◎ D-4,「表現の自由」の国際標準に照らして本件を検討する
規約19条に関しては『一般的意見34』(*5)が公表されているので、本件を当てはめてみることにする。
(1) 一般的意見34の当てはめ
① 19条1項に関わって「意見を持つ自由」の侵害の有無
A,「意見の自由」と「表現の自由」は共に、重要な権利であること(パラ2)
元教員の藤田さんは、学校の儀式で日の丸・君が代の強制は行うべきではないという「意見」を持っていた。このこと自体1つの重要な権利である。
この問題は、前年都教委が「10・23通達」(*既出4)を発出して教職員に強制したため世の中の注目を集める社会的関心事となっていた。「日の丸・君が代」は、戦前、天皇主権と侵略戦争のシンボルであったため、儀式などで一律に強制することには今日もなお国民の中に強い抵抗があり、規約18条違反と考えられる。
B,「意見」を理由とした迫害は許されない(パラ9,10)
藤田さんが、刑事罰を科された理由は意見の内容ではなく、意見表明の態様が理由だとされている。
一方で「10・23通達」発出以降、毎年「日の丸・君が代」の強制に反対する意見を持つ教職員が不起立不斉唱不伴奏を理由に不利益処分を科されており、その数は本年4月に累積450名に達し、別に多くの裁判が提訴されている(*6)。
これら一連の、「日の丸・君が代」強制に反対する教員や元教員への内容中立規制を装った制裁は、実質的に特定の意見に対する迫害となっており、規約上許されない言論弾圧である。
C,「旗やシンボルに敬意を払わないこと」は、処罰を科すにふさわしくない事例の一つであること(パラ38)
『一般的意見34』の「特定分野における表現の自由に対する制限の限定的範囲」の具体例の1つとして、パラ38に「旗やシンボルに敬意を払わないこと」があげられており、「日の丸・君が代」に起立斉唱という形で敬意を払うことに反対する意見を表明したことに対して制裁を科すことが許されないのは明らかである。
② 19条2項に関わって「意見を表現する自由」の侵害の有無
A,意見を表現する様々な形態の保障(パラ11,12)
藤田さんが保護者に呼びかけた方法は、都教委の政策を批判する週刊誌のコピーを配付し、前方から1分弱穏やかな口調でお願いしただけである。壇上に上がったわけでもマイクを使ったわけでもなく、誰かに暴力を振るったり財産を破壊したりしたわけでもない。内容も、卒業式に直接関係する真面目なものだった。
藤田さんが校長から退席を求められた時に抗議したことを、ことさら「大声」をあげたと強調するのは、本来の訴えの内容と関係ないことを意図的に取り上げているのであり、卒業式本体への影響は、開始が約2分遅れたこと以外何も立証されていないし、卒業式は近来稀な感動的なものとして参加者から歓迎されたのであった。
このような藤田さんの、コピー配布及び呼びかけ行為は、許される「表現形態」の一つである。
③ 19条3項に関わって締約国は「人権制限の要件」を満たしているか
A,人権制限が許されるのは、19条3項の(a),(b)の2つの限定的な領域に限られる。(パラ21)
ア、(a)他者の権利または信用の尊重(パラ28)
藤田さんのケースで「他者」とは、校長・来賓・保護者であろう。まず、校長は式典を円滑に執り行う権限を有するが、それは公権力の行使であって、個人の権利とは言えない。次に、藤田さんと意見を異にする保護者・来賓の中には、藤田さんの意見表明に不快感を抱く人がいたかも知れないが、意見表明は保護者・来賓の起立斉唱行為を妨害しておらず、権利侵害は発生していない。従って他者の権利が侵害された事実はない。
イ、(b)国の安全(パラ30)
学校の儀式の場で「日の丸・君が代」強制に反対する意見を表明することが、「国の安全」を損なうとは到底考えられないが、もしそうだと言うのなら、その証明を行う義務は締約国にある。(パラ27)
ウ、(b)公の秩序(パラ31)
公の秩序維持のために権利を規制するには、検証が必要であるとされる。原注68のコールマン対オーストラリアの先例では、「人に脅威を与え不当に破壊的である」か、「公共の秩序を危険にさらした」か、検証の結果、規制は許されないと裁定されている。
藤田さんのケースはこの事例と類似するので、次項において個別に検討を加えるが、保護者へのコピー配布や呼びかけは、他者に脅威を与えたり、卒業式を危険にさらしたりしたものではなかったことは明らかである。。
エ、(b)道徳の保護(パラ32)
「道徳の保護」に関して、「単一の伝統のみに由来することのない原則」に基づく可きことが示されている。
このことから考えれば、卒業式という「儀式」において起立斉唱によって国旗国歌に敬意を表する行為は、わが国の古来の伝統の「儀礼的所作」の一つかもしれないが、それに対する批判的な考え方も意見の自由として保護されなければならず、単一の伝統が一律に強制されることは許されないはずである。
もし「儀式における秩序」を理由に「人権」を制限できるのであるとすれば、「秩序」と「権利」とが逆転していると言わなければならない。
以上、従って、藤田さんの意見表明の権利が、19条3項の(a)(b)を理由に制限される根拠は見当たらない。
B,藤田さんに対する公権力による権利制限は3つの要件を満たしているか(パラ22)
ア、第1の要件は「法律により定められていること」である。(パラ24,パラ25)
日本には、パラ24に示されているような「表現の自由」を制限する具体的な要件を定めた法律は存在しない。そのかわりに「公共の福祉」概念が、万能の人権制限要件の如く用いられており、そのことがD-3で詳しく触れたように、また前回の総括所見(*前掲1)パラ10でも指摘されているように、大きな問題なのである。
イ、第2の要件は「正しい目的」である。(パラ26~32)
19条3項の(a)(b)のいずれの目的にも該当しないことは、前項A,で見た通りである。仮に「儀式の円滑な進行」が正当な目的であったとしても、それだけで人権制限を合理化することは許されない。本件裁判では、19条3項の厳格な要件への当てはめは一切行われていないし、目的と制裁手段との利益の均衡の検討もなされていない。もしも行政当局に藤田さんの批判的言論を封じる意図があったとするなら、それこそ「規約の規定、意図、目的」から大きく外れる「口封じの正当化」(パラ23)だと言わなければならない。
ウ、第3の要件は「必要性と比例原則」である。(パラ33、パラ34、パラ35、パラ36)
パラ33で示されている「必要性」の要件は満たされていない。そもそも藤田さんは卒業式が始まる前に退席したから式典への直接の影響はなかった。
行政当局は、「他に取り得る必要最小限の措置」(パラ34)を検討した形跡もなければ、「表現と脅威の間に直接的かつ切迫した因果関係の証明」(パラ35)もなされていない。
刑事訴追は、「守られるべき利益に比例した最小限の規制方法」(パラ34)にも当たらない。それどころか、わずか2分間の開式の遅れに対して刑事罰を以て報いるのは、表現の自由よりも「旗とシンボル」が不可侵としているかのごとくである。日本国憲法において不可侵なのは「国歌国歌」ではなく「基本的人権」だけである(憲法11条、97条)。
本件裁判において厳格な審査が全く行われなかったことは、本件最高裁判決について日弁連会長が、「表現行為の憲法上の重要性との厳密な利益衡量」がなされていないと指摘していることでも明白である(*7)。
従って、その後の刑事訴追と有罪判決は不必要で過剰な制裁であった(パラ47)。
以上、藤田さんに対する人権制約は、「法律」「目的」「必要」の3つの要件のどれ一つとして満たしているとは到底言えず、藤田さんに対する刑事罰は不相応に過剰である。
(2) 「表現の自由」に関わる、個人通報の先例から
フォルホーフ教授が『第1意見書』(前掲*2)で引用した、本件との類似性が高い個人通報の先例の中から、代表的なものをピックアップし対比してみる。
① Coleman 対 オーストラリア (*8)
A,事案の概略
1998年12月20日、通報者は通行モールで、一般の人に向かって許可なく、権利に関する法案、言論の自由等の主題についておよそ15~20分間大声で話した。彼はクイーンズランド市条例違反として告訴され、不法な演説をしたかどで有罪判決を受けた。
「言論の自由に対する憲法違反にあたる」と彼は主張したが、2002年6月26日、高等裁判所は、特別上告許可を求める不服申し立てを否定した。
B,自由権規約委員会裁定
7.3 通報者の言論の自由への制限が本件で必要だったことを示すべきであるのは当事国の側であると、委員会は指摘する。(略)。本件では、通報者は公共の利益にかかわる問題について公衆に向かって演説した。委員会に提出された証拠資料では、通報者の演説は人に脅威を与え不当に破壊的であること、あるいはモールの公共の秩序を危険にさらしたかもしれないことを何ら示唆するものではない。実際、現場の警察官は通報者の演説を中断させることなく、ビデオをとりながら彼が演説を続けることを許していた。(略)。通報者の行為に対応する当事国の反応は不適切であり、規約19条3項と合致しない通報者の言論の自由への制限になったと委員会は判断する。したがって、規約19条2項違反が存在する。
C,フォルホーフ第1意見書(前掲*2)
ICCPR第19条の影響の本質は、国内刑法の規定の適用が、たとえ法律で定められ、第19条(3)の正当な目的のひとつに該当していても、公権力による干渉が不相応または不必要とみなされる場合には、表現の自由に対する権利の侵害とみなし得るということです。
D,板橋高校卒業式事件との関連
コールマン氏と藤田氏との共通点は、第1に両方とも「公共の利益に関わる問題」についての言論活動であり、第2に両方とも人に「脅威を与え」るような「不当に破壊的なもの」ではなかったことである。
急迫の危険のない例証として、コールマン氏の場合、現場の警察官が演説を中断させることなくビデオ撮影を行っていたことがあげられている。同様に藤田氏の場合は監視役に派遣されていた指導主事がコピー配布並びに呼びかけ行為中にそれを中断させることなくICレコーダで録音をしており、急迫の危険のない例証の共通点としてあげることができる。
②板橋高校卒業式事件のケースと対比して
フォルホーフ教授は『第1意見書』(前掲*2)で、上記の引用も含めて、自由権規約19条違反の先例12件、欧州人権条約10条違反17件を引用した上で、要約すれば以下のように結論づけている。
本件の実情に照らせば、藤田氏の訴追と有罪判決を正当化するのに十分な「緊急の社会的必要性」がなかったことは明らかであり、刑事罰は不必要かつ不相応な制裁で、ICCPR第19条およびECtHR第10条に基づいて保障される国際人権規約の違反とみなされる。
この過剰な制裁は、藤田氏自身のみならず、この問題に関する公の論議にかかわるその他の人々、および一般的な意味での公の論議や政治的論議に参加する人々に対しても重大な萎縮効果を持ち、民主主義自体を危うくするような、民主主義に有害なものといえる。
(続)
※カウンターレポート全文のPDFファイル
http://wind.ap.teacup.com/people/html/20130722itabashicounterreport.pdf
規約19条に関しては『一般的意見34』(*5)が公表されているので、本件を当てはめてみることにする。
(1) 一般的意見34の当てはめ
① 19条1項に関わって「意見を持つ自由」の侵害の有無
A,「意見の自由」と「表現の自由」は共に、重要な権利であること(パラ2)
元教員の藤田さんは、学校の儀式で日の丸・君が代の強制は行うべきではないという「意見」を持っていた。このこと自体1つの重要な権利である。
この問題は、前年都教委が「10・23通達」(*既出4)を発出して教職員に強制したため世の中の注目を集める社会的関心事となっていた。「日の丸・君が代」は、戦前、天皇主権と侵略戦争のシンボルであったため、儀式などで一律に強制することには今日もなお国民の中に強い抵抗があり、規約18条違反と考えられる。
B,「意見」を理由とした迫害は許されない(パラ9,10)
藤田さんが、刑事罰を科された理由は意見の内容ではなく、意見表明の態様が理由だとされている。
一方で「10・23通達」発出以降、毎年「日の丸・君が代」の強制に反対する意見を持つ教職員が不起立不斉唱不伴奏を理由に不利益処分を科されており、その数は本年4月に累積450名に達し、別に多くの裁判が提訴されている(*6)。
これら一連の、「日の丸・君が代」強制に反対する教員や元教員への内容中立規制を装った制裁は、実質的に特定の意見に対する迫害となっており、規約上許されない言論弾圧である。
C,「旗やシンボルに敬意を払わないこと」は、処罰を科すにふさわしくない事例の一つであること(パラ38)
『一般的意見34』の「特定分野における表現の自由に対する制限の限定的範囲」の具体例の1つとして、パラ38に「旗やシンボルに敬意を払わないこと」があげられており、「日の丸・君が代」に起立斉唱という形で敬意を払うことに反対する意見を表明したことに対して制裁を科すことが許されないのは明らかである。
② 19条2項に関わって「意見を表現する自由」の侵害の有無
A,意見を表現する様々な形態の保障(パラ11,12)
藤田さんが保護者に呼びかけた方法は、都教委の政策を批判する週刊誌のコピーを配付し、前方から1分弱穏やかな口調でお願いしただけである。壇上に上がったわけでもマイクを使ったわけでもなく、誰かに暴力を振るったり財産を破壊したりしたわけでもない。内容も、卒業式に直接関係する真面目なものだった。
藤田さんが校長から退席を求められた時に抗議したことを、ことさら「大声」をあげたと強調するのは、本来の訴えの内容と関係ないことを意図的に取り上げているのであり、卒業式本体への影響は、開始が約2分遅れたこと以外何も立証されていないし、卒業式は近来稀な感動的なものとして参加者から歓迎されたのであった。
このような藤田さんの、コピー配布及び呼びかけ行為は、許される「表現形態」の一つである。
③ 19条3項に関わって締約国は「人権制限の要件」を満たしているか
A,人権制限が許されるのは、19条3項の(a),(b)の2つの限定的な領域に限られる。(パラ21)
ア、(a)他者の権利または信用の尊重(パラ28)
藤田さんのケースで「他者」とは、校長・来賓・保護者であろう。まず、校長は式典を円滑に執り行う権限を有するが、それは公権力の行使であって、個人の権利とは言えない。次に、藤田さんと意見を異にする保護者・来賓の中には、藤田さんの意見表明に不快感を抱く人がいたかも知れないが、意見表明は保護者・来賓の起立斉唱行為を妨害しておらず、権利侵害は発生していない。従って他者の権利が侵害された事実はない。
イ、(b)国の安全(パラ30)
学校の儀式の場で「日の丸・君が代」強制に反対する意見を表明することが、「国の安全」を損なうとは到底考えられないが、もしそうだと言うのなら、その証明を行う義務は締約国にある。(パラ27)
ウ、(b)公の秩序(パラ31)
公の秩序維持のために権利を規制するには、検証が必要であるとされる。原注68のコールマン対オーストラリアの先例では、「人に脅威を与え不当に破壊的である」か、「公共の秩序を危険にさらした」か、検証の結果、規制は許されないと裁定されている。
藤田さんのケースはこの事例と類似するので、次項において個別に検討を加えるが、保護者へのコピー配布や呼びかけは、他者に脅威を与えたり、卒業式を危険にさらしたりしたものではなかったことは明らかである。。
エ、(b)道徳の保護(パラ32)
「道徳の保護」に関して、「単一の伝統のみに由来することのない原則」に基づく可きことが示されている。
このことから考えれば、卒業式という「儀式」において起立斉唱によって国旗国歌に敬意を表する行為は、わが国の古来の伝統の「儀礼的所作」の一つかもしれないが、それに対する批判的な考え方も意見の自由として保護されなければならず、単一の伝統が一律に強制されることは許されないはずである。
もし「儀式における秩序」を理由に「人権」を制限できるのであるとすれば、「秩序」と「権利」とが逆転していると言わなければならない。
以上、従って、藤田さんの意見表明の権利が、19条3項の(a)(b)を理由に制限される根拠は見当たらない。
B,藤田さんに対する公権力による権利制限は3つの要件を満たしているか(パラ22)
ア、第1の要件は「法律により定められていること」である。(パラ24,パラ25)
日本には、パラ24に示されているような「表現の自由」を制限する具体的な要件を定めた法律は存在しない。そのかわりに「公共の福祉」概念が、万能の人権制限要件の如く用いられており、そのことがD-3で詳しく触れたように、また前回の総括所見(*前掲1)パラ10でも指摘されているように、大きな問題なのである。
イ、第2の要件は「正しい目的」である。(パラ26~32)
19条3項の(a)(b)のいずれの目的にも該当しないことは、前項A,で見た通りである。仮に「儀式の円滑な進行」が正当な目的であったとしても、それだけで人権制限を合理化することは許されない。本件裁判では、19条3項の厳格な要件への当てはめは一切行われていないし、目的と制裁手段との利益の均衡の検討もなされていない。もしも行政当局に藤田さんの批判的言論を封じる意図があったとするなら、それこそ「規約の規定、意図、目的」から大きく外れる「口封じの正当化」(パラ23)だと言わなければならない。
ウ、第3の要件は「必要性と比例原則」である。(パラ33、パラ34、パラ35、パラ36)
パラ33で示されている「必要性」の要件は満たされていない。そもそも藤田さんは卒業式が始まる前に退席したから式典への直接の影響はなかった。
行政当局は、「他に取り得る必要最小限の措置」(パラ34)を検討した形跡もなければ、「表現と脅威の間に直接的かつ切迫した因果関係の証明」(パラ35)もなされていない。
刑事訴追は、「守られるべき利益に比例した最小限の規制方法」(パラ34)にも当たらない。それどころか、わずか2分間の開式の遅れに対して刑事罰を以て報いるのは、表現の自由よりも「旗とシンボル」が不可侵としているかのごとくである。日本国憲法において不可侵なのは「国歌国歌」ではなく「基本的人権」だけである(憲法11条、97条)。
本件裁判において厳格な審査が全く行われなかったことは、本件最高裁判決について日弁連会長が、「表現行為の憲法上の重要性との厳密な利益衡量」がなされていないと指摘していることでも明白である(*7)。
従って、その後の刑事訴追と有罪判決は不必要で過剰な制裁であった(パラ47)。
以上、藤田さんに対する人権制約は、「法律」「目的」「必要」の3つの要件のどれ一つとして満たしているとは到底言えず、藤田さんに対する刑事罰は不相応に過剰である。
(2) 「表現の自由」に関わる、個人通報の先例から
フォルホーフ教授が『第1意見書』(前掲*2)で引用した、本件との類似性が高い個人通報の先例の中から、代表的なものをピックアップし対比してみる。
① Coleman 対 オーストラリア (*8)
A,事案の概略
1998年12月20日、通報者は通行モールで、一般の人に向かって許可なく、権利に関する法案、言論の自由等の主題についておよそ15~20分間大声で話した。彼はクイーンズランド市条例違反として告訴され、不法な演説をしたかどで有罪判決を受けた。
「言論の自由に対する憲法違反にあたる」と彼は主張したが、2002年6月26日、高等裁判所は、特別上告許可を求める不服申し立てを否定した。
B,自由権規約委員会裁定
7.3 通報者の言論の自由への制限が本件で必要だったことを示すべきであるのは当事国の側であると、委員会は指摘する。(略)。本件では、通報者は公共の利益にかかわる問題について公衆に向かって演説した。委員会に提出された証拠資料では、通報者の演説は人に脅威を与え不当に破壊的であること、あるいはモールの公共の秩序を危険にさらしたかもしれないことを何ら示唆するものではない。実際、現場の警察官は通報者の演説を中断させることなく、ビデオをとりながら彼が演説を続けることを許していた。(略)。通報者の行為に対応する当事国の反応は不適切であり、規約19条3項と合致しない通報者の言論の自由への制限になったと委員会は判断する。したがって、規約19条2項違反が存在する。
C,フォルホーフ第1意見書(前掲*2)
ICCPR第19条の影響の本質は、国内刑法の規定の適用が、たとえ法律で定められ、第19条(3)の正当な目的のひとつに該当していても、公権力による干渉が不相応または不必要とみなされる場合には、表現の自由に対する権利の侵害とみなし得るということです。
D,板橋高校卒業式事件との関連
コールマン氏と藤田氏との共通点は、第1に両方とも「公共の利益に関わる問題」についての言論活動であり、第2に両方とも人に「脅威を与え」るような「不当に破壊的なもの」ではなかったことである。
急迫の危険のない例証として、コールマン氏の場合、現場の警察官が演説を中断させることなくビデオ撮影を行っていたことがあげられている。同様に藤田氏の場合は監視役に派遣されていた指導主事がコピー配布並びに呼びかけ行為中にそれを中断させることなくICレコーダで録音をしており、急迫の危険のない例証の共通点としてあげることができる。
②板橋高校卒業式事件のケースと対比して
フォルホーフ教授は『第1意見書』(前掲*2)で、上記の引用も含めて、自由権規約19条違反の先例12件、欧州人権条約10条違反17件を引用した上で、要約すれば以下のように結論づけている。
本件の実情に照らせば、藤田氏の訴追と有罪判決を正当化するのに十分な「緊急の社会的必要性」がなかったことは明らかであり、刑事罰は不必要かつ不相応な制裁で、ICCPR第19条およびECtHR第10条に基づいて保障される国際人権規約の違反とみなされる。
この過剰な制裁は、藤田氏自身のみならず、この問題に関する公の論議にかかわるその他の人々、および一般的な意味での公の論議や政治的論議に参加する人々に対しても重大な萎縮効果を持ち、民主主義自体を危うくするような、民主主義に有害なものといえる。
(続)
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