◆ 《信濃毎日新聞》憲法事件を歩く 理念と現実のはざまで（47）

　　＝第５部１９条　思想及び良心の自由は、これを侵してはらならない＝
　◆ 日の丸・君が代強制訴訟（上）
　　　「長野勤評」最高裁判決ヒントに予防訴訟

編集委員　渡辺秀樹

　安倍晋三元首相の国葬が行われた９月２７日午後。国会議事堂正門前で開かれた抗議集会の１万人を超える人波の中に、元都立高校教諭の片山むぎほ（73）＝東京都練馬区＝はいた。弔意の強制や同調圧力が起きかねない国葬の実施に、２０年近く前に体験した君が代斉唱の強制が重なった。思想・信条の自由が再び侵される。その危機感から反対の声を上げた。

　〈国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われることを、教職員に周知すること〉

　石原慎太郎都政下の２００３年１０月２３日付で、都立学校長あてに発せられた都教委教育長通達（１０・２３通達）。入学、卒業式などで君が代を起立斉唱しない教職員は処分することを明記していた。事実上の強制に教育現場の動揺が広がった。
　「日の丸・君が代」強制の動きは、その１４年前の１９８９年学習指導要領改定から始まった。
　「儀式などを行う場合には（中略）、国旗を掲揚し、国歌を斉唱させることが望ましい」とされていた部分が「入学式や卒業式などにおいては（中略）国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と書き換えられた。「儀式」が具体的に特定され「国歌斉唱」などが義務化されたのだ。

　これを契機に、文部省（当時）は都道府県教委への指導を強めていく。９９年２月には卒業式を前に、広島県教委の君が代斉唱指示と、これに反対する教諭たちの間に挟まれた県立世羅高校長が自殺。
　政府は、日の丸（日章旗）、君が代に法的根拠を持たせるため国旗国歌法を制定、同年８月に施行した。ただ、当時の野中広務官房長官は「強要するものではない」と国会答弁していた。
　にもかかわらず同省は法制定を奇貨として働きかけを強め、全国的にも君が代斉唱の実施率が低かった東京都の教育委員会は０３年７月、実施徹底に向けて対策本部を設置。通達、校長の職務命令、従わない教員の処分－という流れが確実になっていた。

　当時、都立志村高校の教諭だった片山が、君が代斉唱に反対したのは、天皇制や侵略戦争の象徴だったからだけではない。
　長女が重度の心身障害児として生まれた。養護学校の入学式では車いすに乗ってみんなの温かい拍手に迎えられ、片山は涙が止まらなかった。「そこには強制される旗も歌もなかった。一人一人の成長を願うのが教育の原点。画一的、強制的に行うものではない」
　勤務先の高校で迎える卒業式では起立斉唱しないと決めていた。

　このまま座して処分を待つしかないのか。その前に何とかする方法はないかー。
　片山は高校時代の友人で、独協大の教育法学の教授だった市川須美子（72）＝現名誉教授＝に相談した。
　訴訟は、事が起きて権利が侵害されてから起こすのが一般的。日の丸・君が代問題でもこれまでは起立斉唱に従わない場合、懲戒処分を受け、人事委員会に不服申請。棄却されると処分取り消しを求める行政訴訟を起こして闘ってきた。
　だが、入学、卒業式は毎年巡ってくる。抵抗の姿勢を貫けば処分されるたびに提訴を繰り返さなければならない。

　「先制的に闘う方法はないか」。市川に浮かんだのは、当時から３０年余前の１９７２年に出された「長野勤評事件」最高裁判決だった。
　教職員の勤務評定で、校長のほか教職員にも自己評価を求める長野県教委通達に対し、県高教組が思想・表現の自由を保障した憲法に反し、記入しなければ不利益処分を受ける恐れがあるとして記入義務不存在の確認を求めた訴訟。
　最高裁は「義務違反の責めを負うことが確実ではない」と訴え自体は退けたが、こう判示していた。

〈義務の履行によって侵害を受ける権利の性質、侵害の程度、違反に対する不利益処分の確実性などに照らし、処分を受けてから訴訟で事後的に義務の存否を争ったのでは回復しがたい重大な損害を被る恐れがある場合は別として〉

　市川は、最高裁調査官（判事の審理を補佐する裁判官）の解説も読み、確信した。
　「起立・斉唱義務不存在の確認訴訟（予防訴訟）でいける」
　この時の判断がやがて注目すべき判決を生むことになる。（敬称略）

『信濃毎日新聞』（２０２２年１１月２０日）

『リベルテ 69号【特別付録】』