嗣さんが、「『九条の会』アピールを支持する医師・医学者の会」(九条の会・医療者の会)の会報に寄せられた文章を、清水さんの承諾をいただいて転載します。
大分医大で長く教えられた後、現在もお忙しい立場にいらっしゃりながら、九条の会・医療者の会の呼びかけ人をされるなど、活躍なさっています。
1930年代後半の小学校教育から考える9条平和憲法と教育基本法
清水正嗣(26B)
1936年2月26日の東京は寒くて朝から雪、居間の窓から見た小さな庭には雪が相当に降り積もっていた。当時、5歳だった清水は、4歳年長の姉が小学校に行って間もなくして帰宅したのに同席。
その時の姉の言葉は、「外には兵隊さんが一杯いて、学校はもうおしまいと云うことで帰ってきた。」であった。
これが、東京におけるファシスト青年将校達の決起、斉藤実内大臣と高橋是清蔵相殺害の暴挙の始まりで、これは、清水が子供ながらに意識させられた日本国軍部のクーデターであった。
この有名な事件は、日本の政治の乱れをただすという将校達の言い分を天皇の名の下に、その御親政を守るという口実で始められた。
同時に、これを制圧した政府側も、天皇への反逆として軍事裁判で迅速かつ冷酷に決着をつけた。
両者とも、絶対的天皇制下日本改革擁護のためと称して行われたものであった。その全ては、旧憲法の「天皇」記載で始まる大日本帝国憲法に基づいていた。
この2・26事件の翌年、1937年7月7日、盧溝橋事件PRのもとに日本帝国主義の全面的中国侵略戦争が開始された。
その年に小学校入学であったから、清水の小学校教育は日支事変と称した日中戦争開戦と共に始められた。
毎月一回、校長が恭しく紫の布包みから取り出して読み聞かせたのが教育勅語。
勅語朗読の後、校長の話が毎回変わり映えせずに長時間続けられた。閉め切った講堂で長時間立たされているうちに、換気が悪いから脳貧血で倒れる生徒が数人、清水もその中に屡含まれて衛生室に運ばれた。
当時の教育は、勅語の暗唱、君が代斉唱に始まり進められていった。勅語といっても教育勅語はまだ短いからよい。昭和15(1940)年頃だされた「青少年学徒に賜りたる勅語」になると相当に長い。これと併せて124代昭和天皇に至るまでの天皇名の暗記も教育された。
最も長かったのは、1941年12月8日太平洋侵略戦争開始の「宣戦の詔勅」。ナチの原語名に合わせ、小学校が改称された国民学校5年生の時、1日で暗唱できるようにせよとの担任N先生の命令の下、家の風呂の中で暗唱練習をした記憶が蘇る。
此処まで、自分の義務教育の経過を振り返ってみると、戦争に始まり、その拡大悪化とともに破滅に進んでいった。その戦争を仕組み、実践させたものが大日本帝国(戦争)憲法。
今、平和憲法・九条を古いの何のと言って改変しようとする企みが進められているが、それは、米国と一緒の別称イラク戦争参加から世界全面戦争に協力どころか全面参加しようとするもの。そのための憲法改悪、すなわち日本戦争憲法への変質、確立が最終目標。
それを目指している人達が、更に教育勅語の代わりとして作りたいのが、教育基本法の改悪新版であろうことは、自分の受けた義務教育から、はっきりしてくる。
「過去に冒を閉ざすものは、同じ過ちを犯す」とする独大統領ワイツゼッカーの言葉を引くまでもなく、日本のみんなが手を合わせ、少なくとも圧倒的過半数の人々と意志、行動を同じくして、9条を持った平和憲法を守り抜く努力を進めよう。
『小石川・有志の会』
http://www.k-yuusi.jp/
昨年立ち上げたばかりの有志の会では、小石川の行事週間に、会の活動を紹介し署名をお願いするチラシを配布しました。
行事週間は9月でしたが、その夏には小石川の中学で使用する歴史教科書として扶桑社版のものが採択されたこと、そのような教科書が採択されたことの意味を私達がどのように捉えているかを、現役の高校生や保護者に伝えたいという願いから決定した行動でした。
会員の皆さんのご協力で行った配布でしたが、チラシを直接手から手へ渡す時に確かな手ごたえを感じることができました。
今年も同じように、校内でチラシ配布をしたいと考えていましたが、都立高校に対する管理・統制が強化される一方であるという状況に加えて、さらに今年は中学生を迎えて初めての行事週間ということで都教委の管理と監視は昨年以上に厳しくなることが予想されました。
そのような中では、校内での配布が、都教委による管理をさらに強める口実に使われる可能性も予想されました。これは避けなければならない、と世話人会では考えました。
何とか少しでも小石川らしさを失わないように、と努力されているはずの現場の教職員の方たちの妨げになるようなことは、有志の会として望むことではないからです。
そのようなわけで、今年は、学校の中には立ち入らず、校門の外でチラシ配布を行うことになりました。
以下は、それぞれの担当者からの報告です。(複数の方が報告してくれた日もあります。1行空けてご紹介します。)
17日(日)芸能祭
二人は正門外に左右に別れ、一人は交差点寄りの入口前で、それぞれ配布しました。遠慮しながら敷地内で行うより、むしろさっぱりしていて、全然不自由は感じませんでした。
受け取り拒否は100枚中、男女各2~3名。来訪者(保護者やその連れ)に意外に受け取ってもらえたわけです。
「有難うございます」と言ってくれた方も数名おり、嬉しい驚き!最後近く、8人ほとのグループでみえた内のお一人が話しかけて来ました。
「小石川有志が教科書反対運動をしているとは聞いていたが、連絡方法がわからなかった。教科書作りに携わっていたので関心があります」とのこと。この方、勉強会に出てくれるそうで、一同大いに喜びあいました。
ビラも完配したので、心も軽く帰途についた次第です。サインはV!!!
18日(月)芸能祭
途中、小雨が降ったりしましたが、作日より少々時間がかかって配布終了。私の印象では良く受け取ってくれた方だと思います。
保護者も「教科書問題をやっている方ですか!ご苦労様です。」と言ってくださったカもいました。でも、小学生連れのご夫婦の中には、身体を避けて通り過ぎる人もいて、残念な気分も受けました。
チラシ配布の後少しの時間、芸能祭を覗きました。
校内はここ数年と同じ様な熱気に濡れ、二日目、最後を飾った体操部のダンスは、拍手がなりやまないほどでした。
娘の話では、3年生のクラスで出場したコーラスは、歌声がこんなに感動的かと思うほど感動的だったそうです。
21日(木)体育祭
芸能祭で既に受け取った人もいて「前にもらいました」と言って断る人もありました。
12時35分から「応援合戦」が始まったので、1時頃には出入りする人が途絶えてしまいました。
前日とは打って変わって「ピーカン」の晴天でしたので、「1年分の日焼け」をしそうな暑さの中で3人で配布しました。配った後「応援合戦」を見学しました。
可愛らしい中学生もちらほら見える中、「青春」を感じさせる演技が繰り広げられていました。
懐かしさがこみ上げてきました。昨年と違って、EFGHは高校2年3年だけになってしましました。
校庭に並ぶ生徒の数もABCDとは人数が明らかに違っています。体育祭委員も苦労をして、4組に分ける方法で今回は乗り切ったようです。EFGHが見られるのも、来年までですね。
応援合戦も騎馬戦も、大ムカデも例年通り行われましたが、来年はどうなるのでしょう。
23日(土)創作展
20日体育祭での226枚配布に引き続いて、23日の創作展では残りの174枚を配布(1時間半くらいで)。合計400枚をすべて手渡してきました。
体育祭は来校者のほとんどが在校生の保護者でしたが、創作展では小学生連れのお父さん、お母さんがとても多かったのにはピックリ!中学受験への関心が非常に高いことに驚きました。
少し風が強かったのですが、爽やかな秋風で気持ちの良い午後でした。無視や拒否はほとんどなく、快く受け取ってもらったことを感謝を持って報告します。
午前中は紫友会館で、同窓会のミニ創作展手伝い、昔からの卒業写真、戦前の校舎模型、私達が通った建替え前の校舎のイラスト等が展示されました。
そんな方違も、小石川を愛する気持ちは一緒。多くの方々に、私達の運動も理解していただきたいと思いました。
校内は、ポスター、呼び込み、ここ数年とは大きな変化は感じませんでしたが、校内のリニューアル工事がまだ終わっていないので、普段より少し暗い感じは受けました。
クラス全員で夏休みを通して(受験勉強そっちのけは、昔と一緒)準備した、劇の発表に全力を傾けています。
中等1年生は、展示による研究発表。その後、同じクラスの保護者と懇談で出た話。
わが子は、毎日楽しく学校が一番好きと言って(勉強はともかく)過ごした、この3年間は貴重だっとの感想が出ました。
24日(日)創作展
小学生を連れたお母さんに手渡ししたのですが、「私は子供たちに、日本人としての誇りをもってもらいたいと思っている」との話が始まり、「日本人は民度が低い。「知能が低い」と言い、最後、「私は受け付けない」と言って立ち去っていきました。
1時集合で2時には200枚の配布が終わりましたが、今回は昨年とは学校の雰囲気も、子供連れの保護者の方々に対しても、ずいぶんと違和感を感じました。明確に受け取りを拒否する方が相当数いました。
卒業生です、と言ってやっと受け取ってもらえたり、舌打ちしながらこんなことやってんだ!すれ違いざまに言われたりして…
配布し終わっても、むなしい気持ちでへこんでしまいました。
■読者からの手紙
1947年「都立五中」修了の大先輩清水正嗣さんが、「『九条の会』アピールを支持する医師・医学者の会」(九条の会・医療者の会)の会報に寄せられた文章を、清水さんの承諾をいただいて転載します。
大分医大で長く教えられた後、現在もお忙しい立場にいらっしゃりながら、九条の会・医療者の会の呼びかけ人をされるなど、活躍なさっています。
1930年代後半の小学校教育から考える9条平和憲法と教育基本法
清水正嗣(26B)
1936年2月26日の東京は寒くて朝から雪、居間の窓から見た小さな庭には雪が相当に降り積もっていた。当時、5歳だった清水は、4歳年長の姉が小学校に行って間もなくして帰宅したのに同席。
その時の姉の言葉は、「外には兵隊さんが一杯いて、学校はもうおしまいと云うことで帰ってきた。」であった。
これが、東京におけるファシスト青年将校達の決起、斉藤実内大臣と高橋是清蔵相殺害の暴挙の始まりで、これは、清水が子供ながらに意識させられた日本国軍部のクーデターであった。
この有名な事件は、日本の政治の乱れをただすという将校達の言い分を天皇の名の下に、その御親政を守るという口実で始められた。
同時に、これを制圧した政府側も、天皇への反逆として軍事裁判で迅速かつ冷酷に決着をつけた。
両者とも、絶対的天皇制下日本改革擁護のためと称して行われたものであった。その全ては、旧憲法の「天皇」記載で始まる大日本帝国憲法に基づいていた。
この2・26事件の翌年、1937年7月7日、盧溝橋事件PRのもとに日本帝国主義の全面的中国侵略戦争が開始された。
その年に小学校入学であったから、清水の小学校教育は日支事変と称した日中戦争開戦と共に始められた。
毎月一回、校長が恭しく紫の布包みから取り出して読み聞かせたのが教育勅語。
勅語朗読の後、校長の話が毎回変わり映えせずに長時間続けられた。閉め切った講堂で長時間立たされているうちに、換気が悪いから脳貧血で倒れる生徒が数人、清水もその中に屡含まれて衛生室に運ばれた。
当時の教育は、勅語の暗唱、君が代斉唱に始まり進められていった。勅語といっても教育勅語はまだ短いからよい。昭和15(1940)年頃だされた「青少年学徒に賜りたる勅語」になると相当に長い。これと併せて124代昭和天皇に至るまでの天皇名の暗記も教育された。
最も長かったのは、1941年12月8日太平洋侵略戦争開始の「宣戦の詔勅」。ナチの原語名に合わせ、小学校が改称された国民学校5年生の時、1日で暗唱できるようにせよとの担任N先生の命令の下、家の風呂の中で暗唱練習をした記憶が蘇る。
此処まで、自分の義務教育の経過を振り返ってみると、戦争に始まり、その拡大悪化とともに破滅に進んでいった。その戦争を仕組み、実践させたものが大日本帝国(戦争)憲法。
今、平和憲法・九条を古いの何のと言って改変しようとする企みが進められているが、それは、米国と一緒の別称イラク戦争参加から世界全面戦争に協力どころか全面参加しようとするもの。そのための憲法改悪、すなわち日本戦争憲法への変質、確立が最終目標。
それを目指している人達が、更に教育勅語の代わりとして作りたいのが、教育基本法の改悪新版であろうことは、自分の受けた義務教育から、はっきりしてくる。
「過去に冒を閉ざすものは、同じ過ちを犯す」とする独大統領ワイツゼッカーの言葉を引くまでもなく、日本のみんなが手を合わせ、少なくとも圧倒的過半数の人々と意志、行動を同じくして、9条を持った平和憲法を守り抜く努力を進めよう。
『小石川・有志の会』
http://www.k-yuusi.jp/
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